マウンティングは心の痴漢です
こんにちは。白目みさえです。
日々の臨床の中で気づいたことを書いていきたいと思います。
ブログでは漫画なども更新しておりますのでよろしければご覧ください。
私はブログの方でこんな連載もしているのですが…。
私はまああああああよくマウンティングされます。
たくさんネタがあるのでこのような漫画を描くことができるのですけれど。
ただ誤解しないで頂きたいのは、マウンティングが何がなんでもダメではないという点です。
マウンティングしたくなることや、したことは誰にでもあります。
私もあります。
あなたの得意分野について浅いウンチクを語ってきて「あなたは知らないでしょう?」みたいな反応をされれば、カチンときて言い負かしたくなる時はあるのではないでしょうか?
また困っている人がいてあなたに助けを求めてきたら、必要以上に教えたくてペラペラ語ってしまうことはあるでしょう。
そんな風に一時的にマウンティングしたくなること、してしまうことは誰しもあるのです。
「あれマウンティングだったかな」なんて反省する人も多いかもしれませんが、そう思い悩む人は大したマウンティングはしていないので大丈夫です。
でもどんな相手だろうが、いつもマウンティングしがちな人っていますよね。
今回はそんな人にマウンティングされた時の心の持ち方のお話です。
そもそもマウンティングってなんなのか。
なぜするのか、なぜされるのか。
そしてどうして「心の痴漢」なのか。
その辺りを説明していきたいと思います。
マウンティングとは
一応ここでマウンティングの意味について確認しておきましょう。
マウンティングとは、自分の方が相手よりも立場が上であること、また優位であることを示そうとする、行為や振る舞いのこと。特に、対人関係において、自分の優位性を示そうと自慢したり、相手を貶したりすることを指す。
わかりやすく言うと、自分をあげて、他人を下げる行為です。
マウンティングには色々な種類があります。
やたらとあなたのファッションや生き方に口を出してきてプロデュースを試みようとする人や、あなたの欠点をとにかく指摘してくる人、自分が中心でないと気が済まなかったり、自虐的自慢なんていう言葉もありますよね。
どうしてマウンティングをするのかというと、これはもうただ一点です。
「自分に自信がないから」
人と比べて自分が優位に立っていないと不安で仕方ないのでマウンティングをします。
つまりマウンティングをされたということは、あなたに対して「やばい…負ける」と相手が思っていたということ。
あなたから見て「いやいや、私より上ですやん」と思うような人だったとしても関係ありません。
その人自身がいつも自分のことを「下」だと認識しているので、周りがみんな「上」に見えています。
自分が「下」だからこそマウンティングして安心しようとするのです。
こんな風に明らかに「あーマウンティングだな」と分かれば蹴散らすことができますし、「あの人ちょっとねえ」と思うことができます。
でもハッキリと「相手が悪い」と言いにくいタイプのマウンティングも存在します。それがこちら。
①アドバイス型
頼んでもいないのにアドバイスをしてくるタイプ。
②正論・綺麗事型
聞いてもいないのに正論や綺麗事を教えてくれるタイプ。
③ミス指摘型
文字の間違いやおかしな表現を見つけると本筋を無視してでも指摘してくるタイプ。
この3つの共通点は「良かれと思って」「正しいことをしている」と本人が思っていることです。
善意や正論というのは、世の中で「やって良いもの」「正しいもの」と認識されているのでこのタイプのマウンティングをする人は遠慮がありません。
そして受けた側も「え?」と思ったとしても、否定したり拒否したりするのが難しい。
なぜなら否定、拒否したところで「あなたのためを思って」「良かれと思って」「だってそうでしょう?」などと言われてしまい、ヘタをするとそれを素直に受け取れないこちらが悪いみたいな反応をされてしまいます。
でも「要らない善意は悪意と同じ」です。
受け取り側が「あ、別にそういうのいらないです」と思っているのだとしたら、どれだけ善意があろうが正しかろうが「不要」なのです。
渡す側にとったら「良いもの」だとしてもそんなことは関係ありません。
「私にとっては娘の使用済みオムツすら愛おしいので差し上げますね?」と言われても赤の他人の子どものオムツなんていりませんよね。
断って「良さが分かってない!」なんて怒鳴られた日には、「知らんがな」ってなる案件です。
「アドバイス」や「指摘」も同じ。
もらった側がそれを望んでいないのであれば、「不要」なのです。
厚意や善意の目的は「気持ちよくなりたいから」
厚意や善意からくる行動。
その目的は何かというと、内容や種類、程度はどうあれ「自分が気持ちよくなりたいから」するものだと思います。
私もどうしてカウンセラーをしているのか、そしてイラストを描き続けているのかというと、自分が楽しいというのもありますが、私の発言や作品で誰かが楽になってくれたらいいなあという思いがあります。
人の役に立つ、感謝をされる、それは私にとってとても「気持ちいい」ものです。
逆に言えば、やっていて不快で不快でしょうがないのならきっとやらないでしょう。
「自分のためなんて1ミリも思ってない!私は相手のことだけを考えてやっている!」と思う人は、もう少し自分の幸せに焦点を当ててみても良いかもしれません。
「やっていて幸せよ!」と思うのなら、それがあなたにとって「気持ちいい」ということです。
人に優しくしたい、親切にしてあげたい。
その思い自体はとても素晴らしく、ぜひ大切にして欲しいものです。
ただ「どこか自分のためでもある」という思いは無視してはいけないと思うのです。
そうでないと相手が受け取ってくれなかったときに、「私はこんなにあなたのことを考えているのに!」という発想になってしまいますから。
もうひとつの「気持ち良さ」
いくら相手が望んでいないとは言え、純粋な親切心や厚意を向けられているだけではそこまで不快にはならないと思います。
でも先ほどあげた「善意」で「正論」をぶつけてくるタイプの方は、もうひとつの「気持ち良さ」を感じています。
正しいこと言うって気持ちいいんです。
超シンプル。
正論ってそれ自体を否定できないんです。だって「正しい」から。
どれだけ状況や相手の言い分や立場を無視していても、「正論」であればなんだかそれだけで「すごく正しいことを言った人」になるのです。
あなたが合っていて、周り(相手)が間違っているというとてもわかりやすく気持ち良い状況を作り出すことができます。
あと正論のいいところって「自分がそうできてなくても反論されない」ところ。
だってその「理論」自体は「正しい」から。
「正論を言う」というのは、とてもシンプルにかつ簡単に人の上に立てる方法なのです。
なんだか困っている、悩んでいる、間違っている(っぽい)人に対して、「正論よ!」と言いにいくだけで、確実に自分が上に立てます。
意地悪なマウンティングをするよりも、なんだか良いことした気分になれますし、マウンティングをした気持ち良さは残る。
そして一見マウンティングに見えないというところもおすすめポイント。
「人それぞれだし、個性に合わせるのが一番じゃない?」とか。
「悩みのない人なんていないんだからさ」とか。
「過去ばかり振り返っていないで先を見ないと」とか。
「全てのことが成長につながるよ」とか。
「子どものことを一番に考えて」とか。
間違いを正すパターンだと「言葉は正しく使わないとね」とか。
このような意見や文言は別に間違ってはいないわけです。
恐らくこういうことを言えば、誰かの悩みほぼ全てにマウンティングできます。
正論 イズ オールマイティ。
(↑文法的なことはそっとしておいてくださいね)
ただ、これでは「解決」しないんです。
なぜなら「相手はそんなこと求めていないから」
『正論』というのはある程度一般化されたもの。
つまりそれぞれの悩みの個別性は無視されているんです。
『正論』でマウンティングされた人の多くは大体こう思います。
「いや…そうかもしれんけど…」
もうこの時点で全然欲しい答えではない。
『正しい』かもしれんけど、『必要』ではないんです。
相手の状況、相手の希望、2人の関係性、それらを全て総合して頭を捻り出して出てきた答えというのは、意外と『正論』ではないことがほとんどです。
「勤労は国民の義務である」というのが正論であっても、今の状況を考えると「仕事は辞めよう」というのが必要な場合もある。
「母親は子どものことを一番に考えないと」というのが正論であったとしても、状況的に「ちょっと子どもと離れて旅行でもしましょうか」というのが長い目で見た時に最善の場合もある。
「正論」というのは多くの場合、言っている方がマウンティングできて気持ち良くなるだけで、なんの解決にもならないことが多いのです。
なぜなら相手の話をちゃんと聞いていないから。
マウンティングは「心の痴漢」
先ほど『正論』でのマウンティングは「自分が気持ちよくなれる」とお伝えしました。
もちろん自分が気持ち良くて、相手も気持ち良く終わるのならそれはそれでいいのです。
でもする方だけが気持ちいい、された方は不快でしかない。
そんなマウンティングは「痴漢」と同じくらい迷惑な行為です。
アドバイスを求めている人にアドバイスをする。それは別に問題ないでしょう。
困っているので助けてくださいという人を助ける。それも問題ありません。
「何をするのが正解でしょうか?」と聞く人に、『正論』を伝える。何も問題ありませんね。
先にも言ったように、アドバイスをしたり、理想論や綺麗なことを言いたくなることや、言ってしまうことはあります。
それ自体が問題ではないのです。
「相手が望んでいないのに」というのが問題なんです。
ましてやそれが「知らない人」の場合。
もう完全に『痴漢』です。
Twitterなどでも「また子どもが寝なかった」と呟いただけで、それまで全く関わりのなかった人が「良かれと思って」、寝るための方法をたくさん教えてくれることがあるみたいです。
でもその人がそれを既に試している可能性は考えたのでしょうか?
お子さんがどうして寝なかったのかわかっていたのでしょうか?
発達特性やお子さんの年齢はご存知だったのでしょうか?
続いているのか一晩だけなのかご存知だったのでしょうか?
そしてそもそもそれを呟いた人が「解決策を望んでいる」かどうか確かめたのでしょうか?
相手が知らないと思い込んで、正論をたくさん言えて、言った方は気持ち良くなったかもしれませんが、言われた方は聞いてもいないことを聞いてもいない人から言われて、ただただ不快です。
そう反論すると「だったら愚痴るなよ」というような人がいるんだとか。
でもそれって「短いスカート履いていたから触って欲しいのかと思った」というおじさんと同レベルではないかと思うのです。
自分が勘違いしていたことを指摘されて逆ギレしているだけではないでしょうか。
自分が今からアドバイスしようとしていることがマウンティングにならないかどうか判別する方法はただひとつ。
「相手が求めているかどうか」です。
私も心理士として実感していますが、求められてもいないアドバイスほど役に立たないものはありません。
相手が求めていて、これまでにも2人の関係性が十分にある状況なら、アドバイスや正論がマウンティングになることはありません。
大して仲良くもない、ましてや相手のことをよく知らなければ知る気もない人に対してアドバイスや正論をぶちかますからマウンティングになるのです。
どうしても正論を言いたい人へ
でも正論を言いたい人は自分ではそれが「正しい」と思っているわけですから、きっと「言いたい」んですよね。
では正論を言いたくて言いたくてしょうがない人はどうすればいいのか。
自分で勝手に発信すればいいんです。
私も今好き勝手に発信していますし、誰かに対して言いに行っているわけではありません。
弱っている人、悩んでいる人を見つけて正論を急にぶつけることは痴漢行為となってしまいます。(なってしまいますって確定か)
TwitterやブログなどSNSで自分の意見を自由に発信できる時代です。
見たい人は見にきてくれます。
賛同したい人は賛同してくれますし、あなたの言葉が響く人にはちゃんと響きます。
マウンティングされた人へ
急な痴漢行為に驚かれたことと思います。
でもどれだけ正論であっても、あなたが望まないものは「いらない」と拒否して構いません。
正論を受け取って「そうできない私が悪い」なんて思う必要もありません。
ただの通りすがりの痴漢です。
私も先日副業を知らない人から「白目さんはもっと心理以外の世界を広げたら?」って言われました。
「例えば?」って聞くと「趣味の世界を広げるとか、心理士以外の人と関わってみるとか、何か新しいことをはじめてみるとか」と言われたわけですが。
「やっとるがな!」って心の中でツッコミました。
マウンティングする人は相手のことなんて見ちゃいません。
ただただ「なんか良いこと」が言いたいだけ。
相手がそれを受け取るかどうかなんてどうでもいいし、三日後に聞いてみたら何言ったかなんて忘れています。
「めっちゃ腹立つわあいつ!痴漢しやがって!」って心の底から全力で思っていていいと思います。
マウンティングは心の痴漢。
以後お見知りおきを。
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