僕の獅子舞日記 第百四十話【俺の獅子舞日記・後編】
寒い。
痩せ型で皮膚の薄い俺は、寒さが大の苦手だ。
強い風が吹くと、ナイフが突き刺ささったのか?と思うくらいに全身に激痛が走る。
そんな寒さを迎えた日に、大抵の人間が考える事なんて一つくらいしかない。
フリースが欲しい。
ある程度まともな人間でも、今日みたいな日はそのぐらいしか頭に思い浮かばないものなのだ。
俺は切実な願いを叶えるために、車を走らせて衣類量販店へと向かった。
モコモコの生地のフリースを無事に手に入れた俺は、茶色い紙袋を右手に下げて、寒さで首をすぼめながら店の駐車場をとぼとぼと歩いていた。
もっと店の入り口から近いところに車を停めればよかったな、なんて考えていると、後ろから誰かに呼びかけられた。
「通くん?」
声ですぐに分かった。
聞こえないふりをしようか。
一瞬の間にだいぶ迷ったが、無視するのも変な気がしたので、俺はさっと首を後ろにひねらせた。
「久しぶりだね。」
白い息を吐きながら音羽が言った。
彼女と会うのは祭りの日以来なので、約三ヶ月ぶりとなる。
その間に何度も自分から連絡しようと試みたが、結局勇気が出ず、未だに彼女に自分の思いを伝えることが出来ないでいた。
向こうはまだ買い物を済ませていないのか、入り口に向かう途中に店から出てきた俺を発見したようだ。
襟の部分にファーが付いた紺色のノーカラーコートを着ていて、それは彼女の上品な顔立ちに良く似合っていた。
「今日寒いね。何か買ったの?」
音羽は微笑みを浮かべながら俺に訊いた。
「うん。」
その二文字だけ答えると、気まずさを感じた俺は、さっさとこの場を去ることにした。
久しぶりに偶然出会えて彼女が目の前にいるこの期に及んでも、まだ話し合う勇気が出なかった。
情けない話だ。相変わらず最低ないくじなしメガネだ。
こんな奴はさっさと彼女の視界から消えた方がいい。
「じゃ。」
俺はもう一度車に向かって歩き始めた。
「通くん。」
彼女は俺をもう一度呼び止めた。
今度こそ、聞こえないふりをしようかと思った。
しかし心が自分の行動を制御する前に、俺はもう彼女の方を振り向いてしまっていた。
「好き。」
身体に突き刺さったのはナイフではなかった。
そこに痛みは伴わなかったからだ。
「え?」
嬉しさや喜びよりも、まず驚きのほうが勝ってしまったので、俺はやけに乾いた声で音羽に聞き返した。
「どうしよう。一生言わないつもりだったのに。なんで」
音羽は両手で顔を覆い泣き出してしまった。
「あの?え?」
俺が慌てていると、人々が好奇心旺盛な目で俺と音羽をチラチラと見ていた。
側から見れば、寒空の下、衣類量販店の駐車場で喧嘩してしまったカップルにしか見えないだろう。
チラシについたクーポン券を彼女が忘れ、それに彼氏が憤慨した。
多分なんかそんな理由だ。
「音羽。車どこ?」
俺の声が届いていないのか、彼女は手で顔を覆ったままだったので、俺は彼女のコートのポケットに手を突っ込んだ。
車の鍵を取り出し、駐車スペースに向けてロック解除のボタンを押すと、すぐそばに停めてある黒い車から音が鳴り、ハザードランプが光った。
なんとか車に乗せたはいいものの、彼女は運転席で延々と泣き続けたままだった。
とりあえずキーを回してエンジンをかけ、暖房を付けたが、車内の気温が上がるまではまだ時間がかかりそうだ。
俺は一旦車を出て、店前にある自動販売機からホットのお茶とコーヒーを購入し、また車に戻った。
助手席に乗り込み、しゃくりあげて泣き続ける音羽に向けて話しかけた。
「コーヒーとお茶、どっち飲む?」
「お…、おちゃ。」
俺はドリンクホルダーにペットボトルを置いた。
しばらくの沈黙の後に、俺は口を開いた。
「あのさ。」
「言わないで!」
「え?」
顔を手で隠したまま、音羽は叫んだ。
「今日に返事しないで。いつでもいいけど、お願いだから今日だけはやめて。ただでさえ死にそうなのに、追い討ちかけられたらこのまま帰れなくなるから。」
「音羽。」
「今日はこのまま放っておいて。勝手でごめん。」
「俺も同じ気持ちなんですけど。」
「ええええ?」
音羽はやっと顔から両手を離して、驚いた様子で俺を見た。
目が真っ赤で顔面は水滴だらけだった。
俺は後部座席にあったティッシュの箱を取って彼女に渡した。
「健人がいなくなった祭りの年から、ずっと好きだった。」
「嘘でしょ?あれって何年前になるの?え?でもこの間の祭りの日、すんごく冷たかったじゃん。」
「それは本当にごめん。健人と結ばれるルートを邪魔しちゃいけないと思ったから。あんなことしておいてなんだけど。」
音羽はティッシュを鼻にあてたままで、目を見開いて呆然としていた。
「そうだよね。私、あれだけ健人健人って言ってたのに、信じられないかもしれないよね。」
「うん。正直、すごいびっくりしてる。本当に俺でいいの?今ならまだ間に合うと思うけど。」
「いや!絶対に訂正しない!死んでもしない。」
彼女は宣言するように力強く言ったので、俺はなんだか可笑しくなってしまい「ははっ」と笑った。
音羽も「へへへ」と笑っていた。
彼女の笑った時に顔に現れる三日月の目が、少しだけ残った涙できらきらと光沢を帯びていた。
「と、いう感じで。」
俺は音羽と付き合うことになった経緯を、近所の仲の良い森くんに簡潔に話した。
「はあ~。それが昨日のことなんだ。まだ音羽からも報告受けてないからさ。びっくりしたよ。でも本当によかった。」
「うん。色々とありがとうね。」
「大事にしてよね。音羽って強そうに見えて、意外と脆いし。そのくせ意地っ張りだし頑固だし。」
「俺なんかよりもよくわかってるね。」
「でもこれからは、通くんの方がずっとよく知っていくんだよ。」
森くんは僕に微笑んだ。
「うん。」
ずっとよく知っていく。
あんまり聞いたことのないフレーズだが、その言葉は、職人が丹精に磨き上げて何年も使い込んだ道具のように、今の俺に心地よく馴染んでいた。
俺は手を振って森くんと別れ、そこから何メートルか先の自宅に向かって歩いて行った。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?