僕の獅子舞日記 第百三十九話【幸か不幸かなど知ったことか】
自宅から出てきた彼は、上下黒色のスウェット姿で、つむじの辺りには寝癖がついていた。
「どうかした?」
「梨をもらったんだけど、食べる?」
「梨?まあ、好きだけど。」
「じゃあ、五つもらったから三つあげるよ。甥っ子さんにもどうぞ。」
「ありがとう。」
僕が袋から取り出した梨を、通くんは一個ずつ受け取って玄関にある戸棚の上に置いた。
「この梨、さっき音羽からもらったんだよ。これ持って僕の家にわざわざ訪ねてきて、本番の日に迷惑かけてごめんねって。」
「・・・。」
通くんは俯いて片手で頭の後ろを掻いた。
「痩せてて、明らかに精神が不安定な感じだった。僕は彼女をそんなふうにした奴が一体どういうつもりでいるのかが知りたいね。」
「・・・健人が。」
「んあ?けんと?」
僕はなぜにいまコイツは健人の名前を出すのだと苛つき、語尾が吊り上がってしまった。
「健人が、それを治してあげられるんじゃないかな。」
「はい?いい加減に」
「隙間に入り込もうとしたから。」
「え?」
「ここ何年かで、健人が音羽を見る目が少しずつ変わってきたのがわかった。」
通くんは玄関から出てドアを閉め、その前に立った。
そして、俯きがちに話し始めた。
「最初は、健人に振り向いてもらえないんだったら、諦めてこっち来ないかなって思ってたんだけど、ここ何年かで健人はちゃんと音羽のこと好きなんだなって思うことが増えた。それなら、俺が割り込むのは違うと思った。」
「じゃあなんでキスしたの。」
「・・・酔ってたから。」
「本当に酔ってた?あの日、通くんだけ全然飲んでないように見えたし、僕らが買い出しに行く前に飲んでたのはお茶だったよね?」
「ごめん。嘘ついた。一滴も飲んでない。」
「嘘つくな!そんでもって素面で襲ってんじゃねえぞコラカスメガネ」
「ごめんなさい。」
僕は本気でこのメガネをぶん殴りたかったが、今までに人を殴ったことがないので、固めた握り拳をどう振り下ろせばいいのかがわからなかった。
「…どうせ健人と結ばれるんだったら、最後に悪あがきしたかった。」
絞り出すように、通くんはぽつりぽつりと言った。
その辛そうな声には、さすがに僕も握りしめた拳の力を緩めずにはいられなかった。
「ごめん。気に病むくらいに嫌だったんなら、音羽には謝りに行くから。」
「そうじゃないよ。」
僕はため息まじりに呟いた。
「違うよ。本人と一度ちゃんと話した方がいいんじゃないかな。」
「もしそうじゃないなら、余計に話せない。」
「なんで?」
「だとしたら、無かったことにしたほうが健全だと思う。多分、隙間に俺が入ったことで戸惑ってるだけで、音羽は健人が本気になり始めたことにまだ気がついてない。俺にちょっかい出されて、このまま不毛な恋を続けるなら、自分のこと好きな相手に流れた方がいいんじゃないかって。でもそれは勘違いだから。」
通くんは顔をあげて、真っ直ぐと僕の目を見て言った。
「健人と俺なら、健人がいいに決まってるよ。誰だって、なんなら俺だってそう思う。そっちもずっと近くで見てきたなら分かると思うけど。」
「確かに僕はずっと二人を見てきたよ。小学生の頃からずっと。だからもちろん、健人の思いも何も知らないわけではない。」
そう返した僕に対して、通くんはとても小さなため息を漏らした。
「だったら」
それから彼は、腹の底から唸るような声で言った。
「だったら?」
今までに聞いたことのないその低音に、僕は一瞬ひるみそうになったが、努めて冷静に聞き返した。
「俺に直接こう言ってくれよ。」
「・・・何て言うの?」
「音羽は健人と結ばれて欲しいからお前は邪魔をするなって!!俺は、ずっと誰かにそう言って欲しかった。」
「それなら言わせてもらうよ。僕の知ったこっちゃないんだよ!」
僕は叫んだ。
「じゃあなんで俺の家まで来た?そう思うなら放っておけばいい。」
通くんは低くて冷たい声のまま言い放った。
「僕が言いたいのは、誰を選んだから幸せとか不幸とか、他人が勝手に決めていいもんじゃないって事だよ。」
静かにそう言った僕に対して、通くんは押し黙った。
「音羽が通くんと一緒になって、仮に健人を選んだ場合よりも幸せになれなかったとしても、僕にとっては知ったこっちゃないんだよ。彼女が自分で選んだことを他人がとやかく言う権利はないし、それが側から見たら不幸でも、本人からしたら幸せなのかもしれないし。とにかく話し合ってみればいいじゃんか!このいくじなしメガネ!通くんも健人もみんなみんなストレスで禿げちゃえばいい!ちなみ僕は遺伝的に大丈夫だからね!ざまあみろ!ファッキューメーン!」
僕は言い終わった後に、そのまま逃げるようにして通くんの家から走り去った。
途中に片足が道端の石に躓きこけそうになったが、なんとか体勢を取り戻し、僕は無事に家に辿り着いた。
それから音羽と交際することになったと通くんから報告を受けたのは、十二月の中旬頃だった。
パラパラと三日間ほど振り続けて、大きな亀の甲羅みたいに家の前で固まってしまった雪を除去するために雪かきをしていたところ、通りを歩いていた彼に遭遇したのだ。
「雪かき?」
「うん。通くんのところはもう済んだ?」
「今朝に父親がはりきってやってた。」
「だいぶ雪が固まっちゃってさ。除雪しにくいよ。」
僕はスコップのアルミの部分を片足で蹴りながら、地面と雪の間に滑り込ませていった。
僕の漏らす汗と白い息が、冬の朝露と共に空へ蒸発して消えていくのが分かった。
通くんは、あくせく働く僕の姿を、コートのポケットに両手を突っ込みながら涼しい顔で眺めていた。
「大変そうだね。あ。昨日、音羽と付き合うことになったよ。」
「うん、そっか!って、え??ええ?」
身長の半分ほどある大きなスコップを持ってあたふたしている僕に、彼はことの経緯を話し始めた。
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