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愛したぶんだけ懺悔しないと愛せない

猫がきっかけのnoteばっかりだな…。
それだけ「猫と暮らしてはじめて知る自分」があったということだと思う。

それらの「気付き」ほおおむねポジティブで、人生も捨てたもんじゃないな〜みたいなものなのだけれど、そうでもない「気付き」もあるにはあった。

現状の最もたるものは「懺悔しないと愛せない」である。

ここまで読んで陰鬱とした湿り気を感じたら、その通りなのでnoteを閉じてね。仄暗い日記です。
でもまあ、最後まで読んで「わかるー」て人がいたら、わたしにとってはちょっとした慰めになる。

▶︎ 「愛情を注ぐ」ことへの「気持ち悪さ」

わたしは家族ドラマが観れないタイプ。
そこに描かれる無償の家族愛が怖い。

愛情を注ぐキャラクターも、注がれるキャラクターも、その人たちの間で成立する感動も、受け入れがたくて見たくない。

見てしまうと「消化できない感情」が生まれて、わたしの中にず〜んと居座ってしばらく消えてくれない。

その感情をなんと呼ぶべきか今もわからないけれど、感覚にするなら「気持ち悪い」だ。

体調ではなく物事に対する「気持ち悪い」という言葉は、少なからず悪意みたいなものが含まれていると思う。

家族愛や無償の愛情へのわたしの「気持ち悪い」には、きっとほんのちょっぴり憎悪や敵意が込められている。

だから、何かを愛したいと思ったとき、わたしのバランスは崩れる。

▶︎ 「愛情を注ぐ」ことへの「罪悪感」

わたしにとって、極端に言えば「愛されること」は「気持ち悪いこと」で、つまりは「されたら嫌なこと」なのだ。

誰か/何かを愛そうとしたとき、「されたら嫌なことを他者にしているという矛盾」にぶち当たる。

その矛盾をごまかすために、わたしは「懺悔しながら愛する」。

現状に当てはめて言うのなら、「懺悔しながら猫をかわいがっている」。

どういうことかというと、猫を可愛いと愛でるにしても「この子が甘えてくれているのは他に人間がいないから。わたしはこの子の選択肢を奪った上で依存させてそれをかわいがっている」「わたしの愛は操作的で押し付けでしかない。心得て接するべきだ」とかなんとか頭で考えながら撫でるわけである。

「かわいがりたいから、かわいがる!」とは思えない。わたしにとってはそれが憎いからだ。
かわいがりたいからかわいがる、は何も悪くない。そうしている人を責めたいと感じたりもしない。だけどわたしがそうすることをわたしは許せない。

「かわいがるために懺悔している」なのかもしれない。厳密には。

これの何がいやらしいかって、対象のために自戒している以上に自分のために自戒しているところだ。なんにも正しさがない。

▶︎ 手放しに愛せないことのルーツ

「愛されることを気持ち悪いと感じる」と前述したが、「極端に言えば」と書いた通りまったくそうというわけではない。人から優しくしてもらったり、慈しんでもらうことが嫌なわけではないし、なんなら愛されたいとも思う。
この記事を読みながら「え〜!? てぃるぱちょのことこんなにも愛してるのに!」と思った奇特な方がいたらどうかガッカリせずそのままわたしを愛してほしい(おねがいします!!)

わたしに依存しようとする愛、わたしを操ろうとする愛が怖いだけなので……。
自分でも「めんどくせぇなこいつ」とはわかっている。

愛すること、愛されることへ、なぜわたしがこうもめんどくさい思考に陥るのか、理由はわかっている。

母親のせいだ。
わたしは母から愛されるのが苦痛だった。
愛されるのが苦痛で、愛する姿を醜いと思い続けた。
だからほとんど無意識に、同じになるのを恐れている。

母親以外の、もっと違う世界の人たちを見れば、愛されることや愛することのすてきな部分はそれなりにわかる。
実際のところ愛する姿は醜くなんかない。それも知っている。
わたしの認知が尖りすぎていることを理解できている。
それでも矯正できないのだから、なんかもうそういうことなのだ(思考放棄)

そう考えていないように振るまうことはできるけれど、考えないようにすることはできない。
だから自分は普通じゃないしめんどくさいし、しんどいと思う。
これは母親から私への呪い。難儀だ。

ということに、猫と暮らして気付いた。
そういう日記でした。

▶︎ 余談

もしもこのnoteを読んで動揺するお母さんがいたらいけないので、補足しておこうと思う。
子供を操るために「愛情」を利用していなければ大丈夫だと思いますよ。

母はわたしに「愛している」「大切な娘」とよく言ってくれた。
そして必ずセットで「だから」があった。

「愛しているから忠告しているの」
「大切な娘じゃなければこんなふうにしない」
小学生のころの記憶が強い。
愛しているからお母さん以外を信じちゃダメ。みんな裏切るからね。
他人は利用しなさい。
世界中であなたの味方はお母さんだけ。
友達の家に遊びに行きたい?やめて。
お父さんもしょせんは他人。そんなに懐くなんてどうしたの?もしかして《さわられたり》していない?
わたしにはなんでも話しなさい。愛しているから心配なの。
ごはんおいしい? あなたが大切な娘だから作ってあげてるのよ。
本もゲームもあなたの望みを叶えてあげるのはね、あなたが可愛い娘だからよ。
あなたはわたしの自慢の娘。あなたはできる子だものね。将来は〜〜。お母さんは〜〜だったから、あなたは〜〜しなさい。愛しているから、大事な娘だから、あなたには幸せになってほしいの。

「あなたは幸せな子」
そう母に言われ続け、近所の人や教師や、色んな人にも言われた。
周囲からのそれは「贅沢な子」という皮肉もあったと思う。
事実なのかもしれないが、わたしがどう感じていたかはまた別の話だ。

というわけなので、心当たりがなければよその話と思って読み流して良い。
心当たりがある人はそもそも心当たらないし、悩まないだろうけれど。

ちなみに、わたしは家出して実家とは縁を切っています。家出のあとから「わたし」の自由な人生は始まり、「例の幸せな子」の存在はなかったことになりました。めでたしめでたし。



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