僕の獅子舞日記 第百三十八話【割れた心】
『獅子殺し』の時間帯を迎えても、音羽が戻ってくることはなかった。
途中に健人が「あいつは?」と僕に訊いてきたので、具合が悪いから帰ったとだけ説明した。
「あいつずっとここんところずっと具合悪いよな。」
健人はため息混じりにそう言ったが、僕が何か返事をする前に、彼はまた百足獅子の蚊帳の中へと戻っていった。
瑛助くんが獅子を斬りつける役割を無事に終えて、『やつのぶし』が演奏されたところで、祭りは終了した。
僕は月下で足元を見つめながら、毎年この祭りの終わりを迎えたときには、音羽と互いに労いの言葉を掛け合っていたことを思い出した。
祭りの余韻はなく、隣に彼女がいない寂しさだけが心を支配した。
獅子頭の亀裂には、皆の様々な思いが垂れ流され、今宵の闇がそれを無理矢理に封じ込めてしまった。
溢れ落ちる一滴でさえ、僕には味わう事のできない辛さなのだとやがて気がついた。
次の日の片付けにて、さらに事件は起きた。
その日、仕事が夜勤のシフトだった僕は、片付けをするために午前中だけ寺に出向くことにした。
しかし寺に入るや否や、奈々ちゃんの叫び声が聞こえた。
「ねえ!!皆!こっちの部屋に来て!」
その声を聞いた僕は、真っ先に寺の奥の部屋へと入った。
机の上に置かれている獅子頭の顔面のヒビが裂けていて、目と目の間から鼻の下にかけてぱっくりと割れていた。
乾いた接着剤の糊の部分が、割れた裂け目のところにしがみつくようにくっついていたが、もうその効力は残っていないようだった。
「ついに割れたか。昨日一日は最後の力を振り絞ったんやな。」
星さんが呟いた。
「もうこれ、ここまでくると直せないんだよね?」
奈々ちゃんが僕に訊いた。
「うん。作ってくれた職人さんの話だと、ヒビだけならまだしも、割れたとなると作り直すしかないって。」
この場にいた星さん、カズさん、梅さん、奈々ちゃん、そして僕は、割れた獅子頭を見てしばらく呆然と立ち尽くしていたが、やがてカズさんが口を開いた。
「これちゃどう処理すればいいがけ?やっぱお焚き上げとかになるんけ?」
「うん。そうやと思うわ。私の方で調べてみるちゃ。」
梅さんがそう答えた。
僕はこのことを音羽に伝えるべきか迷ったが、今日も寺に姿を現していないということは体調がまだ思わしくないのだろうと考え、しばらくこの事実を伝えるのは控えることにした。
同じく今日ここにはいない健人と通くんの二人には、星さんの方から連絡してくれるとのことだったので、僕は少しだけ片付けを手伝った後に仕事へと向かった。
音羽に会ったのは、それから六日後のことだった。
僕の家を訪ねてきたのだ。
「これ。お姉ちゃんの会社の人が段ボールで送ってきてくれて、食べきれないから。本番の日は迷惑かけてごめんね。」
大きなスーパー袋には、たっぷりと身のついたみずみずしそうな梨が五個ほど入っていた。
「ありがと。別に気にしなくていいのに。」
「そういえば、獅子が割れちゃったらしいね。残念だけど。」
僕が黙っていても、結局は誰かからその事実を聞かされてしまったようだ。
「うん。とりあえず処理の仕方が決まるまで、例年通り星さんの家に置いたままだってさ。」
袋を受け取った僕は、様子を伺うようにして、Tシャツにデニム姿の音羽をまじまじと見つめた。
相変わらず顔は青白いままで、唇の色も血色が悪く、目の下には濃い影があった。
少しやつれているような気もした。
「ねえ音羽。ちゃんと食べてる?」
僕の言葉に、彼女はくすくすと笑った。
「何?急にお母さんみたいなこと訊くじゃん。」
「でも痩せたでしょ?顔色も全然良くないけど。」
「いつも季節の変わり目は体調崩してあんまり食べれないんだよ。」
彼女は笑いながら言ったが、少し黙ったかと思えば、数秒後に目にじわじわと涙を浮かべ出した。
「あれ?やだなあ。私、また泣いてる?」
頬に涙がつたっても、彼女はもう自分が泣いてるのか泣いてないか分からない段階に入っているらしかった。
「うん。音羽は、泣いたよ。クラムボンみたいに言わせないでくれる?」
僕は一瞬だけ部屋に戻り、ティッシュの箱を持ってまた玄関に戻った。
「ほんとごめんね。健人がいなくなった時も全然こんなことにならなかったのに。あのメガネ、ただのメンヘラ製造機だわ。うう。」
音羽は箱からティッシュを二、三枚取り出し、自分の目を押さえつけながら言った。
「本番の日から通くんとは話してないの?」
「うん。冷たくあしらわれて以来怖くて。しばらく私からは連絡できそうにない。」
「そっか。僕にできることがあれば言ってよ。まあ、こうやって話を聞いてたまにティッシュ渡すくらいしかできないだろうけどさ。」
「うん。本当にありがとう。私、君がいなかったら今頃お風呂場で手首切ってたかも。」
「怖。最上級のメンヘラ発言やめてよ。」
音羽はあははと声に出して笑った。
久しぶりに彼女の笑った時の三日月の形の目を見れて、僕は少しだけ安心した。
安堵と同時に、僕は彼に対しての湧き上がる怒りを抑えられなくなってしまった。
音羽が僕の家から去ってから、僕は彼女にもらった梨の入った袋を鷲掴みにしたまま、彼の家までスタスタと歩いた。
そして、家のチャイムを押した。
「はい」
インターフォンから通くんの声が聞こえたので、僕は勢いに任せて喋った。
「おいメガネ。ツラかせや。」
ガチャっという音と共にドアから出てきたのは、眼鏡をかけていない優しそうな男の人だった。
「あ、いや、もしかしてお兄さんですか!?すいません!!」
「いやいや。あいつなら部屋で俺の息子とゲームやってると思うんで、呼んできますね。」
「すいません。」
僕は平謝りを繰り返し、大人しく玄関の前で本物のメガネが出てくるのを待った。
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