【ネタバレ有】『君たちはどう生きるか』を観た【感想】

 まだ頭がぐるぐるしている。寝不足の脳を目覚めさせるために飲んだコーヒーのせいもあるかもしれない。

 いざ「感想を書こう」と思うと何から書けば良いか分からない。まずは、公開4日目という早さで映画館へ行かせてくれた家族に感謝したい。完全にネタバレのない状態で観ることは叶わなかったが、ストーリーのネタバレは一切踏まずに鑑賞できたことを嬉しく思う。

登場人物に想いを馳せる

 まず主人公の眞人。好みである。真っ直ぐな性格なんだろうなと思う。
 石で自分の頭を傷つけた真意が最後の方まで分からなかった。「転んで怪我をした」という嘘に真実味を持たせるためか、それとも、「殴られてこんな怪我まで負わされた」と被害を盛るためか……。私の理解が追い付いておらず間違っているかもしれないが、どうやら後者だったらしい。それを自分で言葉にできたことで、より「真っ直ぐな子だな」と思わされた。
 義母の夏子(音声だけの情報なので漢字は違うかもしれない)を「おかあさん」と途中から呼ぶようになるが、個人的には「私が夏子なら一生おかあさんなんて呼ばれなくてもいい」と思った。眞人の母親は久子(こちらも漢字は分からない)だ。物心つくまで生きていた、生き続けてほしいと願った母を差し置いて別の女性を母と呼べなんておこがましいにも程がある。「いいんだよ、おかあさんて呼ばなくていいよ」と声を掛けてやりたい気持ちになった。一方で、本人としては受け入れ難かった大人からの要求を呑み込んであげる、自分が引いて受け入れてあげることで、「子どもから大人になる」表現をしたかったのかな、とも少し思った。

 眞人の父親は終始ズレていた。批判するのは簡単だが、人の親として自分もそういうズレを丸出しにして育児をしないとも限らない。大人はどうしてこうも哀しい生き物なのだろうと思った。反面教師である。
 そもそも、「妻が亡くなった翌年に妻の妹と再婚して子をもうける」なんて行為は、現代ではだいぶクズな奴のやることだと思う。心の整理の速度がいくらなんでもおかしい。しかし戦中のあの時代には珍しくなかったのかもしれない。朝ドラでも似たような話があった気がする。まだ整理がついていない様子の息子の心を置き去りに再婚できてしまう自分本位さと「息子を傷つけられて許せない」と憤る愛は、一人の人間の心中で同居できないようで同居できてしまう。大人になった今ならそれが分かる。「それとこれとは別」にできてしまうし、そのくせ、そのおかしさに自分ではなかなか気づけない。つくづく、大人は哀しい生き物だと思う。

 眞人の義母となる夏子はなんというか、「艶やかな人」というのが第一印象だった。観る人にそう思わせるために意識して描かれていたかもしれない。
 使用人のおばあさんたちが夏子のことを、初めは「お嬢様」と呼んでいたのが割とすぐに「奥様」と呼ぶようになっていたのが気になった。作中の時間が流れる中で正式に婚姻の手続きをして呼び方が変わったのか(具体的な描写はなかったので憶測に過ぎない)、人によって夏子を「お嬢様と呼ぶ」派と「奥様と呼ぶ」派に分かれていたのか。初見では分からなかった。
 身重なのに重たいであろう荷物を持って屋敷を歩いて大丈夫だろうかと心配になった(当方2度の出産経験がある)が、その後寝込んでいて「だろうな、あれだけ動いていたらそうなるわ」と思った。使用人のおばあさんが「悪阻」と言っていたのと序盤に胎動があるらしい描写があったことから、安直だが後期悪阻かな、と勝手に見立てている。切迫早産や常位胎盤早期剝離が心配なのでいよいよ休んでいてほしい。
 夏子はどうしてあの場所へ誘われてしまったのだろう。館の主に誘われるまま行ってしまったのだと思うが、主はどのようにして誘ったのか。体調が悪いにせよもうすぐ生まれる子が腹にいながら、危ないことをするだろうか。私ならしない。無事に子を産むことが最優先だ。ただしその子が、愛していない男との子なら話は別かもしれない。眞人の父親と愛し合う描写もあったが、時代が時代だ。「そうせざるを得なくて愛しているフリをしている」ということもあり得る。その仮説を信じて彼女の心情を思うと「どうにでもなればいい」と、死んでしまうかもしれない場所へ行ってしまいたくもなるかと、納得できないこともない。それか、行き着くところは同じ「どうにでもなれ」なのだが、悪阻が辛すぎてのそれという可能性も否めない。個人差が大きい、それが悪阻だ。
 物語の後半で眞人を「嫌い」と言ったのは本心だったのだろうか。「危険だから帰りなさい」という意味の込められた、眞人を想っての言葉だったかもしれない。こちらも初見では分からなかった。後者であってほしいと願うが、いつまでも「おかあさん」と呼んでもらえないことへの苛立ちから出た言葉である可能性は十分にある。呼ばれたいのに呼んでもらえないのであれば、それは辛いよなぁと思う。舞台となっている時代を思うと周囲からの圧もあったかもしれない。夏子には強く生きてほしい。

 英語版のタイトルが『少年と鷺』になるくらいにはアオサギが物語の鍵になっているのだろうが、彼(おそらく雄だろう)に対しては、矢でくちばしを射抜かれて「やーい(こともあろうに自分の羽根で)やられてやんの」と思った、くらいの感想しかない。嘘つきは嫌いだ。

作品に想いを馳せる

 登場人物以外の部分について思ったことを書いていく。

 私の勘違いかもしれないが、「オマージュ」がいたるところに散りばめられていた。
 最初に「これは」と思ったのは王蟲の目の抜け殻だった。そのシーン以前にもオマージュはあったかもしれない。順不同になるが、ハウルの最後の方、ラピュタの線路から炭鉱に落下するシーン、湯屋の調理場、千尋が外壁を登って湯婆婆の部屋へ向かうシーン(千尋が何度体当たりしても開けられなかった窓を眞人は一発で蹴破っていたのが個人的には面白かった)や紙の鳥が襲ってくるシーン、ハエドリが坊ネズミを足で掴んで飛ぶシーン、耳をすませばの雫の空想シーン、もののけ姫のコダマ、ジーナの庭、ポルコがベルリーニと再会して別れる雲の平原(飛行機の墓場)、マーニーに出てくるサイロ、トトロの胸元を思わせるインコの柄、「夢だけど夢じゃなかった」、二ノ国の世界観……たぶんほかにもあったと思うが思い出せるのはこれくらいだ。一つだけ、序盤で夏子たちが眞人たちを迎えに来た場所に見覚えがあるのだが思い出せなかった。ジブリ作品ではないかもしれない。
 冒頭で眞人が火災現場に向かって走るシーンの描き方を観て『かぐや姫の物語』を思い出した。かぐや姫~を監督した高畑勲氏へのリスペクトが込められていたのだろうか。
 私と同様に過去作と似ている描写を見つけて、きっと「発想力が衰えたか宮﨑駿」と思う方もいるだろうな、と思うが、私はオマージュだと信じたい。

 音楽(劇伴)は誰が手掛けたのだろう、というのが鑑賞前に気になっていた。できれば久石譲氏であってほしいと思っていたら、本当に久石氏が手掛けていた。ジブリ作品の中でも「監督:宮﨑駿 音楽:久石譲」の作品が好きなので嬉しかった。今作の音楽はピアノの音が印象的だった。残念ながら旋律までは思い出せない。

 かつて「ジブリの新作の声優が有名タレントだった」ことに「そんなんで釣らなくたって興行収入稼げるだろ!!」と憤って映画館へ足を運ばなかった、十代の頃の私に伝えたい。
 約20年後にはなるけれど、その有名タレントで宣伝するという切り札を使わずして宮﨑駿が新作を出すぞ、と。
 もちろんジブリの積み上げた歴史や実績があってこそだが、SNS文化の発展もあって「前情報を出さない」という戦略が大きな賭けではない時代となったのかもしれない。単に宣伝費用をかけられなかったか、もしかしたら「引退中の身でそこまで興行収入を気にしていない」なんて理由で宣伝しなかったのかもしれないが。個人的には「前情報を出さず公開前の宣伝活動を最小限にした」ことについて、無駄なものを削ぎ落したような、潔さのようなものを感じている。

 同タイトルの小説を映画化したのではなく完全なオリジナルだと宮﨑氏は言っていたらしい。「ホントか??」と疑っていたが、宮﨑氏がそう言っていた意味を、映画を観て理解できたかもしれない。恥ずかしながら小説は未読である。これを機に読んでみようと思う。久子が成長した眞人に贈る作品として何故これを選んだのか、眞人は作品を読む中で何に涙したのか知りたい。

 映画の中では眞人が幾度となく「どう生きるか」を問われていたように思う。小説を読むとよりくっきりと、この映画のタイトルがどうして『君たちはどう生きるか』なのか、見えてくるかもしれない。

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