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アンニョン、ピーテル #А 【M1的絶望感】

2011年8月末22時過ぎ、約14時間のフライトの末に、わたしはロシアのペテルブルクの空港に降り立った。

時を戻そう。それも悪くないだろう。2010年秋、わたしは修士課程の1年生だった。学部のときから韓国語を専攻し、修士課程でも言語学を専攻し、韓国語の文法を研究していた。

修士課程には希望を抱いて入った。当時から就職がよくないという話はあった。我々の業界では大学院に進むことをしばしば「入院」と呼ぶ。それでもよかった。大学に入るまで勉強が大嫌いで、自分のしたいことも特になかったわたしにとって、やっと心からしたいと思えたことが言語学の研究だったからだ。

しかし、人生なかなかうまくいかないものだ。修士論文を書かなくてはいけないのだが、テーマが決まらなかった。いや、正確には大学院進学時に出した研究計画が気に入らず、テーマを変えたかったのだが、なにを研究したいかがわからなくなっていた。自分が研究したいことと、2年間で書き上げられるテーマを練り上げることとの折り合いを付けるのは想像以上に難しい。普段はのんきな性格だが、このときばかりは焦っていたと思う。

大学院というと、時間がたっぷりあり、自分の研究だけしてればいいのだろう、と思う人も多いかもしれない。少なくともわたしの場合は違った。修士課程のころはけっこう授業があり、単位を取らなくてはならない。学部のころよりは取得しなければならない単位は少ないものの、ひとつひとつの授業が重い。文献を読んでまとめなければならない。研究をして発表しなければならない。思ったより自分の研究に割ける時間が少ないことを知る。おまけにバイトもしなければならなかった。「実家が太い」と言われる人がバイトもせずに自分の研究に専念しているのを横目に、週2、3はバイトをしており、とにかく時間がなかった。余計に修論のテーマは決まらない。時間ばかりが過ぎ、いつの間にか後期(いまは「秋学期」と呼ぶがいまだに慣れない)になっていた。

そんな悶々とした日々を送るなか、ネットを見ているとある公募がわたしの目に飛び込んできた。

ロシアへの日本語教師派遣

見た瞬間、これしかない、と思った。今この現状を打破するには、とりあえず逃げるしかない。逃げるは恥だが役に立つ。それにわたしは元々日本語教師になりたかった(この辺りのことは『小説新潮』2023年3月号の拙稿も参照。webでも読めるよ→ https://www.dailyshincho.jp/article/2023/03311100/?all=1)。さらに研究上の興味もありロシア語を学習していた。ロシア語のことについてはあとでがっつり書くつもり。

すぐにでも応募しようと思ったが、もうその年の募集は締め切られていた。それにわたしは日本語教師の資格をなにも持っていなかった。日本語教師として応募するためにはいくつか資格があるが、手っ取り早いのは検定試験である。日本語教育検定試験を受験し、次年度の募集に備えることにした。

検定試験には首尾よく合格した。悶々としながらも修士論文のテーマも決まり、研究を進めていたのだが、ロシアに行ってみたい、夢だった日本語教師の経験をしてみたい、その思いが消えることはなかった。それで思い切って日露青年交流センターが行っている日本語教師派遣プログラムに応募した。

書類審査の結果は…合格。2011年3月末に筆記試験と面接が実施されることになった。会場に行って初めて知らされたのだが、面接にはグループ面接が含まれるというのだ。ある日本語の文法項目をどのように教えるべきか、数人で話し合い、シラバスを作成するタスクが与えられた。

グループが割り当てられ、お互いに軽く自己紹介。みんな現役の日本語教師、あるいは経験者だった。素人はわたしのみ。

わたし、一体これからどうなっちゃうの〜〜〜???

次回へ続く。
Продолжение следует.


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