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ある言語研究者の4月

※ この記事は元々『Sabbatica』(https://amzn.asia/d/dfOki4a) という幻の、大学院生中心のエッセイ集に書いたものです。院生のときに書いて、つたないところも多いのですが、それなりに思い入れもあるので若干手直しだけして転載します。

もうすぐ春ですね、ちょっと語学しませんか

 4月。少し早咲きの桜がすでに散り始め、青空を背景に舞い散る花びらが新入生の入学を祝福しているかのようである。大学のキャンパスは新しい生活のスタートに胸を躍らせる新入生のドキドキとワクワクで満たされている。そんななか、遅咲きの(と思いたい)言語研究者はフレッシュさの欠片もなくキャンパスを徘徊する。サークルの勧誘に来る2、3年生たちは、わたしと目が合うと見てはいけないものを見てしまったかのように、そっと視線をそらす。母校の大学で迎える春は、もう14回目になっていた。

 4月。みなさまにとっての4月はどんな月であろうか。お花見の4月?異動や転勤の4月?だんだんと気温が上がりビールがおいしくなる4月?(ビールは一年を通しておいしいのだが)基本的に大学を中心として生活しているわたしにとっては4月はやはり新しい学期の始まる月である。そして、語学の4月でもある。テレビやラジオで新たに語学講座が始まるのが4月。そして語学のテキストが一番売れるのも4月だという(はりきって4月にテキストを買ったものの、そのあと5月、6月と続かない気持ちはよくわかる)。ここではある言語研究者の4月について、仕事や研究、語学の話を交えてお届けしたいと思う。

はじまりはロマンチックに?

 わたしは言語学を専門とし、特に韓国語の文法を研究している。そもそも読者の方は、言語学とは一体なにを研究する分野なのか、まったくなじみのない方も多いかもしれない。言語学と一口に言っても様々な分野があり、ここで詳しく述べることはできない。なので、ここでは文法研究にしぼって話をしてみたい。みなさまは受験のときに英語の参考書や文法書をご覧になったことがあるのではないだろうか。そこに書いてある文法は一体誰が整理し、書き記したものか、考えを巡らせたことがおありだろうか。例えば、主語が三人称単数現在なら、動詞に -sを付けて、"He runs." 「彼は走る」というとか、進行中の出来事を表すためには be + -ing を使って "He is running." 「彼は走っている」というとか、そんなのが文法である。当然ながら文法書が先にあるわけではなく、言語が先である。言語を丁寧に観察し、できる限り詳細に規則を整理してくれた先人たちがいたからこそ、英語やその他の外国語の文法書があるわけである。要は、あの文法書に書いてある、文法を研究するのがわたしの専門である。英語の場合、本屋に漬け物石にも使えそうな分厚くて重い英語の文法書が並んでいるのに、なにをさらに研究することがあるのかと思う方もおられるかもしれない。しかし、かなりよく研究されている英語ですら、日々研究論文が出されている。英語よりは研究が進んでいない韓国語はなおのこと研究が必要であるし、全然手つかずの言語もたくさんある。言語とはなかなかに多様で奥深いものなのである。

 わたしは大学の学部時代から韓国語を専攻し、紆余曲折を経た結果、修士、博士課程と韓国語の文法研究を続け今に至る。わたしの場合は学部入学から博士課程を満期退学するまで13年かかった。博士課程で所定の単位は取ったものの、博士の学位を取らずに退学した場合に、満期退学という。学部は4年間、修士は2年間、博士は3年間が基本的な修学年数なので、簡単な足し算である。最短で9年のはずだった。13年−9年=4年の間になにをしていたかについては、またどこかでエッセーにする機会もあるであろう。というわけで現在は博士課程を満期退学し、博士論文を提出するために、日夜論文執筆にいそしんでいる。ちなみに「なんで韓国語の勉強始めたんですか?」という質問は、これまでに飲んだビールの数と同じくらい受けているのだが、真面目に答えるつもりのないときは「初恋の相手が韓国の人だったんです」と適当なことを答えている。そんなロマンチックな始まりならよかったのだが、残念ながらこれは全くのデタラメである。韓国ドラマのように出生の秘密があり、腹違いの兄弟が韓国にいるとかいうわけでもない。

 学生でなくなってしまった現在は、主に韓国語を教えることで口に糊をしている(どちらかというとパン派だが)。韓国語を教える仕事は博士課程在学中から始め、現在3年目。最初の2年は週に2コマだけだったのだが、今は母校の大学での授業を含め、週に8コマを担当している。授業を担当しているクラスは、ほとんどが初級クラスである。初級というのはつまり、韓国語を文字から、まったくの白紙の状態から勉強するということである。

染まっちまった悲しみに

 韓国語の文字は、韓国語で「ハングル」という。勘違いしている方がたまにいるのだが、ハングルは言語の名前ではなく文字の名前である。最近は駅の案内板にハングル表記があったりするので、文字を見たことがある人は多いかもしれない。ハングルは例えばこんな感じである。

나는 맥주를 사랑한다.「わたしはビールを愛している」

 なんだか難しそうに見えるかもしれないが、実はそんなに難しい文字ではない。例えば、文字をじーっと観察すると、1番目の最初の文字 나 の右側と、3番目の最初の文字 사 の右側は、'ㅏ' で共通していることがわかる。これは /a/ という音を表す。では、残る左側はどうかというと、それぞれ ㄴ /n/ と ㅅ /s/ という音を表すのである。ㄴ /n/ とㅏ /a/ が組み合わさり 나 [ナ]、ㅅ /s/ とㅏ/a/ が組み合わさり 사 [サ] というように読める。つまり、一見複雑そうなハングルも、実は一つ一つのパーツが組み合わさってかたまりを作っているだけで、それぞれのパーツを覚えてしまえば、それほど文字自体の数は多くなく、難しい文字ではないのである。またこの文の場合は頭から「わたしは」「ビールを」「愛している」と日本語と同じ語順で解釈できる。韓国語は文法の面では日本語と大変似ているのである。

 とはいってもである。いくら文法が簡単だといっても、新しい文字を勉強するというのはそれなりに大変なことである。ローマ字に形が似ている、ロシア語などで使用されるキリル文字ですら敬遠されるというのだから無理もない。ちなみにキリル文字はこんな感じである。

Я люблю пиво. 「わたしはビールを愛している」

 一番最初の文字 Я は R をひっくり返したようだし、三番目の単語にも N をひっくり返したような и という文字があるし、最後は o である。ハングルよりはいくぶん親近感を覚えるだろう、学びやすそうだろう、と思うのは、わたしがロシア語を勉強していたからであろうか。ロシア語がキリル文字のために敬遠されるという話は黒田龍之助先生のエッセーにも書かれていた。黒田先生の専門はロシア語をはじめとするスラヴ諸語で、現在はフリーランス語学教師として活動しながら、数々のエッセーを書かれている。わたしは黒田先生のエッセーにはほとんど目を通している。わたしがこうしてエッセーを書いているのも、黒田先生の影響があるかもしれない。

 さて、わたしは韓国語に関してはもう十数年学習しているので、ハングルはよっぽどのことがない限りすらすら読めるし、けっこう酔っ払っていても韓国語は話せる。なので、初めて韓国語を学習する人が、どれほど新しい文字、ハングルに抵抗を覚えるのか、その気持ちは掴みにくいところがある。自分もかつて初めてハングルを覚えようとするときには、それなりに困難を感じたはずなのだが、そのときの感覚は今となっては思い出せない。もうあの頃のピュアなわたしには戻れないのである。「染まっちまったな」と言われればそうかもしれない。得たものも大きいが、失ったものも大きい。人生とはそんなものである。それに、わたしはいろいろな文字が好きなので、今は新しい文字の学習にはそれほど抵抗がない。しかし、韓国語の学習を始めたいという人の全てが、文字好きで、新しい文字の学習に抵抗がない、ということはないだろう。学習を始めたばかりのころは文字をすらすら読めないのは当たり前だが、わたしが初学者の気持ちを忘れていると「どうしてハングルが全然読めないんだ!」となりかねない。わたしは学習者の方たちの気持ちを少しでも理解するために、初めて韓国語を教えることになった年に、ある誓いを立てた。韓国語を教え続ける限り、4月には新しい言語を勉強しよう。それもなるべく新しい文字を学習する必要のある言語を。ということで、わたしにとっての4月は、新しい言語、新しい文字との出会いの月となった。

吐血のチベット文字

 韓国語を初めて教え始めた年は、チベット語を勉強することにした。チベット語を選んだ理由は、チベット語の専門家で、わたしが一度お会いしてみたいと思っていた先生が、大学でチベット語の授業を開講されていたからである。その他に、実はハングルと関係が深いとも言われているパスパ文字という文字は、このチベット文字を基に作られたのである。そんなわけで、チベット文字が読めるようになればパスパ文字にも親しめるのではないかと考えたことが大きい。

 チベット語のクラスは、かなりの少人数だった。正規で授業の履修登録をして来ている学生は3, 4人しかいなかった。そのうちの何人かは学期中に、大都会東京に出てくることで失われてしまったわたしのピュアさと同じようにどこかへと消えてしまい、学期末まで残っていたのは1人か2人だったように記憶している。その学生の他は学外の市民聴講生の方、学外からの聴講生、そしてわたしである。

 (´ཀ`」 ∠)

 こんな顔文字をご覧になったことはおありだろうか。この血を垂れ流したような口のところに使われているのがチベット文字 ཀ である。これは ˉka [カ] という音を表す。チベット文字で基本となる文字の数は30とそれほど多くない。まずは先生に従って基本となる文字を発音していく。

ཀ ˉka [カ], ཁ ˉkha [カ], ག ˊkha [カ], ང ˊnga [ンガ]

 ローマ字表記の前にある記号は音の高さを表している。チベット文字はその文字自体に、それが高く発音されるか低く発音されるかという情報を内在しているのである(ただし、この高い低いは環境によって変わりうる)。左肩に付いている水平の直線 ˉ はその文字が高く発音されることを、斜めの直線 ˊ は低く発音されることを意味する。ང はいわゆるガ行鼻濁音なのだが、ハングルにも似たような文字 ㄷ があり、これは /t/ という音を表す。さらにチベット文字には ཇ という文字があり、これは ˊcha [チャ] なのだが、またまたハングルにも似た文字 ㅌ があり、これは /th/ なのである。似て非なる文字に若干混乱しながらも一字一字発音を確認しながらチベット文字に親しんでいく。新たな文字との少しぎこちない出会いに新鮮さとトキメキを感じつつ、着実に文字を習得していくのである。だんだんと、ハングルを初めて学習する人の気持ちも分かってきそうである。ハングルを創製した世宗大王もびっくりのありえないハングルを書いてしまう学生さんにも、やさしく寛容に接することができる気がしてくる。そんなやさしさに包まれたなら、きっと目に映る全てのことは些細なことなのである。

 だがしかしである、チベット文字はそんなに甘くなかった。チベット文字は基本となる30字の前や後、さらには上や下にも文字記号が付き、見た目的にかなり複雑になることがある。さながら基本となる文字が胴体で、それに左腕、右腕、頭、足がくっついて完成する合体ロボのような感じである。合体ロボは味方なら心強いが、これが攻略しなければならないチベット文字となるとなかなかの強敵である。例えば、ག という文字は ˊkha という息の強くでる [カ] なのだが...合体!これに左腕ならぬ བ ˊpha [パ] という文字が前に付くと、なんと བག は ˊka [カ] となってしまう。 [パカ] ではないのだ。そんなバカな。ここでの [カ] は、 [カ] ではあるが息が強く出ず低く発音され [ガ] のように聞こえる。そしてまた...合体!今度は頭ならぬ ར ˊra という文字を上に付けてみよう.この文字が付くと བརྒ のような形になるのだが、発音はなんと ˊka [カ] のままなのだ!ར は上に付くと形が変わってしまい、ག の上に付いているタ○コプターみたいなものが ར である。だんだん猫型ロボットさんにチベット文字がすらすら読めるようになる秘密道具をねだりたくなってくる。これに足部分 ྱ、右腕部分 བ も一気に付けてみよう。完全体となった合体ロボは བརྒྱབ のような形になり、 ̂kyap [キャップ] という発音になる。意味は「〜する、加える、建てる(完了形)」である。全てがこのような複雑な見た目をしてるわけではないが、発音が声の高い低いも含めてコロコロ変わったり、また変わらなかったりするのでかなり苦労した。

 チベット文字の学習がある程度終わったころには、わたしは完全にこの顔文字 (´ཀ`」 ∠) のようになっていた。だんだんと「チベット文字はこんなに難しいんだから、ハングルぐらいで音を上げるんじゃないよ!」などというブラックな気持ちがわたしの心を侵食し始め、これではなんのためにチベット語を学習し始めたのか、まったく逆効果になってしまうところだった。しかし、ハングルもただ文字を覚えるだけではダメで、いろいろと細かい発音の規則があったりするので、やはり文字と発音の関係は一筋縄ではいかない。冷静さを取り戻し、再びわたしはやさしさに包まれる。

 難しさを感じつつもチベット語の学習はとても楽しかった。文法の学習に入ると、これまでに勉強したことのある言語とは異なるチベット語の特徴に魅了されていった。チベット文化についても知りたいと思い、日本で公開されたチベット映画を2本見に行った。一つは聖地ラサまでの巡礼の旅を描いたロードムービー「ラサへの歩き方:祈りの2400km」で、もう一つは牧畜を営む、家族の3代の物語を描いた「草原の河」である。二つの映画で、登場人物たちが話す言葉は、ほとんどがアムド地方のチベット語で、わたしが授業で少しなりとも親しんだラサのチベット語とは異なっている。したがってチベット語自体はまったく聞き取れなかったのだが、わからないながらもアムド・チベット語の響きに耳を傾けながら楽しんだ。

 こうして終止やさしい気持ちのまま、時には行き過ぎて学生さんたちに甘々になりながらも1年目の韓国語の授業を終えることができた。チベット文字のおかげである。

涙のタミル文字

 再び4月。あっという間に1年がたち、韓国語の授業も2年目に突入した。わたしは1年目に立てた誓いのとおり、また新しい言語に挑戦することにした。今度はタミル語である。タミル語はインドのタミル・ナードゥ州で主に話されている言語である。この言語を選んだ一番大きな理由はやはり、タミル文字という、わたしのまだ知らない文字を使用するからというものである。もちろん、これも大学で授業が開講されていたので始めやすかったというのもある。さらに、タミル語はかつて日本語研究の第一人者が、タミル語と日本語の共通点を指摘したことで話題になった言語なのである。残念ながらこの学説は多くの他の学者たちによって否定されているが、おそらく日本の言語研究者であれば誰しも一度は関心を持つ言語なのではないかと思う。日本語との関係は否定されているが、タミル語は日本語や韓国語と文法的な特徴で似ているところが多い。そんなところもわたしを惹きつけた。

 さっそく教室に向かうと、チベット語のクラスよりは受講者が多かった。わたし以外の受講者は多くがインドの言語を専攻する学生だった。インドでは多くの言語が話されている。一つの言語を勉強したらまた一つと違う言語を勉強してみたくなる気持ちはよくわかる。

 (இ﹏இ`。)

 こんな顔文字をご覧になったことはおありだろうか。このうるうると涙ぐんだ目のところに使われているのが、タミル文字の இ である。初見では一体どこからどんな風に書くのかわからないこの文字は、見た目の複雑さとは裏腹に i [イ] という音を表す。 タミル文字は母音を表す文字が12、基本的な子音を表す文字が18(他に外来語専用の文字あるのだが)で、文字の数自体はそれほど多くない。授業はやはり文字と発音の対応関係をしっかりと頭に入れることから始まる。先生に従って一字一字文字の書き方を練習しながら発音していく。

அ a [ア], ஆ ā [アー], இ i [イ], ஈ ī [イー], உ u [ウ], ஊ ū [ウー]

 ローマ字の上に付いてる記号は、その母音が長く発音されることを表す。ஆ ā [アー] はわかる、அ a [ア] にクルッとしたかわいい尻尾が付いているだけだ。だが、ஈ ī [イー] はどうしたことか。இ i [イ] とはまったく形が違うではないか!出だしからこんな顔(இ﹏இ`。) になりつつもわたしは一生懸命タミル文字を学んだ。幸いチベット文字のときのように合体ロボは発進しなかったので吐血せず、なんとか涙目程度で文字に親しむことができた。わたしはこのキュートでエキセントリックな文字が気に入り、タミル文字をあしらったマグカップを都内の某紅茶専門店で購入したほどだ。このマグカップがあれば、いつでもタミル文字を側に置いて復習することができる。周りの視線なんて気にしてはいけない。幸いこの年も、わたしはタミル文字のおかげで、初学者である学生さんと同じ気持ちを共有しながら、仏のような心を持って授業ができた。

文系学者、理系大学へ

 また再び4月。韓国語の授業をするのも3年目。重度の花粉症であるわたしは炎症で赤くなった目をこすりながら新たな非常勤先に向かう。今年度からは理系の大学で韓国語を教えることになったのだが、なにを隠そうわたしも高校時代は理数科に所属していたのだ。高校のクラスは、理系だからではなく、元々が男子校だったため男女比が8:2ぐらいだった。ビールと泡の比率ならまだいいが、男女比となるとちょっと偏りすぎである。大学入学以来は外国語学部ということもあり男女比がまったく逆転した環境で完全にマイノリティーだったので、男子学生ばかりの環境に身を置くのは久しぶりである。高校時代を懐かしく思い出しながら大学の門をくぐる。他の先生方によると、理系の学生たちは外国語に苦手意識を持っている学生は少なくなく、また必修である外国語科目に乗り気でない学生もいるという。ふむ。これは新しい文字を勉強するぐらいでは学生の気持ちはわからないかもしれない。そこで、わたしは自分で苦手意識を持っているものに挑戦することにした。わたしは理数科だったのだが、なんと高校入学2ヶ月ではやくも隠れ文転(理系に属しながらも文系大学を目指すこと)を決意してしまった。一度理数科に入ってしまうと、もう普通科に変更はきかないにも関わらずである。我ながらつくづくバカだと思う。大学受験に必要なくとも進級はしなければならないので物理も生物も化学も勉強したし、数学は数III、数Cまで勉強した。だが、それも遠い昔の記憶である。それに、当時からあまり身を入れて勉強していなかったので、数学は苦手な分野だった。大学に入ってからというもの、まったく数学などは勉強していなかったので、微分、積分はおろか、二次関数もあやしいレベルである。そこで、4月から十数年ぶりに数学、それから新たに統計学を勉強することにした。言語学をやるうえで、統計学を知っていると研究の幅が広がる。特に、大量の言語データを扱うときには統計学の知識が欠かせない。そして統計学をちゃんと理解するためには数学が必要なのである。わたしは記憶のはるか彼方に行ってしまった数学を取り戻す旅に出るのが億劫で、統計学の勉強を後回しにしていた。だが、今回はいい機会かもしれない。語学に苦手意識のある学生に語学を教えつつ、わたしは苦手意識のある数学と、統計学を勉強する。きっとまたやさしい気持ちで授業ができるはずである。

 さらに、語学の勉強も忘れない。今年度はベトナム語を勉強することにした。ベトナム語はローマ字に記号を付して表記するので、新しい文字は使わない。でも、どうしても時間があるうちに学習しておきたかった言語なので、今年度は少しだけ誓いを破ることにする。ただ、ベトナムにはかつて、ベトナム語を表記するために漢字を応用して作られた字喃(チュノム)という文字がある。ベトナム語の勉強が進んできたらこの字喃を勉強すれば新しい文字を勉強することになるだろう、などと自分に言い訳しながらベトナム語の学習を開始する。ただ、今年度から大学の学籍を抜いてしまったので、授業に参加するわけにはいかない。大学外の教室に通うことも考えたのだが、時間とお金の余裕がない。仕方ないので独学することにし、教科書を購入した。教科書は2冊に分かれており、1冊で12課、全部で24課である。ひとまず1週間で1課進むことを目標に学習を始めた。順調にいけば半年で初級の内容が終わる計算だが、無事に教科書を終わらせることができるやら。とりあえずこのエッセーを書いている時点ではなんとか1週に1課を達成している。

 わたしはこうしてまた新しい言語を勉強する。韓国語を教え続ける限り。もちろん、韓国語自体の勉強を忘れたわけではない。韓国語を教え始めたときから、なるべく通勤時間などを利用して韓国語の小説を読むようにしている。語彙の量を増やすにはやはり小説がいい。最近は電子書籍で簡単に、安く韓国の小説が購入できるので便利である。電子書籍はタブレットで読むのだが、韓国語の辞書もタブレットに入っているので、わからない単語を調べるのも楽で、大変気に入っている。辞書には検索履歴が残るので、あとで覚えておきたい単語などは、暗記用のアプリに登録したりして、語彙力増強に努めている。

拝啓、四百歳の君へ

 ところで、みなさまはこの世界に言語がいくつあるか御存知だろうか。言語の数は正確にいくつということが難しいのだが、だいたい6000から7000の言語が存在するといわれている。では、文字はどうだろう。こちらは言語の数よりはぐっと少ない。これは英語もフランス語もドイツ語も、遠く離れたベトナム語も基本的にはローマ字を用いるというように、複数の言語が同じ文字を用いることによる。また、そもそも文字を持たない言語もある。だいたい400くらいの文字が知られていると言うが、そのほとんどは今は使われていない文字たちである。日本が誇る言語学大辞典シリーズのうちの『言語学大辞典 別巻 世界文字辞典』(河野六郎・千野栄一・西田龍雄編 (2001)、三省堂)には272種類の文字が収められている。余談だが、言語学大辞典は6巻+別巻からなり、1巻から5巻には世界の様々な言語の情報が収められ、6巻は言語学の術語の解説にあてられている。6巻までをコンプリートすると大卒の初任給が全て飛ぶと言われている。もしかするとちょっと足りない。しかし、ボーナス払いにしてでも30万円握りしめ、別巻の文字辞典まで揃えたいところである。全巻コンプリートしていない言語学者は毎年短冊に「げんごがくだいじてんがほしいです」と書き、夜空に願いを込める。1冊のボリュームがものすごいため、言語研究者の使用する凶器ランキングでは、毎年この辞典シリーズが上位を独占する。さて、本題に戻ると、現在では多くの文字が用いられていないため、現役で使われている文字となると、その数は50前後らしい。1年に1つ、現役の文字だけを学んだとしたら、とりあえず定年まではもつ計算だ。よかった。その気になれば今は使われていない文字を勉強してもよいだろう。その場合は400年ほどもつ。この先どんなに医療が進歩してもさすがに400年は生きないだろう。それにそんなに生きたくない。

ニンジン畑のグルジア文字

 次の4月からは何語を勉強しようか。グルジア語なんかいいかもしれない。グルジア語もグルジア文字を使用するので、新しい文字が学べる。実は以前文字だけは少し勉強したことがある。しかし、途中で忙しくなってしまい文字の勉強も終わらないうちに中断してしまっていたので、再挑戦ということになる。文字を勉強するときはなるべく一気に学習してしまうのが望ましい。グルジア語で 「本」のことを წიგნი [ツィグニ] というらしいが、わたしには最初の წ という文字がなんだか強く印象に残っており、グルジア文字を完全に忘れた今となっては、グルジア文字の列はニンジン畑にしか見えなくなっている。イメージはこんな感じである→ წწწწწწწწწწწწ*。勉強するつもりだったので家にはグルジア語の教科書もある。それにお土産でもらったグルジア語版の「星の王子様」もある。グルジア語で「星の王子様」が読めたら素敵だろうなぁ、などと妄想は膨らむばかりである。

 巡り来る4月。舞い散る桜の花びらのようにたくさんの文字たち。美しく魅力的な文字たちを、あとどれくらいこの手の平にのせることができるだろうか。

*フォントの関係でニンジンっぽく見えないですが、別のフォントではこんな感じ:

画像はwikipediaより

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