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【在庫に生かされた時間の話】

「はじめに」


いきなりこんな話をするのも何だが、拙著『夕映えのホライゾンブルー』は、かつて遺作となる予定であった。遺作(仮)である。

こう書くと非常に雲行きが怪しいと思うので先に断っておくが、何も自ら死を選ぼうと思ってのことではない。断じて。私のすべての推しコンテンツに誓って断言する。

そもそも、読みたい最新の小説も、漫画も、遊びたいゲームも山ほどある生き物(つまりそれはオタクだ)が、自ら死ぬことなど、余程のことがない限り出来はしないのである。その上、最新作はどんどん出る。より死ねない。寧ろ世界の新しい、面白いコンテンツをひとつでも多く消費するために、長生きしなければならない宿命なのだ。
「できるなら長生きしたいし、まったくもって死にたくはない。だが、このままだと残念ながら死ぬかもしれん」と思い、大学の卒業制作をとりあえず仮の遺作としようと定めた。大学3回生の秋のことである。


「割り箸を綺麗に割れる神様になれそうだった就活時代」


大学3回生のころ、私を含む同回生の学生は、卒業制作(私が通ったのは芸術大学だったため、卒業論文ではなく卒業制作が4年間の集大成だった)と就職活動を同時に進めていた。
早々に企業に内定をもらい、卒業制作に全力投球する学生も多少いる中で、私は就職活動が微塵もうまくいっていない層の1人だった。

履歴書を書くことに苦労し、面接も自信がなく、学内で行われていた就職対策のセミナーを片っ端から受けていた。勿論、すべて苦手分野である。私は電話が怖かったし、面接はもっと怖かった。そして何より、自分が社会に必要な人材だと到底思えず、自分が社会人となる未来は何一つ具体的にイメージ出来なかった。

今思うと、アルバイトを一度もしたことがなかったから、余計にそう思ったのかもしれない。いくつかの書類審査不合格の知らせと、稀に通った企業の面接不合格の知らせ。どれもこれも「獅子狩様の今後のご活躍をお祈り申し上げます」といった文章で締め括られている。所謂お祈りメールだ。
こんなにあちこちから祈られていると、そのうち物凄くショボい神様にでもなれまいかと思えてきた。もし私がショボい神様になるとしたら、「お参りしたら、しばらく割り箸を綺麗に割れるようにしてくれる神様」とかになりたいと思う。当然、需要はないだろう。


「幽体離脱している未来予想図」


手書きの履歴書の作製中に胃痛と吐き気を催すようになり「もうそろそろ、自分の人生は残り少ないのだな」と確信した。別に、これしきの体調不良で人間が死ぬとは思っていなかった。そうではなく、社会不適合であるが故に、死ぬのだと思っていた。

野生の生き物が天敵に食べられる様子を、よく「弱肉強食の世界」という。シマウマがライオンに噛みつかれ息絶える一部始終がテレビに映り「可哀想に見えますが、これが自然界の現実、弱肉強食の世界なのです」といった感じのナレーションが入る番組を、幼い頃にときどき目にした記憶がある。
不合格を知らせる簡素なメールが届く度、高架下でうつ伏せに倒れて朝日を浴びる、架空の人物の姿が何となく脳内に浮かび「可哀想に見えますが、これが人間界の現実、弱肉強食の世界なのです」と整ったナレーションが入る。何とも稚拙な想像だが、それは就職活動が長引き、周りが次々に社会人になるための及第点、内定を手にするにつれリアリティを増し、いつしか自分の姿によく似てきて、大学卒業前には自分の最後の姿にしか見えなくなった。

自分の視点なのに自分を眺めているなど、何故当時の自分はおかしいと思わなかったのだろう。一人称小説であれば、幽体離脱でもしなければならない要素だ。

就職活動が成功しなかった場合、大学を卒業後は自動的にニートという存在カテゴリーに当てはめられる。
その後しばらくは両親の脛を齧れたとしても、いずれは家を追い出され、どこかで野垂れ死ぬのだろう。それは薄暗く穏やかな未来予想図であり、いつかそんな日を迎えるのだろうと信じて疑わなかった。今思い返すと「いや疑えよ」案件である。

「遺作(仮)の決定」


そこで問題となるのが、遺作だ。
自分の葬式代の捻出、更に散らかし尽くした我が汚部屋の処分を業者に依頼せねばならないだろう問題も頭をよぎったが、私は当時小説家を目指していたし、今も相変わらずそうである。だから1番の問題は遺作だった。

就職活動の成功はないだろうと感じた私は、ごく自然な流れで先程の稚拙な未来予想図を思い「であれば、もうじきくる終わりのために、今書いている卒業制作を仮に遺作としよう」と思い至った。
普通、遺作というものは、作者が亡くなってから自動的に決まるものである。作者の最新の、あるいは最後の作品が遺作なのだ。間違っても、作者が「私の遺作はこれにします」と決めるものではない。
当時は何一つ疑問に思わなかったが、これは頭がおかしいの権化だ。もういちいち突っ込まないが、色々とおかしい。

ちなみに、当時これが遺作(仮)であることは、誰に対しても内緒であった。そんなことを言って、この遺作(仮)の評価が、純粋な作品に対しての評価にならなくなるのでは困るからである。
作品の評価と作者の人生は、無関係なのだ。


「一人で勝手に計画してしまう愚か者の巻」


私が通った大学の学科は、芸術大学の中にあって絵を描かず、彫刻を彫らず、小説や雑誌記事、評論などの文章コンテンツの書き方を学ぶ学科であった。そのため特に何の問題もなく、卒業制作に小説を提出することができた。

卒業制作の執筆には、当たり前だが当時の私の全力を尽くした。そして遺作となるのであれば1人でも多くの他者に読んでもらわねば意味がないと文庫本を販売することに決め、挿絵や表紙絵を、絵を描く学科所属の同級生に依頼した。
卒業制作の展示(小説や論文はあまり展示向きではないが、展示は必須項目であった)も、できるだけのことをしようと計画していた。結果としては、力量不足で何一つ満足にできなかったし不発に終わったのだが。
学科の方でも卒業制作の計画は練られており、その年は全員が文庫本を製作・販売するのだと全体指示を受けた。私は既に勝手に本を売ろうと準備を進めていたことを学科側に白状し、幸いにも同級生に依頼した挿絵・表紙絵の使用を認められた。それは類い稀な幸いであったと思う。勝手な真似をするなと、使用を許可されない可能性もあったはずだ。そうならなかったのは、運が良かったとしかいいようがない。


「50部の注文をかけたところ『お金はあるのか』と確認の電話が来た」


大学生活において、私はあらゆる事情からアルバイトをしたことがなかった。事情もあったが、そもそも自分の働きが、金銭を受領できるものとは思えず、避けてきたということもある。
そのため、卒業制作の費用は頂き物の学生賞(各学科の中で数人が貰える、学生生活での活動や作品に対する評価だった記憶がある)の賞金5万円のみだった。親から貰った小遣いではなかったが、自分で稼いだものでもない。そりゃあ内定なんか貰えるわけないよと、頭の奥で声がしたのを覚えている。

この5万円をギリギリまで使用し、印刷会社に注文した文庫本は50部だった。金銭5万円の限界値選択だ。フィクション作品で、主人公が「俺はこれにすべてをかける!」と全賭けするのに似ているが、それにしては些か規模が足りないように思う。まぁ、仕方がない。
そういうわけで、学科の方へ注文数の連絡メールを送ったところ「(獅子狩はアルバイトを1つたりともしていないのに)お金はあるのか」と確認の電話が来たのは良い思い出である。後でわかったことだが、ほかの同回生の注文数の平均が10〜15冊程度だったため、この電話が来たと思われる。

商業作家でもなければ、学科内の卒業制作に関する賞も貰えなかったのだから、そんなに売れるわけがないのはわかっていたが、逆に少なすぎる部数にしてしまい売り切れることが嫌だったのだ。読んでくれるかもしれなかった人に、作品を販売できない。その事態をどうしても避けたかった。
商業作家ならまだしも、素人大学生が書いた作品を売れる機会は限られている。仮に重版したとしても、そのとき買えなかった人がわざわざ買いに来てくれる可能性はまずないのだ。だから、ファーストコンタクトで渡せる人には、必ず渡さねばならない。

かくして遺作(仮)は50部も発行され、そのうち数十冊が卒業作品展で売れ、残りは卒業後に静かに販売していくことになり、現在に至る。ありがたいことに少しずつお買い上げいただいているが、まだ在庫はちょこちょこあるのだ。50部は多い。
しかも、安さで売るのは違うだろうと真面目に原価やら何やらで計算して金額をつけたところ、地味に高くなってしまったのだ。在庫もなおのこと余る。

「作者を威圧してくる在庫との暮らし」


卒業後、無理矢理選んだ人生初のアルバイト先をやめたり、仕事を探したりしながら、もうそろそろ人生も終わりだろうか、一体どう死ぬ流れになるのだろうかと木漏れ日のようにぼやけた気持ちの落ち着きと連れ添うようになったころ、この遺作(仮)が詰まったダンボールが、じっと汚部屋の隅で私を威圧し始めた。
「お前、遺作って言ったのに、まだこんなに在庫があるじゃないか」と。遺作(仮)は「在庫が減らないことにはおちおち死ねないぞ」と私を脅かしたのだ。

仕方がない、そもそも50部も頼んでしまったのは、明らかな自分のミスだ。そう思うと、自然と未来予想図は私から少し遠ざかった。売るまではエンディングは迎えられないと、予想図が書き換えられたのだ。そして代わりに、「お前早く売れよ」と威圧してくる遺作(仮)の束を見つめ、悩む時間ができた。そうして、そうこうしているうちに、奇跡的な恩恵により私は別な場所でアルバイトを再開し、新しい長編小説も執筆した。そうして遺作(仮)が自動的に遺作(仮)ではなくなり、弱肉強食の未来予想図は、気がつくともう傍にはなかった。

令和を迎えてなお、この『夕映えのホライゾンブルー』の在庫はあり続けているが、何故かもう私を威圧してこなくなった。すっかり大人しくなった元・遺作(仮)の在庫を時々眺め、この在庫に生かされていた、未来予想図を変更してもらった時間が確かにあったのだと、今は随分と懐かしい気持ちになるのだ。


「それはそれとして」


それはそれとして、『夕映えのホライゾンブルー』は相変わらず販売中である。

先程も似たようなことを書いたが、作品の評価と作者という人間の存在は、まったくもって関係がない。親と子が長く育てる・育てられる関係であったとしても、それぞれ完全な別個の人間であるように。
よってこれはただの、ある1作の長編ファンタジー小説である。もしもリンク先であらすじなどを見て気になった場合は、ぜひとも購入を検討していただきたい。

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