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本棚はダンボール Vol.4 『世界の独在論的存在構造 哲学探究2』/永井均

Vol.3にて読んだ、『なぜ人を殺してはいけないのか?』という本の対談のうちのひとりが、この永井均さんでした。

哲学書、ひいては永井さんの著書をもっと読んでみたいと思い、本屋をうろついていたところ、こちらがフェアで紹介されており、1から読まなくても、2だけで面白い内容であるとのことだったので、購入してみました。

本格的な哲学の本というのはたぶん、初めて読んだのですが、むずかしい!

むずかしいうえ、はじめのほうに、「哲学の本は1行でも分からない文があってそれを理解しないまま読み進めたらそれは全く理解してないのと同じだ」みたいなことが書いてあったので、なんだか「ちゃんと理解して読まなきゃ!」と背筋が伸びるようでした。 

ですが、結論から言うとわからない部分、たくさんありました!
むずかしいんだもの!

なので、以降、分かっていない人の、分かっていないぼんやりした感想と思ってお読みいただけたら幸いです。

現実と、実在が異なるということが、哲学初心者の私には面白く感じられました。
実在(私はこの意識である)の側から現実(私という主観が存在する)を突き止めることは可能であるが(私はこの意識の主、てことは私というものは存在している)、逆に、実在の側から現実を突き止めることは不可能であるということが、不思議です。不思議だけれど、確かにそう。私という主観が何故か存在してしまっている。けれど何故それが私の意識なのかはわからない。説明ができないのです。

〈私〉がどうして私であるのか、言語では表せない部分を真剣に突き詰めようとした本書を読みながら、他者が自分と同じように「意識(主観)」をもつ者であるとどうして言えようか、と、哲学的ゾンビのようなことを考えました。
わたしは、言葉というものの存在がすでに、他者も唯一の主観的世界を持っていることの証明となるのではないかと思います。
会話ができる、それは私と同じ、もしくは似通った認識を相手が持っているからこそできるものだと思います。哲学的ゾンビを否定する根拠にはならないけれど、言葉は他者の存在証明になり得る。

けれど、逆に、言葉が存在してしまった時点で本書が抱える、何故私は存在してしまうのか?ということに対する認識は不可能となったと思います。言葉がある時点で私たちの思考は言葉の範囲内になり、言葉の認識の範囲内には本書の問に対する答えは存在しないように思われるからです。

時間に関しても同じことが言える、という話がありましたが、時間の話のほうが、わかりやすかったです。

点と点は、いくらあっても線にはならない。
点というものが、・であるならば、これは小さな面と同じことであり、線も同じことが言えます。点はどこかの地点を指すという概念であり、実在し得ないものなのです。
だから、現在というものがいくら集まろうと、必ずしも時間は過去から未来への軸、流れのようにはならない。時間を軸のように考えることで矛盾が生じる。

また、わからなかった部分をすべて理解するために、しばらくしたら再度読み返そうと思います。

哲学書の面白さを知ってしまったので、これからまた読むぞ~!

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