【小説】『もうすぐ、光の玉が爆ぜる』第21話

 風が吹き始めた。
 ポニーテールにしている長い髪が顔の方まで降りかかる。うっとうしくて乱暴にそれを払いながら、ユキは、アサと颯が走ってくるコンクリートの道をじっと見つめた。西日が目に沁みたが、それをも我慢して瞬きすらしないようにじっと道路の先を見つめた。
 港からは道路が途中で曲がっているのでぎりぎりにならないと、二人の姿は見えない。もちろん、初めに見えるのはアサに決まっているだろうけど。
「アサが負けるはずないもの……」
 押し殺したような声で一人呟き、もう一度髪を払った。
「有姫! 二人来たか?!」
 先回りして海岸を走ってきた諒が来たらしい。道路の先を見つめながらその声に応じる。
「まだよ……あっ」


「あ?! 来た?!」
「来た! 早く!」
 諒に早く上がってくることを命じてすっと目を細める。
 これ……どっちだかわかんないわ。
 険しい目で二人の様子を見つめながら、顔をしかめた。
 二人とも、とても速い。アサが速いのは当たり前だけど、颯の方もはったりだけではなかったということだ。二人はカーブのところでより内側を回るようして走っていた。あの緩やかな大きなカーブを曲がり終わったら、二人ともラストスパートをかけるだろう。そこからが勝負だ。
 海岸から小さな石段を上ってきた諒がユキの隣に立ち尽くす。
「嘘だろ……あいつ、あんな速い……」
 呆然とした口調で話す諒の言葉を無視して、じっと二人を見続けた。といっても、ほとんどアサしか見ていなかったが。アサは息ができなくて苦しそうな顔もしていない。ただ、走っている。風の中にいる自分を見極めているようで、久しぶりに横からではなくアサの走りを見た気がした。
「カーブ、終わったわ。諒、どいて」
 二人の邪魔にならないように、時刻表の傍から離れる。諒も無言で下がった。
 アサも颯もまだ決定的な離れ方をしていない。今ならどちらが勝ってもおかしくない状況だ。ただ、ユキには颯が一瞬苦しそうに顔をゆがめた様子が見えた。息がつらいというような表情ではなく、何か思い出したような、本当に一瞬だけそんな表情をした。
 何……? もしかしてどこか怪我をして壊した箇所でもあったのかしら。
 そんな考えが頭を掠めた。だが、二人が走る速さよりも早くその考えは飛んでいった。アサが、一歩颯よりも遅れをとったのだ。カーブが終わり、カーブの後の直線も終わって時刻表のある港に入りかけたところ、時刻表までほんの三十メートルほどで、アサは一歩遅れた。
 嘘…………っ?!
 悲鳴を上げたいくらい、胸の高鳴りが大きくなる。その思いは、自然と口から言葉として出て行った。
「ア……っ」
「安沙奈!」
 ぎょっとして諒を振り向く。
 ユキの高い声は、諒の声変わりした力強い声にあっという間に呑まれた。
 嘘……。今、アサはあたしの声を聞くことができた?
 頭の芯がしびれるように痛み、別の意味で胸の高鳴りがもっとひどくなった。
「安沙奈! いけぇーっ」
 諒の声に気圧(けお)されるように慌てて視線を戻すと、今度はアサが一歩颯よりも前を出ていた。
「アサァーっ」
 さっき諒に飲み込まれた言葉が、今さらになって口から飛び出す。
 アサはもう二歩は颯を引き離していた。そして、そのまま時刻表を蹴り倒す勢いでタッチする。ガシャンっと時刻表が倒れる音が派手に響いた。その音は、吹き始めていた風と、波の音と、船の高い汽笛の音と混ざりながら、港を覆う赤い空を駆け抜けた。
「……ユッ、ユキ、どっち?!」
 息を切らしながら、アサは膝に手をついて苦しそうに絶え絶えに聞いた。
「アサに決まってるでしょ!」
 怒鳴るように一度叫んで、アサの元に駆け寄る。アサは笑ってその場で大の字に寝転んだ。
「あ、ははー……よかったあ。勝ったー」
 笑いながらそう言って、後ろに突っ立っている諒を頭だけ動かしてアサは見た。
「諒、アサの勝ちだよ」
 ピースと腕を諒の方に向けて見せている。ユキはその手を取ることもできずに、行き場のない手で汗で湿った髪を撫でた。
「へー? ユキ?」
「……頑張ったわね、おかえり」
 どうして、あたしはこんなに安心しているのだろう。ほっと息ついた気持ちと、微妙に哀しい思いが心の中で混ざり合う。そして、そのまま涙となりそうになった。
 馬鹿みたい。最近、あたし涙腺ゆるすぎ。
 目の奥に力を込めながら、アサを見て笑う。アサはユキと目を合わせて蕾がほころんで花を咲かせたように微笑んだ。
「たっだいまあー」
 間延びした声でゆっくりと満足そうにユキに向かって言い、アサはゆっくり上半身だけ起きた。そのままじっと一点を見つめている。アサが見つめる先を見ると、颯が無言でアサが倒した時刻表を立て直していた。
「ねえ、すごく速いねー」
「……あなたの方が速いじゃないですか」
 何かを押し殺したような声で言って、颯はうつむいた。量が多く真っ直ぐな黒髪が夏風にさらさらとすかされている。額にうっすらと汗の粒が乗っているのが見えた。
「んー。まあ、アサが勝ったけどさ。でも、速いよ! 初めて負けるかと思ったもん」
 アサはえへへと笑って、座っていた体を立たせた。そして、颯の方に駆け寄る。
「面白かったね! また走ろうねえ」
 アサの右手が颯に向かって差し出された。颯はしばらくその手を無言で見つめて、それからアサの目をまっすぐ見た。
「あんた、馬鹿?」
へっ? とアサが小さく首をかしげている。颯の言葉に諒もユキも身を強張らせる。
「僕、負けは負けってはっきり認めるから。だから、もう関わらないでよ」
「え……? 何で?」
 間の抜けたアサの声がぽんっと空中で弾けた。その瞬間、ユキには分かった。
 やっちゃ、いけないことをしてしまった。今ここには、相手の大切な見えない線が引いてある。会ったばかりのアサやあたしが土足で踏み込むなんて、してはいけない。
 でも、それも遅かった。アサは首をかしげたまま質問の答えを待とうと動かない。
「アサ……」
「僕は負けたんだ!」
 ユキのアサを呼ぶ声と、颯の怒鳴る声が重なって港に響き渡った。アサの小さな肩がびくっと揺れたのが見えた。手をつかんでこちら側に引っ張ってあげたいが、今さらどうにもならない。颯は怒鳴りながら、強くアサのことをにらんでいた。
「僕は負けたんだ! 走りは誰にも負けたことなかったけど、あんたに負けた! 負けたことは事実だから、認めるよ。もう二度と走らない。あんたさ、何でそんな簡単に僕に勝ったんだよ。そんな、何で僕が、一番負けたくないもので負けなんて……」
 颯はぐっと右手を握って最後の方は声にならないように口を閉ざした。
「え、待ってよ。何言ってんの? 何で? そんなたった一回負けたぐらいで……」
 アサは意味が分からないといった顔で颯の方に寄っていった。
「近づくなよっ」
 颯は心底嫌そうに近寄ってくるアサから一歩離れた。
「たった一回ぐらいとか、何であんたが簡単に言うんだよ! 一回も負けたことなんてないくせに! 僕は本気だったんだ! いつも! なのに……っ」
 颯がぎりっと口を噛み締める音が聞こえた気がした。颯の顔が悔しそうにゆがんだ。
 ああ、この子は、本当に必死だったんだわ。
 ユキは遠めから颯を見ながら心臓をきゅっと誰かに握られた気がした。
 あたしがアサを思うように、あの子はきっと走ることが何にも変えがたいほど大切で……。
 でも、とユキは思う。颯が痛々しく見えた。すっと目線を逸らす。疾風の後ろに広がる暗くなってきた海を見て、それから自分の足元を見た。
 でも、それだけじゃ、大切なものなんてすぐに消える。
 アサはしばらく黙って颯の言い分を聞いているようだったが、そのうちしっかりと颯を見た。本気で怒り、そして本気で悲しそうな真っ黒い瞳だった。アサのチョコレート色の髪はいつもより暗く見えて、近づいてきた夜の色に似ていた。
「あのさあ、一回負けたぐらいでそんなこと言ってたら、好きなものなんてあっという間に全部なくなっちゃうんだよ」
 アサはそれだけ言うと、颯を置いてユキの方に戻ってきた。
「ユキ! お腹減った! 戻ろう」
「そうね、お腹減った。諒、今日も良子おばさんのとこでご飯食べてく?」
「え? ああ、えっと、一応一回家に戻って聞いてみるよ」
 三人でぞろぞろ道を歩きながら、じっとうつむいている颯の横を通った。ユキだけ、ちょうど颯の真横でぴたりと一瞬止まった。
「アサが言っていたこと、わかる? もっとはっきり言うとね、あなた、甘いのよ。負けたらそこで終わりって思っているところが。だからアサに負けたんじゃない? ねえ、本当に走ることが好きだったの?」
 跳ね上がるように颯が顔をあげてこちらを見上げたのが分かったが、無視して諒とアサの方へ駆け寄る。二人に追いついて、三人でゆっくりと帰り道を歩いていく。
「今日、夕飯何かなあ。から揚げだといいな!」
「アサ、昨日から揚げ食べたじゃない」
「いいの。から揚げは毎日出ていいっ」
 まるで決定事項であり、かつ一般常識だとでも言うようにアサは大きく頷いた。
「もしから揚げだったら、俺が一個多めだからな。多分、良子おばさんのとこで食べるし」
 諒はアサに念を押すように言った。アサは理由が分からないように諒に詰め寄る。
「なんでー? アサとはいつも同じ数ずつなのにっ」
「お前、昨日俺より一個多く食べたじゃねえかよ!」
「でも今日アサ勝ってあげたのにー」
 ほっぺたを膨らまして不満そうにするアサを見ていると、ふっと頬が緩んだ。相変わらず、あのとき自分の声はアサに聞こえていたのか、とか、最後にスピードアップできたのは、諒の声のおかげで、自分は何にも役に立ってなかったのか、とかたくさんの不安が浮かんでは消え、浮かんでは消えることを繰り返している。それでも、今は何となく三人が心地よかった。
 夜を運んでくる海からの風は優しく汗をかいた三人の体を冷やしていき、波の音が穏やかに響き渡る。階段を上った先の商店街からは、明るい活気がそのまま色として表れたかのようにオレンジの電球の光が漏れているし、その奥にある誰かの家からは夕飯の匂いが漂ってきている。
 ユキは小さく、けれど胸の奥底まで染み渡るように深呼吸した。もしかしたら、今、少しほっとして落ち着いているのは、自分がとっくのとうに解決して、答えがわかっていることで悩んで行き詰っている人を見たからかもしれない。自分よりも、陳腐なことを理由に悩んでいる子を見つけたからかもしれない。そんなふうにしか安心を感じることができなくなった自分をみじめだと、心の端っこで思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?