受験の「始点」と「終点」~自分の実力を知るのは嫌だけど~

自分の目標を達成するためにはその目標の難易度がどの程度のものなのか、そして現時点における自分の実力がどの程度のものなのかを正確に把握することにある。「始点」と「終点」の位置を正確に把握していないと最短距離で直線を結ぶことは出来ないことと同じことだ。始点と終点の正確な位置の把握を怠ればどれだけ時間をかけたとしてもあらぬ方向に線が延びてしまったり、そもそも線が引けないこともしばしばある。今回は個人的な失敗経験を踏まえて少しでも正しい「直線」の引き方を検討しようと思う。

1.「終点」を設定するタイミング
「目標やゴールから逆算して計画を立てる」というのは受験においてもよく目や耳にする「終点」設定である(ここでの「終点」とは本番で合格することである)。受験では過去問が目標やゴールの一応の目安ということになるが、過去問検討のタイミングを間違うとこの「終点」が遠のくことになってしまう。学習初期の段階で「自分はまだ合格レベルの実力がないからもう少し知識と実力がついてから過去問に手をつけよう」というのが典型的な誤った終点設定、もとい過去問に手を出すタイミングである。自分がどこに向かっているのかも分からないのに自分の勘だけで知らない場所に向かおうとすれば確実に迷子になるのと同じことだ。「自分はこれだけ苦労しているのだから正しい方向に進んでいるはず」というのは本人がそう思い込みたいだけのことがしばしばである。苦労が成功を担保するとは限らないのだ。誤った苦労はただの不良債権でしかないと識るべし。

こうした事故を防ぐためには過去問は学習の最初に確認するのが一番確実である。どのような内容の試験が何科目課されるのか、合格に必要な最低点はいくらか、合格最低点とは別に足切りが設けられているのか、試験日はいつ実施されるのか等々。似た内容の試験でもよくよく詳細に比較検討してみるとだいぶ勉強すべき方向性が変わることもある。

例えば、同じ「会社法」が出題されると言っても司法試験と司法書士試験ではその内容がまるで異なる。司法書士試験の会社法は司法試験受験生があまり力を入れないマニアックな論点とされる会社設立や組織再編はもちろん、直前期の司法試験受験生はまずチェックしない持分会社の仕組みも押さえなければならない。また、司法試験用法文には掲載されていない商業登記法も司法書士受験生はある程度学ぶ必要がある。こうした違いが生じるのは、司法試験は裁判所が運営する裁判所の訴訟手続きに関する法的思考力が十全に備わっているか判別する試験であるのに対し、司法書士試験は登記手続きに関する十分な法的知識の有無と理解を問われる試験だからである。安易に「大は小を兼ねる」などと都合良く捉えていると痛い目を見る。

このように、類似したようにみえる資格試験であっても「終点」の確認を怠っては学習の方向性を誤るのはもちろん、何年も金と時間を浪費することになりかねない、というよりその可能性が極めて高い。なので、まずは自分の目指す試験の詳細を知る必要がある。これ自体はあらゆる試験の合格者や予備校の講師も同様のことを言っている(Youtubeで自分の目指す試験の名称で検索をかけてみると分かるはずである)。

とはいえ、初学者の段階から本気で過去問を真面目に取り組む必要はないと考える。最初から厳密に制限時間を設けて問題を検討したところで碌に解けないことは明白であるし、それで学習するやる気を無くしてしまっては本末転倒だからである。そもそも過去問とは一度見たり検討して終わるものではなく、何度でも繰り返してみるものだからである。最初の一回は問題の分量がどれだけあるのか、問題文を読み切るのにどれだけ時間がかかるのかを確認するだけでもいい。司法試験の論文試験であるなら、合格者や予備校講師が作成した制限時間内に作成した合格答案を実際に模写してみて、自分の答案を書くスピードがどれ程のものか試してもいい。とにかく、「終点」設定の最初のハードルは自分が超えられそうな高さから始めるとよい。

2.「始点」の設定~ここを乗り越えられるか~
「終点」の一応の設定が完了したとして、今度は「始点」すなわち現時点での自分の素直な実力を直視できるかが肝要となる。その「始点」を設定するタイミングは早期の模試の受験か、あるいは自分で制限時間を設けて(出来れば本番と同じ時間帯で)実際に過去問を解いてみることである。しかし、この作業をしない、出来ない人が少なからずいると思われる(少なくとも私がそうである)。自分の現在の実力では目標の試験を突破できないという現実を直視しなければならないからである。まして、模試で採点されるとなると強制的に他人から「(現在の)自分には合格する実力がない」という烙印を押されることになるからである。自尊心が傷つけられるのが何より嫌だからである。

しかし、一時の苦痛を避けるためにより大きな苦痛を味わうというのは経済合理性に反する。最悪の場合はそもそも試験を受けないということにもなりかねない。挑戦しないということは失敗はしないが成功もしないのだ。もちろん、経済状況や個人を取り巻く環境によっては撤退すべきことまでを否定するものではない(現に私は司法試験からは撤退した)。

けれど、せっかく挑戦することを決めたのであるならば、まずは現在の実力のない自分を「識る」ことが必要となる。ソクラテスの「無知の知」を実践するときが来たのである。まずは自分が何も知らない、出来ないことを自覚することが成功への第1歩なのだ。過去の出来なかった自分を「何で当時の自分はこんなことも分かっていなかったのだろう」と笑えるようになる日は正しい方向に研鑽を積んでいれば必ずやってくる。賢くなるための第一歩として現在の自分に足りないものを謙虚に受け止める訓練を積んで欲しい。最初はショックを受けることでも、慣れると段々耐性がついてくるものだ。あるいは、悔しい思いを原動力として励んでもいい。内心でどう思おうと、最善の結果に近づくのであればそれでいいのだ。

余談であるが、こうして自分の現在の実力を素直に受け止める訓練を続けた人は他人にも優しくなることができる。現在の他人の苦労をかつての自分事として受け止めることが出来るようになるからだ。こうして優しい人が少しでも増えていけば、いくらか生きやすい世の中にもなるだろう。また、苦労している人に対する態度でその人の為人や能力の高低、信頼に足るか否か自分の判断基準を設けることができるようにもなる。

3.終わりに
こうして書いてみるとあまり突飛な、あるいは誰も見たことのない目新しい方法論ではなく「当たり前じゃね?」ということばかりである。そう、当たり前のことしか書いていないのだ。しかし、やらない人間はこうした当たり前のことさえしないのだ。あるいは出来ないのだ。そもそも結果を出す人間が無意識のうちに「当たり前」と思っていることでも思いの外共有されていないということもある。

それに、革新的な結果を出す方法なんてものが本当に存在するなら情報商材としてとっくに高値で誰かが売り出して儲けているに決まっている。あるいは、奇策に走るというのは大体は再現性がないか、結果を出した者の大多数が既に「使えない」と検証され尽くした手であることが真実なのである。そもそも無料でおいしい話というのはそうそう転がっているものではない。

頭で知っている・分かっている(つもりになっている)ことと実際にそれを実行できることには天と地ほどの差がある。理論を知っているだけでは目の前の現実の問題を解決し得ない。それに、実際に試してみて初めて分かることや自分専用にカスタマイズする余地が生まれることもままある。

受験においては、特に記述や論文試験が課される難関試験においてはインプットよりもアウトプットに時間の重点を置く方が合格の可能性は高まる。各々の使える資金・時間・環境は千差万別であれど、結果を出す者の方法論は(あるいは、失敗しない方法論は)不思議と似通ってくる。そして、せっかく方法論を知ったのであるならば、是非一度は試してみて欲しい。実際にやってみないことには自分に本当に合っているのか分からないのだから。


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