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「言葉」を見直したい(12月12日~12月19日)*3


1週間分の日記読み返して書くnote。
全体の総括をしてみたり、好きなトピックをひろって話を広げてみたり、1週間分の日記を読んだ感想を書いてみたり。
毎日の振り返りを、さらに振り返ってみる、週末日記です。

「思考をつくるのは、言葉だ」という文章をどこかで読んだ。その文章がずっと頭の隅にこびりついている。

きれいな言葉はきれいな思想をつくるし、悪い言葉は悪い思想をつくる。たしかにそうだなと思う。だって、言葉は思考の土台だから。どんな言葉があれば、私の思考は、私の心は、スムーズに動いてくれるのだろう。そんな風に「言葉」をいろんな角度からみていたような、そんな1週間のお話。

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「言葉」にすること

日記は、言葉にすることだ。それがふと浮かんできたことでも、ずっと考えてきたことでも、無理やり文字にしてみたことでも、言葉を書いている。

日々、いろいろなところでわたしが会話をしていて、その会話を録音するように書くこともあれば、うーんと頭を捻りながら書いていることもある。今週は、あまりに体も心もバタバタしてしまって、日記を三日分溜めてしまった。そして合体版の日記を書いた。いつもよりも深いところまで潜り込めたような気がして、日をまたいでみるのも楽しいと思った。

話が少し脱線したけれど、言葉にすることは、感情を絆していく行為だと思っている。たくさん受ける刺激を、まだ言葉にならずに、もやもやと頭をかすめているものを、形にして、外に吐き出す行為。

ずっとずっと感情も言葉も貯めておくことはできない、なぜなら私のプールは小さいから。すぐにいっぱいになってキャパオーバーする。仕方ない。小さいのだから。

でも小さいプールからちゃんと排水してあげる方法もある。それが日記なのだ。

「言葉」を記しておくこと


私の毎日は忘却によって支えられていると思う。あまりにもたくさんのことを忘れすぎている。それはもう若年性認知症を疑いたくなるくらいに、物忘れがひどい。

でも、それですごく困っているというわけではない。大事なことは覚えている。つまり、大事じゃなさそうなこと、終わったことは、一瞬で忘れているのだ。だから、昨日なにした?なに食べた?ってきかれても、たぶんあんまりすぐに答えられない。純粋に記憶のかなたに飛んでしまっている。

そんな様子なので、毎日何を考えていたかなんて、一ミリも覚えていない。それはたぶん私なりの生存戦略なのだと思う。つらいことや嫌なことを引きずらないための。

でも、そんな生活を繰り返していると、本当に自分のことを見失いそうになる。どこにいて、なにをして、なにをたべて、なにを考えているのか、そういう手触りもなく、なでるように一日が過ぎていく感じ。それが少し怖いし、少しでもいいから自分の毎日を切り取って置いておきたかった。

つまりそれが、日記を書くということで、私の外部記憶装置でもあるのだ。整理して、記憶もしておいてくれるところ。今tumblrがなにかの手違いで見られなくなったら、結構な勢いで泣いてしまいそう。

「言葉」にならないこと

日記を書いて、整理と記録をしていても、それでもまだうまく処理しきれないこともある。そんな日は、涙が溢れたり、感情の歯止めがきかなくなったりする。

別にその涙も感情も、誰かに向けたり、誰かを利用するために使おうとはしていないのだけれど、でも、やっぱり、誰かの心を少し借りてしまうことがあって、少し申し訳ない気持ちにある。

大事なものを大事にするためにも、やはり言葉にならないことを少しずつ、言葉にしていく必要があるなと思う。

言葉にして、はじめて人に、ちゃんと渡せるから。ちゃんと渡してもらって、ちゃんと返してもらいたい。キャッチボールを、言葉で、する。

おまけ 「言葉」のこと

読んでいた本が難しかった。英語論文を訳したときの、あの構文が取りにくい感じ。そして、単語も抽象的で、具体的なイメージがしがたい感じ。

わかりやすい言葉が正義ではないのだけれど、言葉ってわかりやすくないと意味がないよねと思うことがある。だって、伝わらないから。

そしてわかりやすい言葉は、別に簡単な文章ではない。わかりやすいというと、小学1年生でもわかるような言葉が想起されるし、それでバカにする、バカにされるのような意見が飛び交う。でも違うんだ、バカにするとか、されるとか、知識の問題ではなくて、伝えたい相手に伝わるコミュニケーションをしようよってだけの話なのだ。

小学1年生に高校1年生の数学の話してもわからないでしょ、っていうたとえを出すと怒られそうだけど、ずっとプリキュアを見て育った女の子に、仮面ライダーの話してもわからないでしょ、みたいなことなのだ。

会話の中で、アニメやゲームやなにかの名台詞を盛り込んで来る人は結構多いけど、それをわかって拾ってくれる人のところでやらないとすべるのと同じようなことで。

つまり、相手の土俵にある言葉で説明するということなのだ。本の場合は、読者対象を定めたうえでそれをやるわけだけど、ときどきうっかり一般書のふりをした論文的なものに出会うと、むずかしいな、となる。

土台が違うから、同じ言語使っていても、わからなくて当然。伝える側もそれをわかるように書くことが大事だし、読む側もその土台の違いを想像しながら読むことが大事だと思った。

というのは、全コミュニケーションにいえることで、言葉一つでつまずいてしまってはしょうがないので、お互いの言葉を寄せていくことは、一つコミュニケーションを円滑にする方法になりうるのではないか、と思っているところ。

すごく長く一緒にいたりすると、言葉が寄っていくなという感触があって、あれを感じるときすごく「愛」だなと思う。逆に恋人のような近しい関係でも、ずっとコミュニケーションでつまずいてしまっていると、あれ?という気持ちになる。

カップルの別れの原因でしばしば、価値観のちがい、っていわれるけど、半分くらいは「言葉」のちがいだと思っている。つまり、言葉を合わせていきたい、いろんな人と。そのためには自分が使う言葉も見直さないといけないし、人が使う言葉もよく聞いてないといけない。

「あいうえお」からはじめる。

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