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 もう、ウナギなど食べたくないし、ウナギの顔も見たくない。
 宵闇の底を這う水生生物のような、湿っぽい紆曲を続ける町道を歩いていると、そんな想念が再び押し寄せてくる。
 この道は、どこにつづいているのだろう。蒲焼きをタレに浸したときみたいに、甘ったるい夜のしずくが、昼の熱を吸い込んだアスファルトの上でじゅわじゅわと音を立てる。
 ウナギから逃れたい。
 それは、絶体絶命の欲求として、存在の根源的苦痛の表明として、身体の内奥から湧きあがり、重たく膨らんで、ぼくを押し潰そうとする。歩けば歩くほど、ますますウナギに対する執着が弾丸のように硬く尖鋭化され、今にも闇を撃ち破る爆発音が耳をつんざくのではないかと不安になる。
 前世紀、不名誉にも絶滅生物のリストにその名を刻まれたニホンウナギが今になって、なんの因果かゲノムの悪戯か、ウナギがウナギに溺れるほど異常に増殖したというのは寝耳にウナギで、上流ではウナギが詰まってあたりはウナギ浸し、ハザードマップも書き換えられた。一部では、ウナギに寝床を奪われやしないかと慌てたアナゴが、意地を張って繁殖に励んでいるという話もあり、実際かなりの数のアナゴの個体が、このウナギ災害に混じっているともいわれている。

 夏休みのアルバイトは、海沿いの町に住み込んで、ビーチハウスの手伝いでもするつもりだった。ところが、検索していて目につく海辺の仕事は、おしなべて「ウナギ駆除」ばかり。どうやらその町の行政は、湖や川に入りきらなくなって、河口から海まで溢れ出した無数のウナギを掃討するつもりらしい。リンクを辿ると、〈マリンスポーツをウナギから救え〉というスローガンが、町のホームページに掲げられている。その横に、キングギドラのように三頭の獣と化したウナギの怪物のイラストが添えられていた。いまやウナギの侵略によって絶滅の危機に瀕しているのは、国際大会も行われるくらい盛んな、その小さな町のマリンスポーツ文化のほうというわけだった。
 しかし肝心なことに、検索結果に羅列されたその「ウナギ駆除」推進の町の名前を、ぼくはちっとも知らなかったし、そこがマリンスポーツ選手にとっての、いわば聖地のひとつであるというような事実については、当然ながら何も、町の名前を知らないよりもっと強い知らなさで知らなかった。
 その町は右腎町《うじんちょう》という名前だった。
 ともかくぼくは、お金も必要だったし、見る前に滑れの精神で、その町へ行くことにした。

 町に到着して、雇用の手続きをするために役場を訪れると、入り口に何百枚もの観光案内のビラが置いてあり、〈ヨウコソマリンスポーツの町右腎町へ〉と大きく印刷されていた。「ようこそ」をカタカナで表記したものが珍しかったので、一瞬、それが何を意味する言葉なのか理解できなかった。
 受け付けブースで書類に記入したあと、個室で簡単な面接を受けた。面接官は、ぼくと同年代と思われる若い女性で、バゲットの表面ほどの色に日焼けしており、聞いてもいないのに「ウイコです」と名乗った。「羽に衣に子どもの子」
 その名前をぼくは頭の中で書いてみた。急に天ぷらが思い浮かんで腹が減った。
「で、どんな動機で応募したんですか」と羽衣子は言った。
 ぼくは、喋りはじめに「で」という一言を置く人間が苦手だ。「それで」ならまだ許せるが、「で」という人をバカにしたような省略には我慢がならない。「で」とは、いったい何のあとにつづく仕切りなのだろうか、「で」の前には何があったのだろうか。
「動機は、とくに、ないんですが」とぼくは言った。
「わたしはこの土地で生まれて、ここでマリンスポーツをしています。こんど大会にも出る予定です」
「気の毒なことです。でもきっと、大会までには状況は改善するんじゃないですか」
「そうだといいけれど」羽衣子は声のトーンを低くして、少し笑った。
 手に畳んで持っていた観光案内のビラを彼女に差し出して、ヨウコソについて指摘しようとしたが、ためらっているうちに眼の前から笑いが消え、面接は終わった。

 ウナギはいたるところに存在した。海は一面ガンメタル色に照り返し、砂浜では艷やかな犇めきから、干からびて光沢を失ったうねりの停止にいたる広大なグラデーションが展開されていた。
 水中ブルドーザーが海岸に向かって押し集めてきたウナギの堆積を、ネコと呼ばれる運搬用の一輪車に積んで、待機するトラックが停まっている場所まで運ぶのがぼくの仕事だった。直感的に、この作業はいくらやっても終わりが見えないものになるだろうと思った。シーシュポスの岩のように、あるいは賽の河原の石積みのように、これらのウナギたちをネコに載せて運んでいく往復作業は、ようするに徒労でしかないのではないか。
 ウナギは生きているものもあれば、死んでいるものもあった。多くのウナギが、運んでいる途中で威勢よくネコから飛び出して、地面を覆い尽くすほかのウナギに混じった。
 ぼくは吹き出す汗と、あたりに垂れこめる耐えがたい臭気に悪戦苦闘しながらウナギを運んだ。それはじつにインパクトのある臭いだった。ウナギを大量に積載したトラックが走れば、町中の電柱も郵便ポストも野良犬も当のウナギでさえも、鼻を曲げて逃げ出すに違いなかった。
「精が出るねえ、にーちゃん」スコップでネコにウナギを載せてくれる中年の人夫が声をかけてきた。彼はぬめるウナギの集合体を見つめながら、妙ににやついた笑いを浮かべていた。
「どっから来た?」
「東京から来ました」
「ほう。おれは右腎《ここ》の生まれだ。マリンスポーツをやってたし、今もやってる」
 かりんとうの一歩手前くらいまで日焼けした男の額に、黒く透明な汗の粒が光っていた。

 日の沈んだ帰り道、全身から臭いがとれなくて、皮膚を脱ぎたいくらいだった。ずいぶん歩いた気がするのに、なかなか宿泊施設までたどり着かない。ウナギの群れを踏んづけたときの、ぐにゅりという感覚がときおり蘇り、硬いはずの地面が生き物の生暖かさで撓んだり流動したりした。
 足をとられそうになりながら、なんとなくわき道のほうを覗くと、鰻屋の看板が見えて吐きそうになった。またしばらく行くと、〈ザ・マリンスポーツ・ショップ〉と掲げた店があった。ふと羽衣子とおじさんのことが頭に浮かんだ。これまであまり考えないようにしていたが、マリンスポーツにはサーフィンだとか、セーリングだとか、ダイビングだとか、すごくたくさんの種類のスポーツが含まれるはずだ。ふたりはどのマリンスポーツをやっているのだろう。こんど会ったら聞いてみようと思った。
 ぼくは、どこにもたどり着かない、暗く頽廃的なウナギの道を、重い足取りでどこまでも歩いた。

 二日目、ウナギはもうウナギに見えなかった。
 ビーチでは見たところ、昨日と何ひとつ変わらぬ光景が広がっていた。海は黒曜石を敷きつめたみたいに銀や黒に照り返し、砂浜には打ち上げられた無数の銃身が散乱しているようだった。しかし、その光景を構成するひとつひとつの小さな要素は、ウナギというよりウとしかいいようのない何かに変貌していた。鳥類の鵜ではなく、意味を持たないカタカナの記号としてのウである。地上は、足の踏み場もネコの通り道もないほど、ウでごった返していた。
 ウの絨毯の上を、太陽のほうから近づいてくるまっ黒焦げの影があった。影はぼくの目の前で立ち止まり、「で、調子はどうですか」と言った。 
「ここにあるのは、ウナギではないですね」とぼくは言った。
 羽衣子はウェットスーツを装着していて、それは見るからにマリンスポーツの選手という具合いだったけれど、わきにはサーフボードもシュノーケルもフィンも抱えていなかった。
「ウナギではないって、どういうこと?」
「こいつらは、ウだ。鳥のでなく、ただのウだよ。ぼくらはウにまみれて、ウで汚れて、ウで金を稼いでるんだ」
 羽衣子は黙ったまま、なぜか悲しそうな目をしてぼくを見つめていた。
「ナギはどこにいったの」
 ナギがどこへ消えてしまったのか、それはぼくにもわからなかった。太陽に灼かれて蒸発してしまったのか、海へ帰っていったのか、川を遡って目的地へ到達したのかもしれなかった。そんなことを考えながら、ぼくは心のなかで「で、きみはどんなマリンスポーツをやっているの」と羽衣子に聞いてみた。
 彼女の目は虚ろで、その何も見ていない視線をぼくから海のほうへ動かした。もし質問を声に出して聞いていたら、ぼくはきっと恥ずかしさのあまり、ウでもかぶって隠れようとしただろう。なぜかはわからないけど、そんな気がした。
 羽衣子は脚にまとわりつくウの大群を蹴散らすように、毅然とした足取りで海のほうへ歩いていった。そのただならぬ様子に、ぼくは思わず声をかけていた。
「待って。どこに行くの」
 羽衣子は結んでいた髪をほどき、振り返って言った。
「ナギを探してくる」
「無駄だよ。ここには、この世界には、ウしか存在しないんだから。それに、ナギを見つけたところでどうしようもないじゃないか」
「やってみないとわからない」
 羽衣子の後ろ姿を追って走り出そうとしたとたん、ぼくは足をとられてウの山に突っ込んだ。ウはすでに、可算名詞から不可算名詞へとさらなる変貌を遂げ、ちょっとやそっとの身体動作では処理しきれなくなっていた。もがくほど体はウに埋もれ、動きを封じられてしまう。
 マリンスポーツをやっているに違いない誰かが災難に気づいて、こちらへ向かってくるらしい。いや、その人は反対に遠ざかっているのかもしれない。
 遠くで発砲音が鳴り響き、焼け焦げたウの刺激臭が鼻をかすめる……。
 体を起こして海のほうへ目をやると、羽衣子は沖を目指す途上で、凍りついたように一瞬停止したのち、波打つ黒い鉱石の乱反射のただなかに姿を消した。

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