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十六夜杯審査員賞〜白賞〜

【追記】

審査員賞が出揃ったね。一つ一つリンクしようと思ったら、さすが公式、お仕事がはやい!

これはぜひ目を通そう。
句の鑑賞を読むと、自分と違った読み、共感の読み、さまざまに出会えて、句の魅力が増すから。17音の俳句から、これだけの言葉が生まれてくるって人間すげーよな!

はじめに

 昨年の秋、「みんなの俳句大会」の冠役とともに、審査員を引き受けてはや一年がすぎた。アポロ杯よりスタートし、白杯・沙々杯・宇宙杯・鶴亀杯、そして今回の十六夜杯と、名実ともにnote俳句界の大きなうねりを作り出してきた「みんなの俳句大会」に、こうやって関わっていられることをありがたく思う。
 さて、今回もたくさんの投句があったのだが、その中で「白賞」に輝く六句を紹介していきたい。(5000字ちょいの記事になるよ)

とんぼ飛ぶ 片側三車線道路  せきぞう、

「都会でトンボが思う存分飛べる場所」せきぞう、ちゃんの写真(絵)俳句に添えられた言葉だ。なるほど、その裏を読むと、都会でトンボが思う存分飛ぶには、空が狭すぎるのかもしれない。確かに都会では空間が縦にある気がする。

 この句の季語は「蜻蛉」だ。秋の始まりから終わりまで、秋を通じて目にすることの多いためか、秋を代表するともいえる三秋の季語である。
 赤蜻蛉は蜻蛉から独立して、こちらも三秋の季語なので、蜻蛉の種類をグッと狭めたい方は赤蜻蛉を登場させても良いだろう。
 一方、蜻蛉というと、オニヤンマとかシオカラトンボとかそういった蜻蛉をさすが、まあ、ここは固いこといわず、赤とんぼも含めてみんなの頭に浮かぶ蜻蛉の総称だと思うのがいい鑑賞の姿勢だと思う。
 さらに、もう少し続けるならば、蜻蛉は古くは「秋津(あきつ・あきづ)」と呼ばれていて、それは蜻蛉の子季語(季語のバリエーション)でもあるのだが、今でいう本州のことを、昔は秋津島と呼んでいたように、蜻蛉は日本を象徴する昆虫でもあるのだ。

 さて、この句は、季語(季語の動作)と場所というシンプルな構造でできている。片側三車線道路とはその名の通り両側を合わせると六車線あるわけで、そのサイズは各地の基幹道路と言って差し支えない。当然交通量も多く、多くの車が行き交っている場所である。もしかすると、そのような大きな道路でさえも車が多すぎて渋滞してしまうような都会に、作中人物はいるのかもしれない。
 そんな交通量の多い大きな道路の上を、蜻蛉は縦横無尽に飛び交っているのである。その自由に飛び交う姿に、片側三車線道路にとらわれ、一方へ向かうことしかできず、外れた方向へ行くこともできない作中主体は一種の憧憬を感じているのではないか。そんな風に想像を膨らませた。
確信的に、読み手に想像の多くを委ねた秀句である。お見事でした。

白風や番号だけの墓標あり   KOMA

この句は一読して、今の世界情勢を意識した句であることが伝わるが、同時に古今さまざまに行われてきた戦争と、その帰着点としての死とを、淡々と描写した普遍的な句でもあるといえる。

季語は白風。KOMAちゃんは「びゃくふう」と読ませている。これは三秋の季語である「秋風」の子季語である。詳しくは省略するが、古代中国から伝わってきた考え方の一つに、陰陽五行思想という考え方がある。ざっくり言うと世の中は、陰陽の二つの気と五つの元素からできているという考え方だ。
その考え方によると、春は青(だから青春という)・夏は赤(朱)・秋は白(北原白秋の名前はここから)・冬は黒(玄)となる。
ということで、秋の風といえば白なのである。ちなみに五行説の五つの元素は木火土金水(もっかどごんすい)で、秋に対応するのは金(金属や鉱物のこと)なので、金風という言い方もある。また、白=色がないということで「色なき風」「素風」などとも言うので、あわせて知っておくのも面白い。

番号だけの墓標ということは、「名」を持たないということ。識別するための記号でしか表現されない墓標があるということは、人を人として扱うことができなくなる状況にあるということ。
この中七下五は、圧倒的存在感を持って俺たちの心に重くのしかかってくるよね。そんな墓標を白い風が吹き抜けていく。感情も人間としての尊厳も何もかも真っ白に、何もないもののように吹き抜けていく。
なんとも切実で、何かを突きつけられているようなそんな句であった。お見事。

筥崎祭り水笛吹けぬまま大人  野乃

筥崎祭りについても、水笛についてもよく知らなかったから調べてみた。(後で野乃ちゃんが記事でまとめてくれていたことに気づく😅)

水笛の方は検索して画像を見たらわかった。あの、鳥の形で中に水を入れた状態で吹くとヒョロロロ〜みたいに鳴るあれだな。

さて、上五は「筥崎祭り」という固有名詞。実は、これが仲秋の季語である。博多の三大祭りの一つらしい。
上五の字余りは後で調子を整えられるから許容されやすいし、固有名詞を持ってくることで、それを知っているものにとっては、そのイメージがバンッと立ち上がってくる。俺のように筥崎祭そのものを知らなくても大きな祭のイメージはそれぞれの地域で持っているだろうから、想像しやすい。固有名詞の力である。

そこに水笛。確かにあれってあんまりお祭りくらいでしか見かけない。いい音で鳴るので案外一家に一つくらいあっても良さそうだけれど。
きっと水の量とか、吹く息の加減とか傾け方とか、より上手く吹くためのテクニックがあるのだろう。極めれば極めるほど奥が深いのが楽器の類。
 少し子どもじみた印象のためか、大人になるとなかなか手に取って買うほどでもない。でも、楽しそうに水笛を吹く子どもを見ると、自分も吹いてみたいような、気恥ずかしいような感覚に襲われる。

子供の頃から慣れ親しんだ、変わらぬ祭りの姿と身も心も大人へと変貌していく作中主体の対比、水笛への憧れと郷愁、十七音に物語が詰め込まれた一句でした。お見事。

虚栗手あつく置きし木こりかな 兄弟航路

 季語は虚栗。みなしぐりと読む。
 虚という言葉は、うつろな状態、何もない状態をいう言葉だから、読めなくてもなんとなく意味はわかるだろう。
 栗というのは、トゲトゲを持つ殻の中の実をいただくものだが、その毬栗(いがぐり)の中に、身が入っていない状態を虚栗という。実無し栗と書けば、よりわかりやすいか。
 栗を得ようと思って来たものにとっては、虚栗はガッカリ以外の何物でもない。まさに虚しいものである。
 しかし、木こりは、その虚栗を手あつく置いたのだ。そこには、虚栗そのもの、そしてその背後にある自然の恵みそのものへの深い感謝がある。自然とともに生きる木こりという生業が、その敬虔な思いをより強く感じさせる。
また、そこにもう一人登場人物がいることを忘れてはいけない。そんな木こりの様子を見て、心を動かされている作中主体である。
「かな」という切れ字は、感嘆の思いを伝えるとともにその後に大きな余韻を残す。作中主体は、虚栗という、いわば無用のものに心を砕く木こりに対し、感嘆の思いを得ているのである。
 この句の読者には、季語「虚栗」が何か尊いもののように印象に残っているに違いない。お見事な一句。

彼岸花愛撫を知らぬ乳房かな てまり

今回十六夜杯に投句された中でも、一際異彩を放っているように感じた一句。
季語は彼岸花。曼珠沙華の和名である。田んぼや墓地などに多く咲く、紅く美しいあの花である。
そして、確かに美しいのであるが、天界に咲く花の名である曼珠沙華という名前といい、あの世を表す彼岸という名前といい、彼岸花にはどうしても一種死と妖しさの匂いが付き纏いもする。
 その季語に取り合わせたのが「愛撫を知らぬ乳房かな」である。なかなかのパワーワードだ。
中七「愛撫を知らぬ」は、まだ他者に触れられたことのないということだろうから、少女を指しているのだろうか。
下五「乳房かな」には、自分の乳房を見ながら詠嘆している感じを受ける。
つまり、未だうら若き乙女が恋に恋して背伸びしたことを想像しているようにも思える中七下五なのだ。
 しかし、その読み取りを季語、彼岸花が否定する。これは、そんな甘酸っぱさを帯びたような句ではない気がする。
とすれば、これは若くして乳がんか何かを患い、乳房を失うことになった女性の句ではないか。そのように感じた。
まだ愛撫されることもないまま、その乳房を喪失してしまう。そんな哀しみを彼岸花は内包しているのではないだろうか。
季語の選択が、中七下五をがっちりと支えている。そんな力のある御句だった。お見事。


お互ひの余生あつめて大花野 鮎太

 美しい景である。
 この句を読み終えた後、読者の心に浮かんでいるのは見渡す限りの花野。色とりどりの花が咲くその花野には、やがて訪れる冬と、枯れ野と移り変わっていく運命を細やかに感じ取るからこその美しさを感じることだろう。
 季語は大花野、花野の子季語だが、花野より大がつく分、広大な景が浮かぶ。花野が近景から中景くらいだとすれば、大花野は中景から遠景、花野の向こうには雄大な山々の影が見えるような、そんな景を思い浮かべるのではないだろうか。
 上五中七の「お互いの余生あつめて」という措辞から、ここに詠み込まれた人物を想定するとすれば、余生を数えるような年齢の二人以上の人物、おそらくは老夫婦であろうと推察される。それぞれの人生をここまで生き、どこかでその人生の歩みを重ねた、二人の残りの人生を集めたものが大花野だというのだ。
 これが実景であれば、四季折々の花が咲き誇るようなそんな花畑を営む老夫婦が想像されるし、大花野が何らかの象徴的な意味合いを包含するのであれば、それはもう何とも幸せな二人であるに違いない。
 あるいは、大花野そのものを一物仕立てで詠んだ句だともいえるかもしれない。
 この大花野は、わたしたちの余生、これからの未来を集めてできているんだよ、と。
 そうなると「お互い」とは、我々読者を含めた不特定多数の全ての人を指すことになろう。「お互い」という措辞で、個々ではなくお互いの人生が重なり合って社会が成り立っていることに気付かされる。
 いずれにせよ、私たちの人生を集めて大花野はできているのだという詩的断定がなんとも説得力をもって、迫ってくるではないか。素晴らしい一句である。

終わりに

 今回の審査員役を引き受けた時、選評は、投句された作品だけを見ておこなおうと思っていたので、【公式】の俳句一覧を活用させてもらった。

なかなか手の込んだ作りで、この役を務めるにあたっては非常に重宝した。改めて「みんなの俳句大会」の中の人たちにお礼を申し上げたい。ありがとう。

 今回は十六夜杯に関わった記事を極力出すことなく、審査に専念するという手法をとった。これまでも、俺なりの審査基準を設けて選評していることは伝えているが、今回が初参加の方もいるので、ちょっとだけ触れておきたい。

 第一は、俳句の基本的な形である五七五の定型と、季語があること、つまり「有季定型」であること。
 この点に関して、みんなの俳句大会は、そうじゃなくてもいいよと門戸を広げているわけなので「有季定型」ではない句を否定しているわけではない。現に、俺自身も過去に有季定型以外の句からも選をとっている。
 ただ基本的には、まず型があることというのを大事にしているので、俺の審査基準の第一には有季定型が挙げられるということである。
 第二は、直接的な表現を好まないということ。
 いわゆる「楽しいな」「嬉しいな」という気持ちを直接詠むより、描かれた情景からその気持ちを読み取るのが好きなのだ。

 この二つの観点から上記の六句を上げさせてもらった。正直なところ、この六句に優劣は感じておらず、どの句も一番である。もっといえば、363句の投句の中から俺の三句を除いた360句、この中から予選として20句ほど選んだが、それらについては甲乙つけ難く、どれも良いとしかいえない。嬉しい悩みであった。

 今回審査を終えてから、それぞれの句のリンク先に行かせてもらった。(ここも【公式】マガジンのすごいところである笑)
 見知った方がほとんどで、やっぱりみんなの俳句が好きなんだなと再認識した次第だ。(審査の関係上、スキの足跡は残していないんだけど、全部見に行ってるよ笑)でもその中にも、何人か俺の存じ上げない方がいらっしゃり、そこに「みんなの俳句大会」の力を感じたな。着実にnoteで俳句の裾野を広げているんだなと再認識。すでに冬の大会の開催も決まっているようだから、ますます盛り上がっていくことだろうと楽しみにしている。

今回も審査員として大会に関わらせてくれてありがとう! 白


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