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【#ハリィしろかわのゆるゆる映画教室】第51回 ざっくりと香港映画の歴史(1930年代~1970年代)


■ここで時代と場所を1930年代の香港に遡る。

香港映画が産業として成立したのは、1937年の日中戦争勃発から49年の中華人民共和国成立までの間、上海映画界から多くの人材が移動してきた時期である。

■49年に製作された「黄飛鴻(こうひこう)伝」は20世紀初頭に実在した医師・武術家 ウォン・フェイホンをモデルにした武術アクション映画で、これが素手で闘う「クンフー映画」の起源とされている。

本作の大ヒットにより次々とウォン・フェイホンものが作られるようになり、その数は現在まで80本を超えている。これは、同一題材の映画の本数の記録としてギネスブックにも載っている。
ジャッキー・チェンの「ドランク・モンキー酔拳」(78)、ジェット・リー等の「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ」シリーズ(91~97)もウォン・フェイホンの物語である。



■50年代後半から60年代にかけては、それまで広東語映画に比べて劣勢だった北京語映画が勢いを増す。その中心は、マレー半島から移動してきた2大映画会社「キャセイ・オーガニゼーション(MP&GI)」と「ショウ・ブラザーズ」である。

「キャセイ~」は洗練された都会人を描くのが得意で、日本の東宝とよく似た社風であった。そこから、東宝との合作で宝田明と人気女優ユー・ミンの共演による「香港の夜」(61)等の「香港三部作」を作り、日本を含むアジア各地でヒットを記録した。


■一方、大プロデューサー ランラン・ショウが率いるショウ・ブラザーズは、剣劇映画やクンフー映画を得意とし、キン・フー監督の武侠映画「大酔侠」(66)、ジミー・ウォング主演の「片腕必殺剣」(67)等を制作する一方、撮影技術の向上にも力を注ぎ、日本から井上梅次監督、中平康監督、西本正撮影監督といった人材を招聘して映画を製作し、香港映画のクオリティー向上を促した。


■1970年代前半はブルース・リーの時代である。
70年にショウ・ブラザーズの製作本部長を務めていたレイモンド・チョウが独立して、「ゴールデン・ハーベスト社」を設立する。
アメリカで俳優をしていたブルース・リーと契約し、翌年、「#ドラゴン危機一発」(71)を製作、香港の歴代興行記録を塗り替える大ヒットを記録する。



一躍トップスターとなったブルース・リーは「#ドラゴン怒りの鉄拳」(72)、ローマで撮影した初監督作「#ドラゴンへの道」(72)、米ワーナーと合作した代表作「#燃えよドラゴン」(73)に主演して一世を風靡するが、73年に32歳の若さで急死し世界に衝撃を与える。



■ブルース・リーの死後、多くのアクション俳優が後継者に名乗りを上げては消えていった。そんな中、京劇やハリウッド無声映画の素養をベースにしたコミカルなクンフーで台頭したのが、「ドランク・モンキー酔拳」のジャッキー・チェンである。
その後も、80年代の「#プロジェクトA」(83)、「ポリスストーリー/香港国際警察」(85)から90年代の「レッド・ブロンクス」(95)、「ラッシュアワー」(98)、2000年以降の「シャンハイ・ヌーン」(00)、「ライジング・ドラゴン」(12)、「カンフーヨガ」(17)まで、第一線のアクション俳優として中華圏の映画界に君臨している。



■また、70年代の香港映画を彩った映画人としては、74年に始まった非クンフー映画の喜劇「Mr.BOO!」シリーズの監督・主演のマイケル・ホイらも印象深い。
(マイケル・ホイとジャッキー・チェンは20世紀フォックスとゴールデン・ハーベスト社との合作によるカーアクション映画「#キャノンボール」(81)で共演)


(つづく)

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