ねえ、今日うち来ない? ๑小説

 人生において、何から楽しみを見出すかということは割と重要なことなのではないだろうか。
仕事、趣味、恋愛ーー興味の数が多いほど、また、それに関わる人が多いほど選択肢は増えていく。
 私こと乾つかさは現在、残業に人生の潤いを見出している一人であった。
 
 もちろん残業自体が好きなわけではない。むしろ定時退勤をしたい派だ。
その深い理由にあたる人物を横目で見遣る。その視線に気がついたのか、
「つかさちゃんも、今日残り?」と猛烈な速さでパソコンを叩くのを止めながら話しかけてきた。
先輩OLの道方小雪さん。私の片思いの相手だ。
「あ、はい。今日部長に資料作り頼まれちゃって……」
「ありゃ。そりゃあ災難だねえ」
小雪さんはそう呟きながら鞄の中をゴソゴソ漁っている。
「あった」
目的のものを見つけたのか、嬉しそうな顔だ。なんだろうと思っていると、
栄養ドリンクらしきものが顔の前に差し出された。
「これよかったら飲んで。君には特別」
「え、え、いいんですか!ありがとうございます。って、鞄の中にどれだけ入ってるんですか?」
「ん〜残業の数だけ!」
小雪さんは早速かちりと蓋を開けて飲み始めた。オフィスが暑いのか、額に汗が流れている。
その横顔をうっとりと眺めながら、私も続いて蓋を開ける。
本当は帰ってから大切に大切に飲みたかったが、今一緒に飲んでしまうのも一興である。
乾いた喉に栄養ドリンクの人工的な味が流れ込んでゆく。

「ねえ、つかさちゃん。今日その仕事終わったら、うちに来ない?」

 結果を言うとむせた。せっかく喉を流れ落ちたドリンクが逆流し、鼻から出そうになる。
ごほごほと咳き込んでいると小雪さんが背中を撫でてくれた。
待って、情報が多い。私、今お家に誘われたよね。
「ぶっふ……。ごめんごめん」
 全然反省をしていない様子の小雪さんを、かわいいなと頭の片隅で思う。
どれだけむさせられようと、笑われようと、彼女のことを愛しいと感じてしまうのは惚れた弱みなのだろうか。
「びっくりさせちゃってごめんね、ふふ、嫌なら断ってね」
「い、いやずゃない、ごほ、です!!!」
危うく絶好のチャンスが消えてしまう所だった。咳込みながらも返答する私を見て、小雪さんはより高く口角を上げた。
「よっし!この仕事、ちゃちゃっと終わらせようかね」
「ンン……っはい!私も超高速でやります!」
本気を見せるために腕まくりをする。
「うむ。いい心がけだね」
じゃあ、と小雪さんは私に近づき、耳元で囁いた。
「おうちに帰ったら、ご褒美あげなきゃね」
小雪さんの眼鏡越しの瞳がぎらりと瞬いたような気がした。

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