見出し画像

父の日葬送曲

今日は父の日ですね。
私は物心がついた頃には母子家庭だったので、父の日のプレゼントは父を兼業してくれている母に渡すのが当たり前でした。

父親、というものは未だによくわかりません。
記憶も無いし、顔も覚えていないし、声も知らない。
よそのおうちのお父さんを見ても、ピンとこない。
どう振る舞い、どう存在し、どう共存していけばいいのかが未知の存在。

私には母がいて、母には私がいて、それでしろくま家というものが成り立っていたので「父親がいないから何かが足りない」なんてことがほぼ無かったし、特にいなくても困ったことはなかったし、当時マイノリティだった母子家庭というものに色々言ってくる人は大人も子どももそれなりにいたけど、何を言われても「でもうちはそれで満足だからなぁ」と好きに言わせて聞き流していました。

ただ、やたらと突っかかって来て、二言目には「うちのお父さんは凄いんだから!」と言っていた子はよく覚えています。
地元最大手の新聞社で働いている、だからお父さんは凄い!良いでしょ!と呪文のように自慢していた子。
他の子には言っていなかったので、遠回しに「お前にはそんな凄いお父さんがいなくて可哀想!」と言いたかったのでしょう。さすがに「いなくて可哀想」は完全に悪口なので、自慢という形で押し付けてきたんだと思います。

私はと言えば、いないものはいないし、新聞社に勤めていたら偉いという謎ルールがわからないし、新聞社にも色々部署はあるだろうにそこは言及しないあたりあまり父親の仕事を知らないんだろうな、と聞き流していました。

あまりにもスルーされるのが癪だったのか日ごとにエスカレートし、ある日「うちのお父さんは新聞社で働いてるから有名人にも会えるし写真もサインもある!」と特大の自慢をぶん投げてきたことがありました。
はぁ。有名人。
「見せてあげる!凄いんだから!」と無理矢理連れて行かれたその子の家で見せられたのは、かろうじて知っていた某歌手兼タレントの女性の写真。
しかもその子と撮ったものでも、その子の父親と撮ったものでもなく、新聞社に訪問した時に撮られたであろう対外的なやつ。

これには絶句しました。
さすがに「なんか地味なタレントだな、◯MAPとかならまだしも」などと思ったまま言えば逆上するのは目に見えていたので、無難に「おー凄いねぇ」と適当に褒めて帰ったのを覚えています。


さあここで私のおうちの話。
母の仕事は司書です。図書館で働いていました。
そして私は母の仕事が終わるまで、一生かかっても読み切れないほどの本に囲まれながら、図書館の本を読み漁って待っているのが日常でした。

おのずとフロアで働く母の同僚の方とも顔見知りになり、図書館に行けば色んな人が声をかけてくれる。そしてその「色んな人」がそれぞれ色んな役割を持って一生懸命働いているのをずっと見て知っていました。
カウンターで貸出するだけではなく、ずっとたくさんの書類に埋もれて事務作業をしている人、鳴り止まない電話に対応している人、子どもの遊ぶ部屋にいるオセロがとっても強い人。みんなとっても凄い人たちです。

そして私は、母がカウンターでちょっと面倒くさそうなオジサンに粘り強く対応しているのも、電話でテキパキと指示を飛ばしている姿も、返却されたたくさんの本を抱えて丁寧に本棚に戻す姿も、たくさん見て知っていました。

だから「うちのお父さんは新聞社で働いているから凄い!」というぼんやりとした自慢は通用しなかった。だって私のお母さんも自分の場所でとても頑張って働いていて凄いから。
まあ、そう言い返したことはありませんでしたが。
私が知っていればそれでいいし、そんな議論不毛でしょう。

あと、やれ有名人のサインだ写真だと見せられましたが、うちにもあったんですよね。
大好きな絵本の裏表紙に「あんこちゃんへ」と書かれた作家さんのサイン。

母が講演会や何かしらのイベントで会った児童書の作家さんに貰ったものです。誰彼構わずではなく、私が読んだことがある本や、その本を書いた作家さんの別の本とか、とにかく「その本が好きな私のため」にお願いして書いてもらったサイン。

幼いながらに、この本を書いた人って本当にいるんだ!私の名前書いてある!なんで!?とテンションが上がったものです。
もちろん今でも宝物だし、その絵本たちは大切に保管しています。

だから彼女のあらゆる自慢は私の前ではすべて無意味だったんです。
さすがに写真を見せても全然悔しがらない私に嫌気がさしたのか、はたまた飽きたのか。それ以降パタリと自慢話が無くなったのを覚えています。


こういう嫌がらせの類はこんな感じでどこ吹く風、とスルーしていたんですが、自分の力ではどうにもならない事も母子家庭やってるとあるわけです。

ひとつは中学に上がるタイミングで、私立の女子校受ける?みたいな話題になった時にクラスメイトから「でもあんこちゃんのおうちはお父さんがいないから受からないよ」と言われた時。
よくよく聞けば「面接の時に『家族』の頭数が足りないんだから落ちる」というなんの根拠もない理由で。
なんだそれ。
でも、まだ社会の仕組みも中学受験のことも知らない私は「そっかー」とだけ返しました。
だってこればっかりはどこかで見繕うものではないし、そもそも受験条件に「父親持参」と書いてある訳でもないし。無いなら仕方ないかーみたいな。
ちなみにその私立中学は、ちゃんと家族会議した上で「公立に進む」ということで受験しませんでした。もちろん理由は父親の有無ではない。


あと、こういうことを言う場合は大抵「その子の親」が私のことをそういう風に話している、もしくは母子家庭というものをそう捉えていることが多いということ。これは同級生に色々言われる中で母から教わったことです。
だからその子に悪気はない。その子は「そういうものだ」という大前提が出来上がってしまっているから、訂正しようが反撃しようが理解しない。
そういうもんだ、と納得してしまうくらいには悟りを開いていました。


もうひとつ、悟りを開くきっかけになった「父の日の絵」事件
あれは小学校低学年の頃だと思うんですが、図工の授業で「お父さんの絵を描きましょう」となりました。
さすがに困り果てて、図工の先生のところにこっそり行って「あの、私の家はお父さんがいないんですけど、どうすればいいですか」とお伺いをたてました。
そして返ってきたのは「おうちに写真とかがあればそれを見て描いて」というものでした。今の時代ならたぶんアウトでしょう、これ。
そして幼い私も私でバカ真面目に受け取って、家に帰ってから母にそのことを話し、写真とかある?と聞いて母から写真をもらいました。
母は母で、今だったら学校に乗り込んでるだろうけど、あの時はああするしかなかったからねぇ…とこの話をする度に言っています。
それはそれとして。

写真を見た瞬間の感想は「誰この人?」です。
そりゃあそうです記憶もない、顔も覚えていない、なんならその手に抱かれた子どもが自分だという自覚すら持てないのに「これがお父さん」と見せられても、はあそうですかとしかならん。

とにかく、それを見たところで「お父さんの絵」が描ける訳もなく。
ああいうのは写真で姿形を見たらどうにかできるものじゃないんです。やっぱり共有した時間とか思い出とか「確かにそこにいた」という何かがないとどうあがいても描けない。

悩みに悩んで、結局髪型だけ写真に写る父親の天然パーマを拝借して「休みの日にフライパン片手に朝ごはんを作るお父さん(仮)」を描きました。
なんかまあ、無難でしょう?休日に料理する父親って(棒読み)。

で、それで終われば良かったのに、何を考えたのか先生は全員の絵を父の日コンクールに応募しました。
さらに酷かったのが、私の絵が銀賞を獲ってしまったこと。
何の思い入れもない離婚した父親(仮)の絵がまかり通ってしまうって何。
よほど審査員の心を打ったのでしょうか。
だとしたら審査員を見直した方がいい。たぶん見る目が無いです。


この一連の経験で、私は完全に「大人って無神経だし世の中は理不尽で何を言っても無駄」という悟りを開くことになりました。

これが私の父の日に関する記憶であり、思い出であり、父親というものに対してのすべてです。
こうやって書き出すとろくなことないなぁ。

そりゃあ頭数揃ってればそれが正解、みたいなところは世の中まだまだあるんですが、じゃあ数揃っていればその家は平和で楽しく自慢できるのか?と言えばおそらくNOでしょう。
DVやら虐待やらのニュースをみる度に「父親がいなくて可哀想とは?」と心の中で呟きます。悲しいけれど。

逆に言えば片親でも、全然幸せなんです。
勝手に憐れむな、片親っ子強く生きていこうな!という話でした。
おしまい。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?