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#16 わたしの淹れるコーヒーはまずい《きちんとエッセイ》


※いつもはふざけたノリでnoteを書いていますが、
《きちんとエッセイ》シリーズでは公序良俗を守り、淑女につとめます

残念ながらタイトルの通りである。
わたしの淹れるコーヒーはまずいのだ。

コーヒーは大好きで、よほどの二日酔いでない限り、毎日最低4杯は飲んでいる。
また、仕事ではもう3年、月に3本コーヒーに関する記事を書いているのだが、わたしが心を込めてコーヒーをドリップすると、どういうわけかおいしくない。

理論的には、豆の選び方、挽き方、淹れ方、ありとあらゆるコーヒーを美味しくする知識を書いて・知って、ドリップの講習にだって参加したことがあるのに、だ。

気のせいかもしれないと思って、料理上手で味覚に一定の信頼をおけるベビ子(娘)に飲ませてみると、やはり顔をしかめられてしまう。

どうしたらコーヒーがおいしくなるのか

そんなわけで、自分の四十の誕生日ついでに、コーヒーミル界のフェラーリ的存在である「コマンダンテ」を買えばどうにかなるかもしれないと思い、合羽橋のコーヒー器具専門店・ユニオンさんを覗いてみた。

しかし、「コマンダンテ」は安いものでもわたしの住んでいるボロアパートの家賃くらいの値段がして、その日覚悟が十分でなかったわたしは、店員さんに声をかけられる前にそそくさと店を出てしまった。

結局、家でコーヒーを飲む時は親類の葬儀の香典返しでもらった無名のコーヒーメーカーで淹れて、何も考えずにガブガブ飲んでいる。
そうして飲むコーヒーの味は、おいしくもないし、まずくもない。

家にいることで感じる孤独

わたしは勤務形態が完全なノマドワーカーなので、毛玉だらけのスウェットを着て一日中家の中にいても、誰に咎められることもない。

家で、母はいつも静かに眠っている。
割となんでもネットで買ってしまう我が家には、三日に一度は宅配便が届くのだが、最近はそれももっぱら「置き配」で、配達員は足音だけを残して去って行く。
そのため、家で仕事をしていると、台所にGでも出ない限り、殆ど声帯というものを活用することがなく、次第に喉のあたりがつまったような気分になる。
そして、いよいよ堪えられなくなると、最低限の身なりを整えて、商売道具のパソコン1台を抱えて家を出るのだ。

「人」を感じる場所としてのカフェ

最寄駅には、午後二時に閉まるシルバー喫茶が一軒だけある。
ガラス越しに中を覗くと、5席ほどの小さなバーカウンターに、いつも常連さんらしきお客さんたちが楽しそうに肩を寄せあって座っていて、とてもその扉を押す勇気が出ない。
そのため、電車で10分の埼玉南西部を代表する賑やかな街・所沢へ行き、充電ができる広めのカフェを好んで利用している。

カフェでわたしが発する言葉は、「本日のコーヒー、店内で。Suicaでお願いします」くらいだ。
それだけでも、途端に喉のつかえが取れたような気がするのだから不思議である。

また、これは最近改めて気づいたことだが、カフェで耳にする他人の話し声にも安心感を覚えるようだ。
四十になってようやく、石川啄木の「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」の気持ちがわかったということだろうか。

私にとってのカフェの意義

わたしにとってのカフェは、身だしなみを整えて外に出るきっかけであり、(わずかであれ)人と交流をし、人の発する音や声を知覚して、自分の社会性を確認する場所である。
また、自分では決して淹れることができないおいしいコーヒーにありつける場所でもある。

日によっては何軒かカフェをはしごすることもあり、ちょっとお金が勿体ないなと思ったりもする。
そんな時は必ず、「わたしの淹れるコーヒーはまずいから」と自分に言い訳をする。

もしかすると、カフェに行きたいがために、潜在意識がわたしにまずいコーヒーを淹れさせているのかもしれないな、とも思う。

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