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消費しか、できないのだから


ひさびさに物を書く気になったので、noteを開いている。
どうせ三日坊主なのだろうけれど、今は"毎日投稿するぞ!"とか思ってる。どーーーうせ、三日坊主なのだろうけれど。

なんで突然書く気になったのかといえば、30過ぎたオタクが虚無みたいな一連のツイートを読んだから。

別に消費活動以外捨ててるわけではないけど、かといって目に見える生産活動はしていないので、ちょっと生産ぽい活動をしよう、と。
笑っちゃうくらい短絡的。

コンテンツを消費することが悪だとは思わないし、私にとっては必要な営みだと思う。とはいえ、それに傾倒しすぎたら、何かが破綻するのだろうという、不確かな予感だけはある。

一方で、じゃあ何を趣味にすれば?と思う自分もいる。生産性のある趣味って具体的になんなの?仕事?勉強?

chtaGPTに聞いてみたら、語学学習、音楽演奏、プログラミング、料理、読書、と言われたけど、それらに「趣味」と言えるほどハマれない場合って、どうしたらいいのだろう、と思ってしまった。

生産性のある趣味って、余裕のある人にしか楽しめないものだという思い込みがどこかにあるのだ。コンテンツを消費するような趣味が好き!というよりは、それしかできないに近いような。そして資本主義の奴隷になって、結構お金を稼ぎ、コンテンツに注ぎ込むというループから抜けられなくなる。

だから、少しだけ努力をして、方向転換をする必要があるのだろうな、と思う。
全員に必要があるかはわからないのだけれど、ただ、そうすることが未来の自分のためにはなるのだろう。

最近なんとなく、コンテンツの頭打ち感があって、概ね○○はこう、というものがわかってしまうと、ある種お決まりのパターンに慣れてしまう感覚。
どんどん自分の要求や期待が上がってしまうのもある。きっと、新鮮さや驚きに感動を受けているから。

そうするとまた別のジャンルを開拓するとかしかなくて、でもきっと別ジャンルでもまた同じことが起こる。

コンテンツがこんなにある今、全てのコンテンツを消費することはできないにしても、膨れ上がった期待は虚無を生むし、これまでの経験による慣れは意外と手強い。

だからきっと、作り手になるとか、感想を書いて宣伝するとか、何かしら、人から与えられたもので満たされるのではなく、自分の行動によって満たされる必要が出てくるのだろう。

それがつまりは、生産性のある趣味、なのかな、とか思ったり思わなかったりする。

何はともあれ、ただ働いて、ご飯食べて、寝て、時々友達と遊んだり、物語体験をしに出かけたり、特段生産性のない日常を文章にすることが、「生産」になるのは、不思議だなと思うので、その可笑しさを証明してみたい、みたいな気持ちもある。



ひさびさに文章を書いたけど、全然まとまらないし、日付も超えてしまった。本当に文章というものは、めんどくさい。
脳内の思考全部、言語を介して行ってほしい、と思うものの、ただでさえキャパのない私の脳でそれを行うことは不可能だということもよく理解している。
だからこうして、ダラダラ時間をかけながら、言葉を積み上げてゆくしかないわけである。

駄文に価値がないとしたら、それは「生産」にはならないのだろうか。
どうにかただの翻訳を「生産」にしたい。


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