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私はいつも利他的で明るく、笑顔の絶えない善良な人間です。
他者への思いやり、氣づかいができる心優しい人間です。

他者から「いい人だね」といわれるような

「善良な私」以外は認めない


というより、「極悪」の要素を持つ私なんて存在しない。
人を誹謗中傷してしまうような嫉妬心や残忍な心もなければ、
他人を批評したりする傲慢さも、もちろんない。

そんな”汚いもの”は私には存在しないのだ。

なぜなら、私は善良な人間だから。
みんなにもそう言われるし。その通りなのだ。


上記は10代から20代にかけての私の思考。

善良な人間というレッテルを貼られることで
得られるメリットは多かった。
内心では「こいつ嫌い」と思っていても
笑顔を振りまいて傾聴し、リアクションとって、
相手が氣もちよくなるように接した。
メリットを得るために。

でもそんな自分を直視してしまうと本当は「善良な人間」ではなくて
「打算的な人間」だということを自覚してしまう。
それは嫌。
私は善良な人間であり続けたいのだ。

だって、もし打算的だということがばれたらどうなる?
嫌われるでしょ、私主催のイベントに人がこなくなるかも。
また大好きな友達が離れていってしまうかもしれない
またあの胸を引きちぎられるような痛みを経験するのか?
それだけは絶対嫌

善良な人間でさえいれば、人は離れない。痛みはない。
だから打算的な私なんて存在しないんだ。
無意識にそう思い込んだ。

これが認知を歪ませ(事実とは異なる解釈をする)「幻想」を作り上げる仕組み。
事実とは関係なく自分で作り上げたセルフイメージ
当の本人は無自覚でやってるから氣づいてないけど。
(私は30代になってから氣づいたよ)

私に子供ができたら必ず教えようと思っていることがある。
「自分のことをちゃんと見る(知る)こと」
私は人生においてこれ程までに群を抜いて重要なことはないと思っている。

事実と幻想が乖離すればするほど人生は思い通りにいかなくなる。
自分の本当の望みがわからなくなってる状態で社会のレールに乗ったら
生きる意味がわからなくなる。
自分の強みや得意分野、大事にしているもの(価値観)をはき違えれば、
うまくいかないことばっかになる。楽しいこともいずれ楽しくなくなる。

この世界が二元性であり続ける限り
「綺麗」があるなら「汚い」はある。
「善良」があるなら「極悪」がある。
かならずあるんだ。

コインは表だけでは存在できないのと同じように。

表があれば裏がある。

極悪さを消そう消そうとしても、消えない。
それは自己否定となって自分を苦しめるだけ。



30代になってから
私の内側から出てきた言葉

「ネガティブ(極悪)も愛してほしい」

この言葉がきこえたとき、涙が出たんだよね


私の中にある「打算的で汚い自分」
「善良な私」とセットで存在している「極悪な私」


ただその存在を認めてほしかった。
いないものとして消そうとするのではなくて
「ここにいるよ」ってわかってほしかった。
これも自分なんだよって。

極悪な私も存在するんだ。
そしてそれは悪いことじゃないんだ
って思えるようになったら
他人の極悪さも許せるようになった。

ああ、この人自分の利益のことしか考えてないんだな。
ああ、この人は相手の意思を尊重できない人なんだな。

そう受け取ることがあっても
それに対して前までは「だめなやつ」って評価をしてたんだけど
今は
「この人極悪の要素が表に出てるけど、善良の側面はどんな感じなんだろう?」
という反対側に興味を持てたり、
「極悪な側面を面に出せるなんてメンタルつよいな~」
って関心したり(笑)

心がでっかくなった氣がする。
今の私、善良で生きてた時よりすごく好き。

打算的で、汚い自分も認められた今の私は
「無条件の愛」に一歩近づけたように感じるから。


自分の中にある極悪を直視できますか?

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