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「映画:君たちはどう生きるか」は面白いかつまらないか・・・?!というより,それが(私にとって)どんな物語だったのか。という話

あの映画を「今年一番つまらない映画だった」とか「見終わってすぐ友達と顔を見合わせて苦笑いした」とかいう話をときどき耳にします。

それを聞くと私は、私たちは世界が同じように見えているという前提でいつも生きているけど、そうではないのだということを思い出します。

そうだ私たちは,若者にしか聞こえない音域とか,ある特徴を持つ人にしか理解しづらい不可解な映画とかが存在する世界に生きてる。つまり受信器である自分たちがおのおの知覚する世界に生きてるんだと。
人間の受信器の性能はみんな似たようなものだという前提で社会は動いてるけど,実は部分的に大きく異なっていることがあるんだったと。

たしかにあの映画は,起き抜けの他人の夢の話を聞かされているみたいな,いやもっというと直接頭の中と回路をつないで,夢の中を覗かせてもらったような話でした。
わけがわからないという感想を持つのはもっともです。
理解しようとすればするほど,分からなくなる映画かもしれない。それは受信の仕方があの映画に合っていないからだと思います。

以下に少しだけ,私にとってあの映画がどういう物語だったかについて書きます。

あれは真人の,内面の,命がけの冒険を描いた映画です。
個人の内面の体験なので,詳細に説明している場合ではなく,辻褄を合わせる必要もない。了解可能な部分と,了解不可能な部分が入り交じります。
不親切な感じがするかもしれませんが、仕方がありません。
まず「そういうものだ」と思うと,世界に入りやすくなるんじゃないでしょうか。夢を見るときの鷹揚さで,あの映画を観てみるのがおすすめです。

生きるか死ぬかの瀬戸際を,真人は大きく目を見開いて全力で考えて,
だまされそうになったり助けられたりしながら生き延びます。

真人はあの冒険に出なければ,たぶん近い将来死んでいたし,
行っても戻って来られなければやはり死んでいたでしょう。
変な言い方になりますが,自分の生をとりもどすために,
真人は冒険に巻き込まれるしか道がなかった。
彼は物語の冒頭で,死んでしまったお母さんを助けたかったという無念の思いに,食い殺されそうになっていたからです。

この物語を私がどう受信したかについては,観た日に書いたものがあるので,もし興味持って下さる方がいれば,そちらも読んでいただけると嬉しいです。

物語は見る人(読む人)のものです。
もし誰かがある物語を読んで,「何を言いたいのか全然分からなかった」と思っても,それはそのとき,その人には必要ではなかったから,入り口が出現しなかったんだろうと思います。それが面白くない映画なのではなくて,自分にとって面白くなかっただけということ。もしかしたら一生必要がないかもしれないし,人生のある時点で,急に必要(あるいは何らかの効能を持つもの)になるかもしれません。そのときはきっと扉が出現します。もしくは気づかないうちに物語に巻き込まれています。

自分にも,最初は何のことか分からず読むのをやめたのに,
数年後に読み返すと引き込まれ,夢中になって読んだ本が数冊あります(村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」が特にすごかったです)。
物語って入れたり入れなかったりする。
逆の体験(少年のころ夢中になって読んだ本が,今はそれほど面白く感じられないとか)もあります。私にとってはリンドグレーンの「長靴下のピッピ」などがそれにあたります。今読んでも面白さは分かるのですが,子どものころのように,本を開けば頭からその世界にダイブするような没頭はもう得られません。

すこし寂しい気もするけれど,物語に無理に入る必要はありません。
自分のサイズに合わない服を無理に着ようとするのは無駄だというのと同じことだと思えばいいんです。
ただ自分が今着られないからといって,その服をけなす理由にならないように,ある物語に入れなくても,その物語を悪く言う理由にはなりません。
私これは今,要らないみたい。という感じでスルーすればいいと思います。

ただ,せっかく物語を読もうと(あるいは映画を観ようと),期待して時間やお金を投資したのに,その物語が結局自分にとってはつまらなかったというのはやっぱり,がっかりする体験です。
不可解だったとして,それが難解な哲学書なら諦めもつくけど,
楽しみにしていたアニメ映画でとなれば,何となく傷つくような,
もしくは憤慨するような気持ちになるかもしれない。
クイズやテストに慣れていると,
自分の能力を査定されているような気分になることもあるかもしれない。
理解できないのは自分のせいじゃなく,作品自体が駄作なのだと決めつけられたら,すっきりするかもしれません。いったん,そうしてもいいと思います。

けど,本当はマッチングがそのとき合わなかっただけなんじゃないかと思います。
例えばラジオにAMとFMがあり,AMのアンテナではどの周波数に合わせてもFMの番組は受信できないのと同じことです。
「現実社会」と「内的世界」の受信機能のうち,思い切り「現実社会」に周波数をふりきっている人は,かなり「内的世界」にふって描かれた「君たちはどう生きるか」の物語は,ほとんど受信しなくて当然かと思います。

日常のフレーズで言い換えると「今の自分には刺さらなかった」と言えばいい。ただ,それが刺さる人がいる以上、刺さっている”何か”が存在するんだと思った方がいいと思います。
刺さった相手にあなたは何が刺さったの?とたずねてみて,
その人との対比で「それが刺さらない自分」を眺めてみるというように,
受信器の特性を比較してみることはできるんじゃないかと思います。
だから「今の自分には刺さらなかった」という体験には,
自分を知るうえで,すごく大きな意味があります。

また,もしその物語にもし一つでも記憶に残った場面や気になる設定,
台詞がある場合には,それについて誰かに話してみるのがいいと思います。

できれば自分とは違う感想を持っている人を見つけて話せば,自分がどう受信したのかということも少しずつ明確になってきます。
ついそのわけのわからない映画の悪口を言いたくなるかもしれないし,
それは口に出してみても書いてみてもいいとは思います。
「その映画をこの点で悪く思いたくなる自分」を眺めてみるところまでいけば,自分の特徴の発見やケアに繋がっていくかもしれません。

細部について人と話すことで,物語の入り口は若干大きくなります。
セーターの網目の小さなほころびが,触っているうちにどんどん大きくなるのと似ています。(もう,直せなくなるから触らないで!と言われるけど触っちゃいますよね)
話しているうちに,さっき入れなかったはずの物語にずるりと入っていくという体験をするかもしれません。
それとも,より強く「私は本当にあの物語が嫌いなんだ」と思うかもしれません。強く嫌うなら,そこにはきっと面白い理由があります。

嫌いな物語や入口が見当たらない物語に無理に入る必要はないけど,
もし入りたいという希望があるなら,だぶだぶでも窮屈でも工夫して入ってみればいいのではと思います。

入って横たわってみて,何も起きなければいったん帰ってくればいい。
もし何か小さいことでも起きれば,その動きを感知したアンテナを手掛かりにして,自分にとってはあたらしい受信方法をときどき試してみてもいいのかもしれないと思います。

自分が受信しづらい物語ってある

私は映画でもアニメでも漫画でも,たたかいシーンをしばらく見ていると眠ってしまう癖があります。(カーチェイスも同様に眠くなります。)そのせいで見終えることができない物語がけっこうあります。ときどき挑戦していますがなかなか克服することができません。みんなが大好きな名作を見終えることができていないのは,ちょっとコンプレックスでもあります。自分がたたかいシーンを見るとなぜ眠くなるのかは,あまり考えたことがなく,まだ何も分かっていません。

自分がこの文章を書き始めたきっかけは,先週親戚の集まりがあったときにこの映画の話になり,従妹のお姉さんが「あまりにも意味が分からなくて友達と顔を見合わせて笑った」と教えてくれたことです。
その感じはよく分かりました。あの映画が終わって出ていく大勢の人の表情はあきれている,失笑している,ポカンとしている,ムッとしているというような雰囲気だったからです。

もし数が多い方が正常だとするなら,あの映画を見終わったとき嗚咽して泣いていた自分は,どちらかというと異常者だったかもしれません。
でも本当は,私が異常なのではありません。ただその物語と自分の間に,何かが起きていただけです。
では,私と物語の間に何が起きていたのか?
自分にとってはそれを考えることが,映画鑑賞のあと長く長く続く楽しみです。

そこは灯りがついた駅ビルの中にあるごく普通の映画館でしたが,
私は頭の中で,まだ別のところに行ったままでした。
「君たちはどう生きるか」という物語を介して,
私は私自身の過去と,過去を自分なりに捉えた自分の物語にアクセスし,
そこで映画の主人公と重ねた自分の物語が動く体験をしていました。
そして映画の物語が終わってもまだ,
自分の物語からじゅうぶんに出てきていませんでした。
けれども私は映画館の電気がつき,ポップコーンや飲み物の食べ残しが入った容器や携帯,バッグを集めて手に持って急ぎ足で出ていく人々の中で,
「現実社会」に戻る時間がきたこと,現実の時間がふたたび動き出したこともちゃんと知覚していました。
泣いていることは犯罪ではないですので,当たり前ですが誰からも非難されませんでした。
私はトイレに立ち寄って水で顔を洗い,同じ駅ビル内のLOFTに行って,ファイルやボールペンなどの文具を眺めました。しばらくすると気持ちは落ち着いてきました。

少数派かもしれませんが、あの映画を観て嗚咽するほど泣いたのは私ひとりではないはずです。
100人に1人くらい?それとも500人に一人くらい?
分かりませんが,あの映画を観て泣く人は,映画を観ている最中に自分の「内側」に運ばれて行って,ひととき我を忘れてしまった人だと思います。
逆にあの映画を”わけがわからない映画だ”と憤慨する人は,自分の「内側」に一度も行かずに,あの映画のストーリーを理解しようとがんばった人なのかもしれないと思います。

私自身がなぜ泣いたかについて説明してみます。
精神医学的にあえて切り抜くと,私は母親の死を長期間ひきずった複雑性悲嘆の症状と,育った環境の中で体験した暴力などの体験から複雑性PTSDの症状を過去に持っていました。
そういった不具合を,時間をかけて物語を書き換えることで克服してきた中年の人間です。映画を見て一時的に、安全に過去を再体験したという風に説明できるかと思います。
(こんな言葉で解説するのは陳腐な気がするけど,「現実社会」の言葉に翻訳しようと挑戦しているので、どうかこらえてください。)

複雑性悲嘆や複雑性PTSDの体験者以外にも,あの映画に没頭した人は沢山いると思います。いずれにしても「現実社会」より「内側」に長く身を置いた,そこでなにかと格闘したような体験がある人々なんじゃないかと思います。少なくとも一時的に「現実社会」のみで生きることに違和感や苦痛を感じ,「内側」に移動して,光の見えない湿った長い長い洞穴のようなところにはさまり,動けなくなり,それでもときおり数センチ匍匐前進しては,力尽きてその場で眠るというような,表面上ではまるで何も起きてないように見えるのに死にそうな体験をしたことがある人なのではないかと想像します。

この映画を体験するとは(私にとっては)どういうことだったか。
人間は「現実社会」で生きると同時に、実は「内側」の世界を生きているということを前提とするのがいいのではと思います。
そんなことは分かっているんだ,分かっているけどあの話がつまらないのだ!と,なお主張する人もいるかもしれません。
けれども分かっている(と思っている)のと,それを体験するのとは,まったく異なることです。
山の頂上の写真をたくさん見たことがあり,登り方も映像で何度も見たことがあっても,実際にその山に登ったことがないなら「その山に登るというのはどういう体験なのか」を「分かっている」ことにはなりません。
息切れしても,遭難しても,天気も悪くて歩き方も装備も全部めちゃくちゃでも,自分でその山に登ったら「ああこの山に登るって(自分にとって)こういうことだったんだ」と,ひとつの体験が自分の中に追加されます。

つまり何が言いたいんだろう?
なぜこの文章はこんなに長くなったんだろう?

まだ何もまとまらないけど,いったんこの文章はこれで公開してみます。(まとまらなくてもいい,意見が変わってもいい)
自分は,自分にとって不可解なことが目の前にあらわれたとき,
ひっかかるものがなければ(あるいは忙し過ぎる場合),
つまりほとんどのことはスルーしますが,不可解であっても,そこに自分の体験したことがない何かがあって,私にはいま知覚できない何かを受信している人がいるんだなということは信じるようにしています。

だからつまり・・・この映画は私にとってはとてもリアルな内的体験に連れて行ってくれる映画だったので,この映画を不可解だ,駄作だと思った方にも,そういう作用を起こす可能性もある映画だということを,なんとか伝えたいという,ある種のトライアルとして書いてみました。

#君たちはどう生きるか #宮崎駿  
#創作大賞2024  #エッセイ部門



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