【小説】『もうすぐ、光の玉が爆ぜる』第14話

 港に下りると、船の上よりも何となく塩の香りを強く感じた。海にまっすぐ伸びたコンクリの岬には、麦藁帽子をかぶった子供たちがはしゃいでいるのが見える。網とバケツを持っているから、多分魚でも釣りに来たんだろう。岬の一番先っぽには、おじいさんが一人でのんびりと釣りをしていて、子供たちを何回か振り返っている。魚が逃げるから静かにしてほしいのかもしれない。
 アサは右に向けていた顔を今度は左に向けた。反対側を見ると、白くてそんなに大きくない灯台が去年と変わらず海を見ていた。思わず、ただいま、と声をかけたくなってしまう。
 重たい荷物を持ちながら、自分の周囲を上から下まで、三百六十度見渡した。去年と変わったところもなくて、海から来る潮の匂いのする風に浮き立った心がふわりと大きく仰がれる。余計、高揚感が増してくる。ここが、アサの知っている島だ。
「アサー、こっち! 諒たち迎えに来てくれたみたいよー」
 みんなより一足先に島に下りていたアサは声がした後ろを振り返った。
「あぁーっ諒(りょう)!」
 ユキの近くで、諒がアサの方に片手を振っていた。全体的にぶかっとした感じに服を着こなしている。灰色のタンクトップに青いチェックの半そでのシャツを羽織っている。手にはリストバンドをしているし、浅めにはいた長ズボンの間からごついベルトがちらっと見えた。でも、顔だけはやっぱり何となく変わっていない。肌が元々浅黒くて、髪は、スポーツ刈りにしている。黒くて硬そうな短髪が太陽に光を反射していた。そこまではとても男らしいのに、目だけはやけに黒目が大きいから、愛嬌のある顔立ちになっている。笑うと、目が狐みたいのきゅっと細くなる。だから、諒の笑い方は愛想笑いができない笑い方だ。アサは、目を閉じているんじゃないかと思うくらい、本気で笑っている諒の顔が好きだった。
「うっわあーずいぶん大人っぽくなったね! 久しぶりだーっ」
 アサが今にも飛びつかんばかりに諒の方まで走っていくと、後ろからユキにフードをつかまれた。くいっと体が引きつる。
「へっ!? なに、ユキ?」
「いや、別に?」
 ユキはあいまいに笑ってアサから手を離す。アサは見ていなかったが、それを、心底ほっとした様子で顔を赤くした諒は見ていた。
「久しぶり、安沙奈」
「ええ?! ちょっと声変わりしてるんだけど!! 何か変なのっ」
 アサが笑い転げると、諒はむっとした声で言った。
「変って失礼だろ! しかも、多分俺、安沙奈抜いたよ、身長」
「うっそ?! あんなにちっちゃくて泣き虫だったのに?!」
「泣き虫は余計だっ」
 諒は今度は本気で怒ったようにむすっとした顔をした。怒ると女の子みたいに顔や耳が赤くなるのは変わってないらしい。
 ようやく笑いの発作が納まってきて、アサはふう、と一息ついた。
「あーおもしろかった。いきなり笑ってごめんね」
「本当だよ。でも、本当に俺の方がきっと身長でかくなったよ」
 自信満々に言って、諒は嬉しそうに笑った。
「嘘だあー。あ、ほら、でもアサの方が今は背高いよ」
 諒の頭の向こうの景色が背伸びせずに見える。諒のつむじまできちんと見える。
 手で自分の方が高いことを示すようにすると、諒はアサのサンダルを指さした。
「それは安沙奈のサンダルのヒールだろ!! 裸足になれば俺の方がでけえよっ」
 諒は今からでもビーチサンダルを脱ごうとしだしている。それなら、こっちだってサンダル脱いでやる。
「まあまあ、二人とも。それくらいにして」
 アサが本気でサンダルを脱ごうとサンダルに手をかけたところで、諒の後ろから背の高い人の影が落ちてきた。
「あっ薫?!」
「よう、久しぶり」
 諒の兄の薫はちょっと男にしては長めの髪を綺麗な金髪に染めていた。長いから、それを後ろで小さく縛っている。アサの記憶の中の薫は黒髪だったから、あまりの違いに何度か目を瞬いた。眼鏡をかけているのだけが、昔と同じところだ。
「うえ、何よ、その頭」
 横からユキが心底嫌そうな顔をして指をさす。薫の金髪はここの島の中じゃ嫌になるくらい目立っている。一見、どこかのホストのようだ。
「お、有姫久しぶりだね。似合うだろ、髪……っと、何だ、直樹と咲姫もいるじゃないか」
 後ろから今まで黙っていた直樹と咲姫が顔を出した。
「どーもっす……」
「おお、咲姫、また綺麗になったんじゃない? いくつになったっけ?」
 直樹のことは完全無視で薫は咲姫に話しかけている。目も合わせていない。直樹も直樹で慣れたことというような顔をしている。だが、顔が不愉快そうなのは、船酔いだけが理由じゃないだろう。横からその様子を窺っていたアサは内心顔をしかめた。
 そうだった、薫もいる可能性を考えとくんだったな……。
 今さら思っても遅いが、自分の兄が本気で嫌そうな顔をしているのを見ると、無理やり連れてきたことが申し訳なく思えてくる。
 諒は中学三年で、薫は大学一年生。つまり、薫と諒は四歳離れた兄弟だ。二人の父親はこの島で漁師をやっている。薫は本土の方で一人暮らしをしながら大学に通っているという話だったから、まさか島で会うなんて考えもしてなかった。去年だって、この時期はいなかった気がする。
 アサは一人でうーん、と難しい顔をして考えると、ユキが横から声をかけた。
「何? 何か考えてる?」
「ん、考えてる。そう言えばさ、直樹って薫のこと苦手だったよねー……」
「ああ、そのこと」
 ユキはまだ咲姫にしつこく話しかけている薫と、それを本気で面白くなさそうに見ている直樹を交互に見た。咲姫だけは直樹の顔がしぶっていることに気がつかないで、時々笑い声を上げながら、薫の話を聞いている。
「あれよね、薫、いいやつなんだけど……」
 ユキの言わんとしていることがわかって、アサも小さく首を縦に振る。
「ね、ちょっと、女好きなんだよねえ。しかも、軽いし」
 ぽつり、と呟いたアサの言葉にユキが同調するように頷いた。
 薫は鼻も通っているし、顔立ちも、何となく品があるような顔をしているため女の子から絶大な支持があった。それに、薫自身も、そういう自分の特徴が分かっているのか、女の子の間の立ち回りがひどく上手い。だが、女の子には優しいのに男にはひどく冷たいのだ。
 アサもユキも女の子だからか、冷たくされた経験はない。だが、諒や直樹を見ていると、薫の女の子と男の子に対する態度の違いがはっきりと分かる。咲姫と直樹も一緒にみんなでお母さんたちと島に来ていたときでさえ、直樹は薫とは仲良くなれてなかった気がする。  
 つまり、全くもって、直樹とは正反対の性格なのだ。直樹は女の子の扱いが上手いとはお世辞でも言えないし、顔だって平均の中のど真ん中の平均だ。直樹が苦手になるのも無理はないと思う。さっきの挨拶だって、年上の人に対する礼儀のようなものだろう。
「でも、もしかしたら上手く立ち回ってくれるかもしれないわね」
 アサの横でにやっとユキが笑った。
 意味が分からなくて、慌ててユキの白い肩をつかんだ。ユキの薄い青色のワンピースの紐が細い肩のところで結んである。華奢なユキの体格とばっちり似合うこのワンピースは、一緒に買い物に行ったときにアサが決めたものだった。
「え、なになに? どういうこと?! アサ分かってないよ!」
「あとで説明するわよ。それよりも、早く荷物旅館に置きに行きたいんだけど」
 ユキはもう重たいカバンを持っていることに疲れたのか、熱くなっているアスファルトの上にカバンを落としていた。
「お、じゃあ、行くか。その後海行こうぜ!」
 諒が元気よく片腕を空に向かって突き出した。アサも反射的に両手を空に向かってまっすぐ伸ばす。
「はいはい! アサ、あとスイカ割りしたいし、島のみんなに挨拶もしたい!」
「おう! もちろん! あ、あと花火も忘れんな!」
 諒と二人でわいわい騒いでいると、ユキが後ろから「諒!」と声を上げた。
「何? 有姫?」
 せっかく二人で先頭をきって歩いていたのに、諒が駆け足でユキのもとに戻る。諒のあとに、数歩遅れてからアサもくっついて行く。
「これ、持って」
 ぐいっと差し出されたのはユキのカバンだった。遠めからでもかなり重そうに見える。
「え、何で俺が……」
「諒、男でしょ!」
 それから、ユキは諒の耳元で意地悪い顔をしながら何か耳打ちした。とたんに諒がユキのカバンをひったくるように持って、せっかく追いついたアサをも残して行ってしまう。
「あ、ちょっと諒!」
「安沙奈のも持つから。貸して」
 何も言わないうちに諒はアサのカバンを奪って、旅館の方に駆けていってしまった。
「何あれー……変なの。ユキ何て言ったの?」
「特に何も? ただ、あたしって人の弱み見つけるの上手いのよね」
 ふふんと偉そうに笑ってからユキはアサに手を差し出した。ほっそりとしたユキの指がぴたっとアサの手を握って引っ張る。
「じゃ、重い荷物もなくなったし、さっさと行くわよ」
「……うん!」
 ユキに握られている部分だけ、ほんのりと暖かい。太陽の光に焼けるように暑いのではなくて、気持ちよい暑さだ。普段ユキからくっついて離れないのはアサの方だから、ユキから何かアクションがあると、どうしようもなく嬉しくなってしまう。
 手、繋いだの、いつ以来かな。
 波の音が聞こえる海沿いの道をのんびりと歩く。前にはいつまでも咲姫に話しかけている薫と、その横を無言で歩いている直樹がいる。それを見て、前にもこういうことあったな、と思い出した。
 まだ直樹と咲姫も一緒に来ていたころ、咲姫と直樹が二人でどんどん夕暮れの海沿いのこの道を歩いていってしまう。まだ体が小さかったアサはどうしても二人に追いつけなくて、ぱたぱた小走りに必死に走っていた。
 置いていかれないようにしなくちゃ。見失わないようにしなくちゃ。
 もし二人の姿が見えなくなったら、二度とお母さんたちのところに戻れない気がした。まだ島の地理が頭に入っていなかったからだ。左に広がっている海も青色じゃなくなって、赤く染まっていて異様に思えた。右に広がっている鬱蒼とした山も、緑色じゃなくて、黒く見える。怖い二つのものに挟まれながら懸命に後を追いかけていた。だけど追いつかない。変に悲しい気分に襲われて、ぱったりと足が止まってしまう。そんな時、きゅっと手を握ってくれるのがユキだった。無言で手を握って、アサをぐいっと引っ張ってくれる。
「ユキはさあ、よくアサの手繋いでくれるよね」
 手を繋いだまま笑って、ユキの方を覗き込む。ユキは一瞬変な顔をしてアサを見て、すぐに視線をずらした。
「だって、昔からちょっと目を離すとアサはすぐどこか行っちゃうんだもの」
「あはは、そっか」
 一応は頷いて見せたが、本当はちゃんと分かっている。あの時、手を握って引っ張ってくれたとき、本当はユキだってちょっと怖かったのだ。だって、心細くなかったり、頼りにしてなかったりしたら、きっと手なんて繋がない。
 ユキを見ると、まっすぐ前を向いたまま、海の匂いを含んだ風に髪をなびかせている。首筋に汗で髪がぴったりとくっついているのがチラッと見えた。

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