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肩書ありきでしか、自分を語れないのか

「私は、○○っていう外資企業に勤めている25歳の○○県出身の○○です。」

「○○大学、○○学部出身です。」

「私、英検1級持ってるんですよ~。」

全く、私は肩書きがないと自分を語れないのだろうか?

外資企業(また、「外資」ってつけてしまった)に勤務し始めて、私の良からぬ傾向をしみじみと感じる。会社の名前を聞いただけで一度は必ずミーティングをするだとか、無碍に扱われないだとか…。私は少し、うちの会社に、染まりすぎかもしれない。

だが、もし、もし私の会社が無名だったら?お客さんに全く相手にされないのだろうか?アポすら取れないのだろうか?ミーティングでも下に見られてしまうのだろうか?であるならば、「私は○○会社の○○です」(+肩書)とまるで「記号」や「通行証」のように発信することは、それらに頼らず価値を実証するよりも何倍も容易であることは間違いない。

そして、ビジネスの世界では、確かに外へ自分の価値を発信し、自分に時間を割いてもらうためにその価値を実証し続けなければならないのは事実だ。

だが、それは私の場合、明らかにビジネスの枠を超えてきている。

例えば、趣味においても。

私は最近「カクヨム」という小説投稿サイトに小説を投稿し始めたのだが、サイト上でもTwitter界隈でも、自分が「どんな実績を持って」「どんな価値を世の中に提供できるのか」が実績の証明となる。それは努力や才能の証であり、(小説書きの世界は、商業的な部分も絡んでくるので一概には言えないが、、)肩書きありとなしでは、やはり少し見方が変わってくるような気もしている。

友人関係においても。

「最近○○会社に入社してさあ。」「最近、○○(有名人)にサインもらっちゃった!」とこれは私の発言。聞いて呆れる。結局、社会的に価値があるとされているもので、自分を固めてるし、自分の価値を証明しようとしてるじゃん。

私、学生の時はそんなことなかったのになあ。それだけ、一人で立って生きていく、「自立」って難しくて苦しいことなのかな、と感慨深くなる。

だが、私はふと思ったのだ。

肩書って、結局自分が「どう見られたいか」だなあと。見栄やマウントや、自己欺瞞や…。表現一つとっても、控えめに言うのか、言葉を濁すのか、自信たっぷりに言うのかで受け取られ方が違うかもしれないが、人は、他人を他人から発される全ての情報で「この人はどんなひとだ」と判断するのだな、とふと思ったのである。

なら、いくらでも、もし実績がなくたって、語ればいいのだなあ、と。

それは、肩書の意味が廃るって?確かに、そうかもしれない。

だけど、自分が辛いとき。人生で何をやっても結果が出ないとき、何に頼ればよいか?という話題は、何度も取り上げてきた。ビジネスの世界では、結果が出ないとき、よく、「それはやり方が間違っているからよく考えて方向転換するべきだ」と言われる。だけど、どんなに頑張ってもダメなことはあるし、ビジネスにおいてもそれ以外でも、それが自分が熱をもって取り組んだものであったら、かなり精神的ダメージが大きい。だから、そんな中でも、自分が「こんな人間だ」と信じ続けることは、大きな支えになる。

斎藤孝氏の「20代の自分に伝えたい知的生活のすゝめ」を最近読んだのだが、「自分の中に精神的な支柱となるものを住まわせる」ことでいかなる逆境におかれても、精神が安定するのだそうだ。

だから、「私はこういう人間だ」から、「周りの人にはこう思って(感じて)ほしい」と発信することは、自分の個性や職業や性格に関わらず、発信の工夫一つで、自分の心持も、周りの見方も変わってくるのだなあと思う。

長くなったが、最近、自分のビジネスにおける自己紹介から、つくづく肩書きという一つの表現方法のパワーについて、考えさせられたのである。

だから、私は自分を語りたい肩書でいっぱい語ろうと思うのだ。

「私は、物書きです。」

「私は、ピアノ弾きです。」

「私は、公文卒業生です。」

「私は、読書家です。」…etc...

そこに、好き、こうなりたい、があれば、それは全て立派な肩書だ。ランキングや、称号や、受賞した数など…。それらも肩書ではあるが、自分が本当に見せたいときに、選択する選択肢に、「自分でつけた肩書」が入ってきてもいいのではないだろうか?と思っている。

好きこそものの上手なれ、継続は力なり、という言葉を私は信じている。だからこそ、今語っておいて、後で振り返って、その肩書があったからこそ、さらに冠のついた肩書に化けたりもするかもしれないじゃない?

と、自己プロデュースがつくづく苦手な私は思うのです。




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