【小説】『もうすぐ、光の玉が爆ぜる』第8話

 いつのまにか、夜、星を見上げてホットミルクを飲むことが習慣となっていた。夏だったら、半そで短パンで、マンションのベランダに出てホットミルクを。もちろん、近くに蚊取り線香を置くことも忘れない。冬だったら、分厚いコートをパジャマの上から着てホットミルクを飲む。年中ホットミルクはどうかと思うかもしれないけれど、なんだか一日の終わりはホットミルクでしめないときちんと、終わらない気がするのだ。
 寝入ってしまったアサを起こさないように、部屋についている窓からベランダに出た。季節的にはこの頃が一番夜を過ごしやすい。湿気を含んだ雨のような匂いが夜の空気に混じっていた。柵にもたれながら空を見上げる。小さく散りばめられた光るかけらがキラキラと瞬いている。
 夕食の後はまあまあよね。何とか今日覚えなくちゃいけないことは覚えたみたいだし。これで寝たら忘れちゃった、とか言わなければ間に合いそうね。
 一人でそんなことを考えながらホットミルクをすする。砂糖が少し入っているから甘くておいしい。もともと、ユキは甘いもの自体嫌いじゃない。ただ、甘ければ何でもいいというアサの好みとは合わないだけだ。アサが好きなイチゴ味のお菓子なども、好きとは思えない。果物なら果物本来を食べればいい。もしそうでないものを食べると、何だか、ユキはせっかく本当のものがあるのにニセモノを食べているような気がしてしまう。
 ベランダの手すりにもたれるのを止めて、少し戻って窓のふちに腰掛けた。ユキがミルクをすする音以外、何も聞こえない。時たま、遠くの方で人の話し声のような音が聞こえてきたりもする。
 ユキが一日でこうやってぼんやりとする時間はこの時だけだった。後は、全てアサと一緒にいることにエネルギーを費やしている。それは苦ではないし、むしろ楽しい。だからこそ、アサと一緒にいられる時間はできるだけ一人でいないようにしようと決めた。
 なのに。
「何であのときもっと早く、自転車置き場に行かなかったのかしら」
 

 自然と自分を責めるような口調になっているのを感じながら、マグカップの中に入っているミルクから立ち上る湯気をじっと見つめた。湯気の向こうユキがよく知るセカイがぼんやりと浮かんでいる。
 日直だったことは本当で、先生がいなかったことも本当だ。どこかで怠けていたというふうには思えないけれど、それでもやっぱり、後悔してしまう。もし、先生の話をもっと早めに切り上げていれば、とか、ペアの日直の子とおしゃべりなんかしていなければよかった、とか。数え上げればきりが無いような小さなことが頭の中を駆け巡る。
 あたしがアサについていれば、アサは絶対泣かなかった。
 放課後のことが耳で聞こえ、目で見えるようにリアルに浮かび上がってくる。あたしの後ろで、アサは声を出さないようにじっとしていた。アサが努力して隠そうとしているところは伝わったけれど、体が密着していたぶん、背中を通して小さな震えがしっかりとユキにも伝わった。泣いている理由がつかめなくて、ユキは必死に言葉を捜した。あの時はあれでおさまったけど、本当は、まだ頭の中からもやが消えない。ユキの知らないところでアサに何か起こって、それでアサが泣いた。アサのことでユキが知らないことがある。たったそれだけのことなのに、いつも一緒にいる時間が長い分、不安も大きなしこりとして残っている。
 ぬるくなってきたミルクが入ったマグカップをしっかりと両手に挟みこみながら、どんどん冷えていってしまう指先を暖める。
「ユキ、何してんの?」
 自然とうつむいていた顔を慌てて上げて後ろを振り返った。眠そうな顔をしたアサが布団から体半分起こしている。
「ごめん、窓開けっぱなしで寒かった?」
「ん? 別に、大丈夫だよ。あ、何飲んでるの?」
 白い月明かりがうっすらとアサの細い指を照らした。アサの指先はまっすぐにユキのクリーム色のマグカップを指している。
「ホットミルク」
「お砂糖入れてる?」
「うん、飲む?」
 マグカップをこぼれないように差し出すと、アサはごそごそと布団の中から抜け出した。そして、アサの家から持ってきたボストンバッグの中からパーカーを取り出した。パジャマの上からそれを羽織りながら、よっこいしょ、とユキの隣に腰掛ける。
 マグカップを渡すと嬉しそうに受け取った。その笑顔にホットミルクを飲むよりもずっと温まるのを感じる。
「あとで歯磨きなさいよ」
「わかってるよー。うわ、本当にお砂糖入れたの? ほとんど甘くない!」
「アサが甘党過ぎるのよ」
 アサは甘い味を探すような顔でちょびちょびとミルクをすすっている。その様子に、自然と責めていた気持ちが和らいでいく。
「ユキ、いつも夜中にこうやってやってるでしょ?」
 マグカップをユキに返しながら、アサはポツリと呟いた。
「え?」 
 まじまじとアサの顔を見つめた。今日は星が出ているからそれほど暗くない。アサはまっすぐベランダの向こうに広がる夜を見つめていた。
「知ってるよ。アサがユキのことで知らないことなんかないよ」
 ユキの顔を見ないで、アサは凛とした声で言った。ふざけているときに言うような言葉だが、アサの目はちっとも笑っていなかった。何もかも映しているような透き通った目でベランダの向こうに広がるアサとユキが過ごしてきたセカイを見つめている。
 夜だからかもしれない。その深くて濃密な濃い空気のせいで、何も言い返す言葉が思いつかない。
 何も言えずにアサから返してもらったミルクを黙ってすすった。
「でも、今、ユキはアサのことで分からないことが一つあるんだよね」
 アサはずっと前しか見ていなかった瞳をやっとユキの方に向けた。
「今日、何があったか言う」
 小さな声で、それでいて星の下で良く通る程度の大きさでアサが話し始めた。
 いきなり話し始めて、最初のうちは戸惑った。このまま、お互い何もなかったことのようにすることもできたのに、アサはそれを選ばなかった。
 多分、あたしのために。
 アサは二人で共有する方を選んだ。だったら、あたしだって受け止めないと。怖がってる場合じゃない。だいたい、あたしが怖がる必要なんてないわ。
 隣で話すアサをちらっと盗み見る。
 あたしにはアサがいるんだから。だから、怖いものなんてない。
「それでね、その先輩がいきなりアドとか聞いてきて、びっくりしてたらお腹痛くなってきて、そしたらユキが来てくれたから助かったーて感じだったんだよ」
 話し終えたアサは一仕事終わったかのようにふうと息を吐いた。それから満足した顔で少しだけ笑った。
「これで終わりね」
 言いたいことが言い終わってほっとしたような顔をしている。だけど、ユキにはその表情がいつもと少し違うことになんとなく気づいていた。いつものように朗らかな笑顔にアサの顔は戻らない。
 ユキが黙ってたままでいると、アサは細い手で床に触れているユキの手を触った。その手はユキの手よりもずっとひんやりと冷えている。それから、戸惑うようにしつつも口を開いた。
「ユキはさ、好きにならないの?」
 はあ? 何言ってるの、アサは。
 ユキが訝しげな顔をしたのがアサには分かったのか、アサは少し唇を尖らした。
「だって、今日……あ、もう昨日か。アサはね、昨日初めてだったんだよ。人にああやって好かれるとさ、好かれた方も疲れない? ああいうのって、本当にエネルギー使うんだね」
 その様子を見て、やっとアサの心配していることが飲み込めた。
 多分、アサはあたしが告白されたらその人のことを好きなるかもしれないって、自分が告白されて初めて思ったんだわ。
 夜風がユキの長い髪を少しだけさらっていく。その冷たさを感じながら小さく返事をした。
「……確かに、エネルギー、使うかもしれないわね」
 ユキはちょっと目を伏せる。アサのもやもやした思いは、ずいぶん前にユキがもう捨ててしまった思いだ。ユキは、そこまで純粋に思えない。告白されても、ただ後にどうしようもない怖さが残るだけだから。 
 中学に入ると告白されるというようなことが起こるようになった。初めはどうしたらいいかわからなかった。ただ、そこにはいつも好きだと言われて、断る自分しかいなかった。好きじゃなくて、本当に申し訳ないと思ったし、それでも告白してきてくれた相手を好きにはなれないっていうのが自分でわかっていた。あたしのことを何も知らない人が、どうしてあたしを好きになって、告白という大変なことをしてくるのか、いつまでたってもわからなかった。今はもう、そんな気持ちはとっくの昔に消えてしまったけれど。それは、多分、あたしに告白してくる人の気持ちを少しだけ理解させられたことがあったから。
 でも、アサにはきっと綺麗なものばかりの告白だったように感じた。だから、アサは申し訳なく思っているんだろう。
 ずっと黙り込んでしまったアサを見て、ぽんぽんと頭を叩いた。子供の頃から変わらない、柔らかい髪。
「あたしは今のところ、好きな人とかできないから。興味ないし、今は他のことで忙しいから」
 微笑むと、アサはしばらく考えるような顔をした。
「それってもしかしてアサのこと?」
「もしかしなくても、それしかないでしょ。だからね、あたしは大丈夫。絶対、あたしが自分から変わることなんてない」
 本当は絶対って言い切れないけど。
 心の中で言葉を濁す。先のことなんてわからないことはユキだって知ってる。ユキが信じたいだけの考えかもしれない。だけど、少なくとも、今のあたしはそうしようと思っているし、変わることなんてありえないと感じることができる。
 アサはうん、と小さく声を出した。次にユキと目を合わせたときは、いつも通りの笑顔だった。
 それから、アサは立ち上がって伸びをした。ユキもつられて立ち上がる。
「ふわあ……眠い」
 手を口に当てないでアサが思いっきり欠伸をする。欠伸がユキの方にも移ってきたが、何とか口を閉じてかみ殺す。
「歯、磨きなさいよ」
 窓を閉めながらアサに言った。アサはパーカーを白と赤のボストンバッグに畳まないで突っ込んでいる。窓を閉め、最後にもう一度だけ外をぼんやりと眺めてからカーテンも閉めた。
 マグカップの中にはまだ少しだけミルクが残っている。暗くて見えにくかったから、天井についている電気の豆電球だけ明るくした。部屋がぼんやりと見えるようになる。
「…………っ」
 一口ミルクを飲んで、慌てて口をカップから離した。
「どしたの? ミルク飲まないならアサにちょうだい」
 何も言わないうちに、アサはさっさとミルクを奪って飲んでしまった。
「ん、甘い! さっきはお砂糖が全部底に沈んでいたから甘くなかったんだねー」
 納得したように頷いて、もっと飲もうと真っさかさまにカップをひっくり返している。アサは今、カップの底に溜まっていたどろどろになった砂糖を飲んでいる。
「アサ、よく甘すぎで気持ち悪くならないわよね」
 見ているこっちが気持ち悪くなるような光景だ。
「ユキは甘いものがほんとにダメだねえ。そんなんじゃ女の子として困るよ」
「何も困らないわよ」
 笑いながらコップを台所に持っていくために部屋を出る。アサも、歯磨きのために部屋の外に出た。コップを台所に持っていき、歯を磨いて帰ったあと、部屋の布団の中にはもうアサがいた。アサはユキの部屋で泊まるときいつも布団をベッドの横に引く。ユキは自分の部屋ということもあり部屋のベッドで眠る。ユキはアサを踏まないように気をつけながら、自分のベッドの中にするりと潜り込んだ。シーツのひんやりとした温度が肌をぞわぞわと撫でる。
「ユキ、起きてる?」
「んー……起きてるけど、早く寝たいから、何か言うなら早くしてちょうだい」
 体ごと横を向いて、下にいるアサを見る。アサは布団の中に頭からつま先まで全部入り込む勢いでもぐっていた。ミノムシみたいだ。布団の中からくぐもった声をだした。
「えっとね……ちゃんと、豊駕島行けるよう頑張るから。それから、アサだって自分から変えようとしたことなんてないんだからね、ほんとに。アサはユキの隣にずっといようとしてるんだよ」
 アサは一息でそれだけ言って、ごそごそと全身を布団の中で丸めていた。自然と頬が緩む。
「……そんなの、知ってるわよ。あたしはアサのことで知らないことなんてないわ」
 さっきのアサの台詞をまんまアサに返すと、布団の中から少しの笑い声が漏れた。

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