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なくなったマフィンと人に「与える」ということの意味

私が母親のために買ってきたマフィンを、父親が食べてしまった。
25歳の私は、こみあげてくる衝動と激情に震えながらその場を後にし、一人隠れて泣いた。

このエッセイは、「食べ物の恨みは怖い」とか、幼いときに冗談交じりに家族の間で言い合っていた内容の話ではない。私がまだ実家暮らしで、両親と仲が良く、大切に思いあっているから起きてしまった、自分の中での小さな感情の崩壊を描いたものである。

社会人1年目を終え、「自立」の文字が今まで以上にちらつく今日この頃、今まで自分が経験したことや、自分以外の誰かに何かをしたことが、いかに自分に素晴らしい形で帰ってきているかを実感したことから、今年あたりから私は「自分の言動一つ一つが他人をどんな気持ちにさせるか」「何をしたらどれだけ他人の幸福度に影響するのか」をひたすらに考えて生きてきた。

では、それを、どうやって実践するか?
まず指針としたのは、超がつくほど自己中心的な学生時代に嫌いであった「周りの人から幸せにしよう」という言葉である。今に至っては、これには至極同意している。実家暮らしの私の場合、家族が一番影響を与え合う存在であり、ちょっとの感情の起伏や言動がもろに心理に影響し合う、一番近くて一番ある意味気を遣う存在。
一方、時にインターネットを介して送るメッセージや接触回数が少ない知り合いや友人、もしくは県や国が異なる他人には、直接的な影響が届くのは時間的にも距離的にも少し先のことになる。
だから、私はまず家族を幸せにしようと思ったのだ。

そして、私がなぜそれを実践するか。それにはもう少し理由がある。

私は最近、あくまでも個人的主観で恐縮だが、人は自分が「好きなもの(=それは自分の存在意義を肯定してくれる人だったり、社会的に作られた記号や象徴と同化、吸収、共感、帰属することで精神的紐帯や帰属意識を高められるモノだったりさまざまだ)に囲まれている時」、「自分が作り出したものを自分以外の人が享受してくれている時(=料理や小説や歌や演技やアプリや建造物や…人間が作り出せるもの全て)」、「自分という存在に気づいてくれ、感謝されたとき」に強い幸福感を感じるのではないかと考えている。この3つの中で、では「自分」がそれを他人の幸福に貢献するために実践するとしたらという観点から再考してみると、特に三つ目は一番実践しやすい。
だから、私はまずは家族に小さな幸せをもたらしたいと思ったのである。

私の実践の方法。こちらは、
「千里の道も一歩から」「小さなことから始めよう」を指針に。
そのため、私の実践の方法はいたって簡単であった。

・家族に対して、「怒らない」。感情が荒ぶって来たら理性的に説明する。
・ギフトを送る。喜んでくれると思うものを買ってくる。
(恥ずかしい話、誕生日など特別な日を除きこれが私はなかなかできなかった。)

以上の2点を、私は昨年頃から始めた。特によく家族を気遣ってくれ、実際にモノまでもらってしまっている母親には意図的に実践した。
実践の形は様々で、時に化粧品、時にケーキ、時にギフト券などなど。私が大の苦手である「ありがとう」も少しずつ言えるようになった。気のせいか、母親も前より笑顔が増えた気がしていた。

そして、その日はやってきた。
久しぶりに友人と出かけた私は、上野の駅から離れたところにあるビーガン専門店で、かなり値の張る美味なマフィンをいくつか購入し、「一つは母親のために選りすぐりのフレーバーを選んで」家へ持って帰ることにした。

帰宅し、母親が帰るまでに机の上に見つけてもらえるように置いておいたマフィン。私はそれから数時間、その場から離れていた。そして、母親の帰宅と同時に机のところへ行った。私はあることに気づく。

マフィンがない。どこにもない。
いつの間にか帰宅していた父親が向かいに座っている。まさか、と思い私は父親にに尋ねる。ここにあったマフィンを食べたのか、と。
父親はうん、と言う。

その時だった。
ぐっ。
私は心臓が何かの筒に包まれたような気がして、途端に目の奥が熱くなった。「なんで」、とつぶやいた。
そして、私はしばらくしてこなかったことをしてしまった。

「これ私が「お母さんのために」買ってきたマフィンだったのに!」

久しぶりにわざと嫌なトーンで父親にそういったのだ。
「なんで食べちゃうの?」
泣きそうな声でそうも言う。
「知らないよ…。」
戸惑う父親。
私はその場を後にした。

洗面所の暗がりにいって、静かに激情が過ぎ去るのを待った。
涙がこぼれてくる。悔しい。だけど涙を見せては、父親を困らせてしまう。幼稚だと思われてしまう。私は10分ほど、静かにそこで感情を抑え込んでは涙で押し流し、立っていた。

何やってんだろ私。25歳にもなって、なんでこんな些細なことで泣いてんだろ。何を期待してるんだろ。

何を期待してるんだろ。
そう、何度も自分に言った。
だが、私は気づいたのだ。

ああ、そうだ。
私は、自分が家族にしたことを認めて喜んでもらうことに、これだけ幸せを感じていたんだな。マフィンがなくなったことで母親の笑顔が見れなくなったことが、これだけ悲しいんだなと。
そしてそれは、母親の幸福を介しての「私の幸福」が奪われたからなんだな、と。

父親を責める気は全くなかった。むしろ、私ももっと「大人な対応」や置く場所などの工夫ができたかもしれない。
だけど、マフィンがどこにもなくなって何もできないとわかったその瞬間、幸せが奪われたような気がしてしまったその瞬間に、私の中での何かが崩壊した。

私は、その後にとりあえず美味しいマフィン屋さんを見つけたから、味を伝えられないのは残念だと言いながら、また今度買ってくると母親に約束し、私の中での小さな救いを設けた。

私は弱い。人間は時にすごく弱い。自分を支えていた何かが奪われると、こんなにももろくなってしまう。
自分の幸せの瞬間は、簡単に他人に奪われることもある。だが、その「奪う」瞬間を他人にもたらしてしまうのも自分だ、ということを常に意識しなければならないのだ、と改めてこの経験から思い直したのである。

そしてマフィンを食べた父親からもメッセージを受け取ったような気もしている。この経験から、私はちょっとの母親びいきじみたものをやめよう、と思ったのである。
なんとなく、父親に何かをあげて喜ばれなかったことから何かを与えるという思考にはなりにくかったのだが、マフィンを食べきってしまった父親の戸惑う顔をみて、正直少し寂しい気持ちになり、反省してしまった。

人に何かを与えることは、まるでアンパンマンのパトロールみたいだと私は思っている。自分が元気で、誰かに何かをしてもらっていて与えるものがあるときは他人を幸せにできる力もあるだろうし、そのことを考えていいかもしれない。だけど、そうでないときは、他人に与えることもいいが、まずは自分と向き合うことで、結果的に自分も他人も幸せにすることができるのかもしれない、と今回の「プチ崩壊」を通じて感じたのである。



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