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芥川龍之介「「昔」」と「良工苦心」に見られる作品観の晩年期との差異について

 こんにちは。タイトルの通りです。芥川龍之介の書いたものに「「昔」」というものと「良工苦心」というものがあります。今回は、この二つに見られる芥川龍之介の作品観について触れた上で、晩年期との相違について検討します。だいたいそんな感じです。途中で飽きるかもしれへんし、方向性がどんどん変わっていくかもしれへんので、その辺はまああれです、ええ、秋吉ですもの。とりあえずふわーーーっとしたアレをアレです文章にしときたかったのです。タイトルはちょっと格好つけて書いてますが、そんな大層なもんじゃあありません。

 ほなとりあえず、「「昔」」がどういったものなのかご説明します。以下に「「昔」」の冒頭一文を引用します。

 僕の作品には昔の事を書いたものが多いから、そこでその昔の事を取扱ふ時の態度を話せと云ふ註文が来た。

 ここにある通りです。作品中で「昔」を扱う際に、どのような態度を以て書くかといった事が書かれています。でもここではその態度についてどうこう言うつもりはありません。それよりも、ちょっと気になる記述があったのです。

今僕が或テエマを捉へてそれを小説に書くとする。さうしてそのテエマを芸術的に最も力強く表現する為には、或異常な事件が必要になるとする。

これです。気になります。小説の芸術性について書いてる所で、物語の筋への拘りを見せているんですよね。芥川が。小説の芸術性に話の筋はさほど重要ではないって言ってたはずなんですが……ぬん……

あっ、これとかどうです?

僕は三度繰り返せば、この「話」のない小説を最上のものとは思つてゐない。が、若し「純粋な」と云ふ点から見れば、──通俗的興味のないと云ふ点から見れば、最も純粋な小説である。

芥川の「文芸的な、余りに文芸的な」から引用しています。こちらは青空文庫にあるので、リンクはっておきますね。

 この「文芸的な、余りに文芸的な」は1927年に書かれたものですので、本当に亡くなる直前のものですね。端的に言うと、「小説で重視されるべきは話の筋だよ!」とする谷崎潤一郎(「饒舌録」)に対して、芥川が「話の筋が小説の全てじゃないよ!」と言っている(「文芸的な、余りに文芸的な」)イメージです。

 あとこれは私の私見に過ぎないんですが、晩年の芥川の作品、やっぱり「「話」らしい話のない小説」が多い気がします。「歯車」も「蜃気楼」も……。だからこそ、芥川が小説の筋に拘りを見せた時にすごい違和感を覚えたんだと思います。

 そしてもうひとつ。先に「饒舌録」と「文芸的な、余りに文芸的な」で谷崎潤一郎と芥川の論争が成されていたと書きましたが……

 いいや、先に「良工苦心」についてお話します。ここでは、延々と谷崎の文章について書いてます。谷崎の文章にはすごい素養が表れているだとか、文章には散々苦心しているようだとか。前に書いたような谷崎への反論みたいなものは一切書かれていません。晩年の芥川作品に育てられた(育てられてはいない)私としては、この「良工苦心」に対する違和感がすごいのです。良工かぁ……。

 あっ。今ので言いたかった事ひととおり言えてしまいました。なので今回はこの辺で終わりにします。

 とにかく、芥川の文学観(小説観)の変遷、おもしろいですね。

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