『チェンソーマン』の第一部について、ネタバレを含みつつふわっと語る

※この文章には『チェンソーマン』の第一部のネタバレを含みますのでご注意ください。



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少し前。マキシマム ザ ホルモンがエンディングを担当していると知って、その曲があまりにもかっこよく、『チェンソーマン』を見始めた。
アニメを見ていると先が気になりすぎて、つい漫画を買ってしまうことがある。『チェンソーマン』もそのひとつだった。

『チェンソーマン』は今も連載が続いているが、1巻から11巻までが第一部。現在は第二部が始まっていて眼が離せない展開が続いている。

その第一部を読んで、私は「これはジャンプ的ではあるが、一方で文学的要素も含んでいる」と思った。

ラスボスの倒し方、悪魔との契約、悪魔の能力などが絡み合った結果、こうすることでしか倒せないだろうという設定上の論理に沿った解答を見せてくれる。
予想のできない解答ではあるが、漫画のスピーディーな展開、勢いによって、読者は不思議と腑に落ちる。正直、ちょっと無理がある展開ではないか、と思うこともあったが、妙な納得感がある。

一方で設定から離れて、ラスボスの倒し方にどんな比喩、メッセージが隠されているのかと言えば、「最大の愛は食べること」というものだ。
より細かく言えば、身体に入れることこそが愛なのだ。

作者のエピソードで、死んだメダカを食べたというものがあるが、ラスボスの倒し方はそこから来ているのではないかと思う。

一般的には不可解に思えるかもしれないが、たとえばことわざで「目に入れても痛くない」というものがある。

そもそも私達は全員胎内にいた。

その人を自分の体内に宿すこと、物理的ではなく観念的であれば、自分の精神に取り込むこと、これが愛である。

例えば、亡くなった祖父について、私は思い出すことがある。
祖父は物理的にはもう存在していないが、私が思うことで存在するのである。
それはまさに祖父が私の精神に宿り、私の中で生きているからだ。

もう一点「食べる = 愛」という図式に救われた例を挙げたい。
私達は毎日何かを食べている。他の生命を食べて毎日を生き抜いている。

他の生命にとっては大迷惑だ。本当だったらもっと生きたかっただろう。
そう考えると毎日を生き抜くことには罪悪感を伴う。

しかし、「食べる = 愛」という図式を当てはめさえすれば、その罪悪感は消え去る。
どうも食べる側の論理が強すぎるかもしれないが、食べることを肯定する良い機会にもなりうるのではないかと思った。

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