脳内実況が流れなくなった話

私はかつて大事な試験や面接の前になると、途端に実況が頭の中で流れてくることが多々あった。

その実況スタイルというのは、
「さあ始まりました!! ◯◯大学◯◯学部◯◯学科入学試験、科目は英語です! 志々田はここで高得点を取ることができるのか!?」
上記のようなテンション高めの実況ではなく、
「◯◯大学◯◯学部◯◯学科入学試験が始まる。科目は英語。果たして、志々田はここで高得点を取ることができるのか」
という淡々とした雰囲気の実況だ。

こうした脳内実況が最近めっきりなくなった。
それほど大したことではないはずなのだが、一度それに気づいてからは妙に気になってしまい、こうして文章にしている。

実況がなくなった原因について簡単に考察してみよう。

1.緊張する機会がない

大きな要因としてはこれではないだろうか。最近は本当に緊張する機会が減った。ほぼ皆無と言って良い。
肝が据わってきたと思えれば嬉しかったのだが、おそらくそれよりも大事な試験や面接自体がなくなったことが原因だと思う。

確かに、資格の試験を直近で受けたこともあったが、それはそこまで緊張することはなかった。仮に落ちたとしても、受験費用は返ってこないが「また受けることができる」という余裕があったからだ。

特に大舞台に立つということもない。社会人になる前は定期的に緊張するシーンがやってきて、その都度頭の中の実況が流れていたのだが……。

そもそもなぜ緊張する時に実況が流れるのか、科学的な根拠などはないが、それは一種の防衛反応なのだろうと考えている。
自分が緊張に飲まれないようにするために、実況を挟むことで緊張しかけている自分を俯瞰して捉えて緊張を解く。
目の前の大事件からふざけて目を背けるのではなく、むしろ大真面目に成果を残すために私は実況を流していたのだと思う。

その一瞬で結果が決まるような大勝負がなくなったのは、落ち着いた生活が定着してきている証拠なのだろうが、あまりにも岐路がないのは人生のハリがなさすぎるのではないかとも危惧している。

2.自分を俯瞰して見る癖がなくなった

2個目の原因は正直取ってつけたものだとも思ったが、以下の理由でこちらも書くことにした。
私が「自分を俯瞰して見る癖がなくなった」と考えた時、妙に納得感を覚えたのだ。
確かに、最近の私は自分自身の感覚、感情、考えなどと正面で向き合って直接対決しているようだ。

防衛反応が機能しなくなるくらいには、余裕がなくなっているのかもしれない。
限られた時間を無駄にしないようにケチくさくなって、常に何かしようとしているせわしなさ。
そのせいで頭の中の実況がなくなったのではないか。自分を俯瞰して見なくなったのではないか。

常に何かしようとしているのは、プラスの意味で使われる活動的とも違う。
どちらかというと、「何もしていないことがもったいないとは思うが、まとまった大きなことをするのは面倒なので、その手持ち無沙汰を早急かつ簡単に埋められるものに手を出す」といった種類のものだ。
例えば、YouTubeのサジェストで出てくるような動画をダラダラ見続けてしまうとか。もはや自分で検索して見たい動画を見る能動的なYouTubeの使い方ではない。
他にも、まるで仕事のタスクのように感じてしまうミッションをひたすらこなしていくゲーム体験などもある。本来なら楽しいと思った時にプレイすれば良いのに、クリアできていない状態が耐えられなくてストレスを抱えながらも無理して続けてしまう。
こうして見るととても愚かだが、なかなか断ち切ることができない。「何もしないのが怖い病」に冒されている。
だから、空いた時間を突貫工事で埋めていこうとする。
そんなせわしなさの中で、脳内実況が入り込む隙があるだろうか。

「おっと志々田、またもや元々見ようと思っていなかった動画を見ている! コメントを見ながら動画を見る、まさにYouTubeの思惑通りだ!」

意識的に脳内実況を取り入れていく必要があるのかもしれない。それもやや情熱的な実況を。
その方がより自分に語りかけることができるし、皮肉が効いたクスッと笑ってしまうような雰囲気になって、私の目を覚まさせてくれるのではないだろうか。

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