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私の“ジョー”は、あしたのために戦わない。

「私がミュージカルを観るとバカにするのに、好きな歌手がミュージカルを始めた途端に関心を持つなんて、あなたの価値観ってお手軽ね」
アグレッション。やめて」
「電気を消し忘れていたから、さっき私が消しておいたよ」
「ありがとう。でもアグレッション?」

私の悪癖のひとつに彼が「アグレッション」と呼ぶものがある。
aggression。
直訳すれば「攻撃」。私の婉曲的な物言いに潜む棘に彼は気づいて不快になり、「攻撃的だ」と指摘してくる。

長いこと、私は「彼が神経質なだけ」とまともに考えたことなんてなかった。私にとってはチクリと相手を刺す言葉は心地よいもので、それが私の育ってきた環境であり、文化だった。私を私たらしめる核のひとつで、彼が愛する人間を形成している要素のひとつだと信じてきたからだ。


1.立て! 立つんだジョー!

私の母は、彼の言う「アグレッション」の達人で、私は「なんて嫌味な女だろう」と思いながらも、彼女の言葉で刺激を受け、指摘されたことを考え始め、自分で答えを見つけてきた。
昔つき合っていたボーイフレンドは頭の回転の早く憧れの人だった。いつも物事を穿った見方をし、タバコを咥えながら私のことをよくからかった。彼の皮肉や嫌味には、素直でない彼の愛すべき一面(哀愁や愛情)がにじみ出ていた。

つまり、私の中で嫌味や皮肉、遠回しな表現は「知性」「思いやり」「愛情」と結びついた人間の持つ美点になっている。

「アグレッシブ」という言葉に置き換えたほうがaggressionはわかりやすいかもしれない。私の周囲にはアグレッシブな人が多い。母も苦境の中で闘ってきた自分の人生に誇りを持っている人だし、昔のニヒルな恋人も複雑な家庭環境に対して文句や弱音を吐かず、自分の人生を生きている人だった。周囲からのいじめを物ともせず前を進む友人。挫折を経験しても立ち上がる友人。

強い人は美しい。
胸が苦しくなるけれど、圧倒的な強さで眩しく感じる。

だから、私も、誰か/何かに打ちのめされそうになっても戦ってきた。負けるのはかっこわるい。傷つけられるのもかっこわるい。血を流しても、自分を傷つけることになっても立ち上がり、睨みつけ、走り続けたほうが自分を愛せる。

「立て! 立つんだジョー !!」

その言葉に心震え、ジョーが立ち上がる姿に胸を熱くし、灰になった最後に涙を流すのが人間の美しさなんでしょう?

彼は、決して打ちのめすべき相手ではない。
でも、私の中では彼は私の“強さ”を見せるべき相手なのだ。

(そんな私を美しいと思ったんじゃないの?)

私の「アグレッション」にはそんなニュアンスが含まれていることになるのだとすれば、それは自己陶酔でしかない。

そりゃ「NO」を突きつけられるわけだ。


2.相打ちはひとりで完結させろ。

「攻撃は、最大の防御だ」……もしその言葉が正しいのなら、私は自分を守るためにアグレッシブさを発動していることになる。

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私がミュージカルを観るとバカにするのに、好きな歌手がミュージカルを始めた途端に関心を持つなんて、あなたの価値観ってお手軽ね」
「アグレッション。やめて」

そうね。
私の価値観を否定し卑下することに不愉快だったし、傷ついてたわ。
だから「仕返し成功!バンザイッ🙌」と思ったのが本音よね。

「電気を消し忘れていたから、さっき私が消しておいたよ」
「ありがとう。でもアグレッション?」

まあね。
「私が電気点けっぱなしにすると口やかましく騒ぎ立てるくせに自分はこれ?!」という思いを“笑顔”と“優しさ”でカバーしてお届けしました。確信をもってやりました。

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私は彼によく腹を立てる。
飲み込んだものがあれば、ブラックユーモアに昇華させる。

「怒り」という感情は二次的なものらしい。つまり、最初に別の感情があってその後に沸き起こるもの。私の場合、「寂しさ」「痛み」を「怒り」に変換させる癖がある。だってそうすれば「寂しくない私」「傷ついていない私」をつくりだせる。

「アグレッション」をやめるということは、私の弱さ(「寂しがりで傷つきやすく気弱」という現実世界での私の振る舞いとは真逆の状態)をむき出しにすること。

え、なにそれ。めっちゃこわいじゃん!

何を恐れているのか?
彼を信じきることが堪らなく恐ろしいのだ。

私は「ありのままの私」という言葉が大嫌いだ。
いつだって人は矛盾した思いを抱えて生きている。影響を受け、影響を与え、絶えず揺れ動いている。「ありのまま」なんていう瞬間が果たして本当にあるの?

だから、「選択された自分」の連続体が今の私で、今の人生なのだと思う。

私は彼と結婚を決めた今でもなお恐れているのだ。彼によって自分が変わってしまうことを。だから「アグレッション」という儀式は、彼を拒むことで彼に拒まれる私がいることで自我を確認して安堵している真似事なのかもしれない。

このめまぐるしい葛藤を彼は知らない。知る由もないし、理解することもできないに違いない。彼は彼の文化を持ち、私の知らない彼のジョーがいるに違いない。でも、私が彼のジョーからジャブを受ける義務はないし、彼もまた私のジョーからジャブを受ける義務はない。
私たちは、相打ちする運命のために共にいるわけではないのだ。


3.私の“ジョー”は、あしたのために戦わない。

私の「あした」は、彼との日常を送ることだ。

あした、互いに個人の現在や未来に悩んでいるかもしれない。
あした、彼は下痢になっても私はピンピンしているかもしれない。
あした、息をする彼の隣でうっかり私はすかしっぺをしてしまうかもしれない。

全然ロマンティックじゃなくても、恋に落ちているようには見えずとも、疑いようもなくあしたがやってくるように、疑いようもなく彼が隣にいる日々が続いていく。

私の人生は、彼に縛られない。彼の人生は、私に縛られない。
私の人生のすべては彼ではないから。彼の人生のすべては私ではないから。

でも、何かを選び取るとき。
「私」を選択するとき。

あなたが笑うほうを選ぼう。
一瞬の自己欺瞞であなたを傷つけて嗤うのを恥じる人間になることを選ぶ。

決して「彼がいるあした」が当たり前ではないこと、脆いものだということを忘れてはいけないと気づくには随分と時間がかかり過ぎてしまったけれど、自分可愛さの皮を一枚めくる行為は激痛をともないながらも私を「あしたの私」に変えていくものなのかもしれない。

あしたのために。 何をしよう?

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