見出し画像

「キッチン」を読んで,なんにでもさよならを言いながら生きてやろうと思った

いままで4回くらい「キッチン」を読んだ。https://www.shinchosha.co.jp/book/135913/

1回目は高校生とかの頃で,図書館で借りて読んだ気がする。
2回目からは、なんか唐突に思い出して,
読みたくなって,古本屋で見つけて買って読む。
だいぶ何年も経ってから,突然思い出してまた読みたくなるけど,
そのときは手元にない。また買って読む。

オンライン読書会の課題本で「キッチン」が挙がっているのを見て
久しぶりにまた読みたくなって,また古本屋で買って来て読んだ。

「死んだ人と一緒に生きているみたいな人生」というのがある。
接着剤でくっつけたみたいに身近だった人。
自分にとって世界といえばその人のことだったと言えるくらい
存在するのが当たり前だった人。
そういう人が突然失われると,接着剤でくっついたものをはがすみたいに
はがした側面はぎざぎざになり血だらけになり,
ずっと痛んでなにをしているときも,
その痛みを忘れるということはできなくなる。

痛みがあるままの状態で,日々をこなす。
もちろん,こなせないことも多い。
だからキッチン横にふとんをしいてようやく眠ってみたり,
ふらっといなくなって豆腐しか出ない宿坊で空腹に耐えたり,
分厚い料理本の最初から最後までひたすらレシピ通りに料理を作ってみたり,
男子なのにセーラー服を着て生活してみたりするんだと思う。

普通の生活がどんなだったか?
そんなの本当にあったのか?
感じていることにフォーカスすると,
あまりの痛みに涙が出ていることさえ気がつかないほど普通に涙が出るので,痛みにフォーカスしないように,上の空みたいな生活をする。

「キッチン」はそんな状態の人々がなんとか日々をすごしている様子と,
それらの人々がお互いに傷を負った状態であることを話す前から察知して,
しばらくの間,一緒に生きて,
各自めちゃくちゃゆっくり回復していく様子を観察するような本だ。
嘘をつくことも,無理をすることも全然できなくて,
でもなんとかなにかを食べて,なんとかどこかで眠って,
いちにちずつ生きのびている人々の様子を。

またひさしぶりに「キッチン」を読んで,
主人公たちの様子を観察しながら,
私は自分自身のずいぶん再生したぎざぎざの傷にも,
ひさしぶりにそおっと触れてみたような気持ちになった。

ラーメン屋が好きで,注文するとき「私のラーメンスープはとりわけ熱くしてほしい」と嬉々として主張していたあの人。
猫の出産に立ち会って,翌日その猫たちと一緒にいねむりしていたあの人。
ある日突然死んだあの人に,私はもう会うことはできない。
会うことができなくなってから,本当に一度も会っていない。
(当たり前だ,死んでるんだから。だけど,会えないことはいまだに不思議だという感覚を伴う。)

私にとっては,このぎざぎざの傷と,傷にふれたときの痛みが,
その人が本当に生きていたことを思い出す唯一の手段のようになっている。

一つ,不思議なことがある。
「キッチン」を読んだのは今回で4回目くらいだけど
初めて「キッチン」を読んだ頃は,私はまだ「死んだ人と一緒に生きているような人生」じゃなかったと思うし,ぎざぎざの傷も負っていなかった(はずだ)。
けどなんでだろう?この慣れ親しんだ「ぎざぎざの傷にそおっとふれるような心の動き」は,「キッチン」を初めて読んだときから,同じように感じていた気がするんだよな。

知らなかったはずなのに知ってたのかな?
そうだとしたら,それはなぜなんだろうな?

もしかして,ただ生きてるだけで沢山のものと出会って頼って支えられてるから,
私が出会って通り過ぎて,どんどん過去になるものすべてが,小さい小さいぎざぎざを作っていっているのだろうか。生き続けている私と世界の境目はどんどんぎざぎざになって,私の輪郭は,もうフィヨルドみたいにぎざぎざだらけなんじゃないだろうか。

だとしたら,何があってもなくても,
日々さびしいのが当たり前だという気がしてきた。
なんにでもさよならを言いながら生きてやろうと思った。


#創作大賞2024 #エッセイ部門
#吉本ばなな #キッチン #グリーフ






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?