エスカレーターを降りるとき。
エスカレーター、学校に作ればいいのに。
大学の1番新しい校舎は、地下1階地上7階という構造で、上の階に大きなホールだってあるというのに、エスカレーターがない。
あるのはエレベーター8台と、階段。
どう考えたってエレベーターが混雑する。
授業終わりには階段も人でいっぱいだ。
エスカレーターがあれば、この混雑は多少緩和されるはずなのに、そう思うことは何度もあった。
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でも、私は、今、社会のエスカレーターに乗っているな、と思う。
このエスカレーターは、幼稚園から小学校と一階ずつ私を次のステップに運んでくれた。
そして今、大学というエスカレーターを登っている。
次に用意されている階はきっと、社会人、会社。
そのために、みんな、がんばる。
それはそうだ、だって、それが、用意された道だから。
ここで、エスカレーターを降りるか、そのまま登り続けるか、を考えられる人ってどれだけいるのだろう。
だって別に、エスカレーターに乗り続けなきゃいけないなんて、決まっているわけじゃないのに。
でもエスカレーターに乗っている方が"当たり前"って言われて、降りたり、下りに乗り換えてみたりする方が"道を外れる"なんて言われる。
でも、誰かの意思で、エスカレーターに乗り続けている方がよっぽど不自然じゃないのだろうか。
自分の意思でエスカレーターに乗って、自分の意思でエスカレーターを降りる方が、よっぽど自然なように見える。
エスカレーターに乗る選択肢と降りる選択肢を天秤にかけて、その上で乗ってるなら、それはそれで自然なことだと思うけれど。
刷り込みとか常識とかそういうものと自分の意思が区別しづらいのは、少し皮肉なことだと思う。
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エスカレーターがあれば、混雑はきっと緩和される。
大多数の人はエスカレーターに乗るし、高層階に行きたい人はエレベーターを選ぶ。
1階下に行きたいみたいな場合なら、階段を選ぶ人もいるかもしれない。
でも、エスカレーターだけがあっても、階段もエレベーターもなきゃ、結局意味がない。
大事なのは選択肢があって、自分のニーズに最適な選択肢を選べることだと思う。
だからやっぱり大学には、エスカレーターも階段もエレベーターもほしい。
そして社会には、それぞれの選択に優劣がないという価値観がほしい。
さて、これは一体なんの話だったのだろう。
たまたま、最後の一文を書いている時に、エスカレーターに乗っていた。
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