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行動には名前がついていないから。


やさしい行動に、「これはやさしいだよ」というラベルをつけたらどうなるだろう。
なにも言わなければ、やさしいと思える行為も、途端に押し付けがましくなる。

普通、思いやりは、誰かに頼まれてするものじゃない。
"今" "あなたが" "それを必要としていると思ったから"  することであって、そこにあるのはやさしさであるけれど、それは強制されたものでもなければ、わざわざ口に出して示すようなものでもない。

ただ、わたしが、あなたのために、したいと思ったからするだけで、その受け取り方は、「やさしい」である必要はない。
もっと別の受け取り方をしてもらってもいいのだ。
悲しいことだけれど、「迷惑」になることも当然ある。
でもそれは、こちらがコントロールできることではない。
頭で考えれば、当たり前の話。

でもいつからか、やさしいと思われたいからやさしくしたり、いい子と思われたいからいい子にしていたり、暗いやつと思われたくないから明るくしたりしていた。

そんなこともよくある話。
多かれ少なかれ、誰しも、自分を見せたいように見せている。
そして、どこかで、見せかけだけの行動でも、なりたい自分になれていると思ってしまうし、見せたい姿が、そのまま受け取られていると思ってしまう。

やさしいと思われたいからしたやさしさは、ちゃんとやさしさとして受け取られていて、いい子と思われたいからしたいい子は、ちゃんといい子として伝わっていて、暗いやつと思われたくないから見せた元気は、ちゃんと元気だと見えてる 

でも、行動に明確な名前もラベルもつけていない以上、どう受け取られているかはわからない。
ただ、自分で、受け取られ方に希望を持ってしまっているから、期待した受け取られ方以外の捉え方にがっかりしてしまう。

ただ、相手のために、自分がしたくてしたやさしさなら、相手がどう受け取ろうと、「まあわたしが勝手にやったことだし」と、自分に落としどころを見つけられる。

でも、自分がやさしいと思われたいがために、相手のためにするやさしさは、やさしさ以外の受け取られ方をしたときに、「まあわたしが勝手にやったことだし」よりも深いがっかりをもたらすような気がする。

見返りもなにも求めないやさしさは、半分くらい玉砕の可能性もある告白みたいなもので。
でも狙ったやさしさは、7〜8割イケるだろと思っていたときの、告白みたいなもので。

狙ってしまって外れたことにがっかりしたり、そもそも狙っていた自分に気がついてうんざりしたり、ただただ行為が、好意が受け入れられなかったことに追加して、自分であげた期待に自分でがっかりするのと、自分の中の醜い感情に出会ってしまう、あのなんとも言えない感情が、全部ミックスされてやってくる。

それはもう混沌だ。

そんなこんなで、「こう思われたい」気持ちを膨らませすぎたら、疲れました。

たしかに、それでちょっと周りにいい行いができたり、仕事を頑張れたり、「なにかになりたい」という思いは、向上心にもなるけれど、
他人が関与することは、自分だけでどうにもならないので、どこかで自分の気持ちと、相手の反応や気持ちに、グラデーションが生まれてしまうから、その幅が開きすぎると、「なにかちがう」となってしまいがち。

気持ちよく、元気に、楽しく仕事ができていたのは、自分の理想と今の自分を比べていたときだった。

今は完全に、なんとなく感知した周りの理想と今の自分を比べてた。
だからいろんなことがこんがらがってしまっている。

まっすぐに、自分の理想と現在地点を比べられたらいいのに、よそ見ばかりしてしまうなあ。

目的地を決めてただ歩いたり、走ったりするだけじゃつまらないから、せっかくならたくさん寄り道もよそ見もしたらいいと思うけれど、楽しくい寄り道とよそ見をしたい。

人生って、むずかしいね。

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