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逆さま


 私はここに座って、もうかれこれ百年になる。私に今できることといえば、それからこれまでしてきたこととか、この先していかなければならないことといえば、この椅子にじっと座りつづけていることくらいじゃないかな。で、なんだっけ? そうそう、百年という年月はそうだな、頭と尻がひっくり返って逆さまになるくらいの実に長いあいだのことなんだよ、ちょうどこの私の頭と尻がひっくり返って逆さまになっているみたいにね。どうして逆さまに椅子に座ってるのかなんて訊かないでくれよ、現にこうして逆さまに座ってるんだから、こうした見た目であるということにとにかくまずは慣れてほしいんだ。なるたけ質問はよしてくれるかな。答えてる暇があまりなくてね、いや、あるにはあるけれども、あとでそういう時間は設けるからさ。たぶんだけど、もともとは逆さまに座っていたわけじゃないんだ、きっとね、うん、なんていうんだろう、逆さまの逆さまってやつだよようするに、うまく言えないけどさ、はじめはそれだったんだよ、逆さまの逆さまからスタートした、それがいつの間にか、長い月日とともにだんだん様子がおかしくなってきて、今きみの前にこうしてほんとうの逆さまになって座っているわけなんだけどね。だけどどうしてこんな話になったんだろう、逆さまかどうかなんて、自分でもわかるわけなんかないのに、なんで私は逆さまだなんて言ったんだろうね、誰かが私を見て、あんた逆さまじゃないかみっともない、などと言ってくれなきゃ自分の姿勢のことなんて不可視なんだし、重力を基準に、あ、そうだった、百年について何か言おうとしていたのだったかな……で、だ。百年、というのはちょっとした単位だってことさ。単位の積み重ね、堆積物、だるま落としのブロックみたいなものだ。カツン、カツン、ってハンマーで叩き飛ばすあれだよ、あれのひとつを私はここに積み上げたのさ。そうして、また一段、だるまの首の位置は高くなったんだな。やつの目を見てみろよ、過去から未来まですっかり詰め込んで傲然として不満足でうつろで渦を巻きながら光を吸い込んでほとんど空洞じゃないか、もうほとんどそれは無だ、ふたつの無、無にふたつとかみっつなんてものがあればの話、その無の穴は風通しがよさそうだが、無なんだから穴も風すらもないんだけどな。で、きみは何をしにここへ来た? こんなだるま落としの隙間みたいなくだらない場所にさ。そうさ、私はこのくだらない隙間の中にいて、ここにあるこの便座に座っているのだ。まあ椅子と言えなくもないんだけれど、よくよく考えてみたら私が座っているのは便座だったよ、うん、実に申し分ない便座だね、だけど便座だって椅子の仲間だろう、それとも椅子が便座の仲間なのかな、げんみつにいえばこれは便座と椅子の中間の腰かけでなかなか手に入らないシロモノってわけなのだ、どっちつかずでグレーゾーンな座椅子……サドル? ただの平面かもしれない、そんなことはない、何か座るための道具であることは間違いない、だけどさっさときみが知りたいことをいろいろ説明しなければならないね、いや、やめよう、説明なんてしたところでなんにもならないよ、ここがどこだとか、今がいつかとか、私が誰であるとか、そんなものはつまらぬ形式にすぎない、だってたった今こうして便座にまたがっているってだけでじゅうぶんひとつの事実なんだ、もしかしたらおまるかもしれないが、まあ機能としては同じだよね、おまるというのもなかなか悪くないよね、それよりきみは教えてほしいんだろう、どうして私が百年ものあいだ、こんなところでおまるにまたがっているのかってことを、それとも何かほかのことをやりにここへ来たのかい、たとえば私を殺しにとか、びんたしにとか、ぶん殴りにとか、逆さまの逆さまに戻してやろうとか? ああ、実にいい、実にいいよ、このおまるの座り心地はね。だからこうしていつまでも座っていられるし、もうカタツムリの殻みたいに体にすっかりひっついちまって、ちょっとやそっとじゃ剥がせんだろうさね。まあどっちでもいいんだが、ひとまず私の話をしようじゃないか。私、というより、私ときみとのあいだの話を、それから祖国追放の話、のっぺりとしたコンクリートに四方を囲まれた鬼のいない地獄の話、仔山羊を強姦した男の話、神さまの内視鏡検査の顛末、だるま落としのブロックとブロックのあいだにちょっと差し挟むくらいの、チョロっとした野糞みたいな話を。話なんて、どんな種類の話にも言えることだが、たいていの話なんてそうたいしたもんじゃない。これはきみにもわかってもらえると思う。読点と句点だけあれば事足りる。第一巻完結。ここに句点。それで、ここに読点、ひとつ飛ばして句点とね。だが、いちばん最初にちょこんと終止符を打つってのはルール違反だ。どこにでも転がっていそうな形をしているから、つい使用過多に陥ってしまうのも理解できなくはないけれど。話し言葉と書き言葉がごっちゃになっているのかな。まあよく言われるんだ、あんたはものを書くように話すよなって。逆だったかもしれないぞ、おしゃべりをするように書くよな、かな……。で、私の話には聞く価値があるかどうか、傾聴に値するか、我を忘れて聴き惚れることができるか、そんな話ができればこっちだってなんの問題もないわけさ。自分の話には価値がある、そんなふうに断定できたり、評価してもらえたらね、言うことなしだよ。だけど、私はこの話をおまるの上で、上でというべきか下でというべきか、とにかく百年ものあいだ座りっぱなしの、しゃべりっぱなしって状態なんだ。平たく言えば、もううんざりってところかな。もっと言えば、完全に自分を見失っちまったってやつなのさ。途方に暮れている。現在進行形でね。もう明日のことすらわからない。これはある種の練習だよ、きみ。ようするに、自殺のためのね。あるいは絶望するための。おしゃべりするのは沈黙するための練習だしさ。もう百年かけて、またひとつだるまのブロックを積み上げてみようなんて、馬鹿が考えることと一緒だよ。だってほら、だるまの顔を見てみろよ、望楼の上ですましきってはいるけれど、あらゆる無がそこに刻み込まれているじゃないか、虚無、無関心、無理解、無理数、無尽蔵、無知、無能、無気力、無のつく単語を検索せよ。しかし検索だけで事足りるだろうか、この非検索的な無の世界は、無情にも無意味であることを貫いているというのに。ところでなんだろう、無職の私が話していたことは? え? そうそう、私やきみの存在意義だとか、そうだな、きみと私のあいだにある距離感の存在意義、そもそも距離、なんてものが存在するのかは測りようもないがね、私は測量士じゃないんだし、ようするにこの世に存在するすべての存在者の存在意義というもののことについての話だ。たとえばきみが今、私をぶん殴ろうとしていると仮定しようじゃないか。なぜか? なぜというのは嫌いな言葉だな。なぜ殺すのか、なぜ生きるのか、なぜ私が逆さまになっているのか、なぜそんな仮定を立てるのか、なぜ屁をひるのか、なぜ世界はかように在らねばならぬのか。私も長年逆さまをやってきたが、きみのようななぜなぜくんなぜなぜちゃんははじめてだよ。きみははじめてのタイプだ。こうやって新しい人類は誕生するのかもしれんぞ! ひょっとするとあれかな、きみは私の椅子の仲間の便座の仲間のおまるの載っかった台座をハンマーで叩き落とそうとしてるんじゃないかね、そんな気がするね、くだらない思いつきだね、いや、あくまで気がするってだけでさ、ほんとうのところは知らないよ、そんな匂いがちらっとしただけのことさ。過敏なんだ。いろいろな匂いに対してね。待てよ、そこにきみはいない? まいったな、だとすると私は誰に向けて話していたんだろう。そういうことになるよね。くそ! 話し相手のいない話なんてあるのかな。不在者に向けて話をするなんてことがさ。退屈な独白にだって聞き手はいるもんだと思うがね。当然さ、私の独白の聞き手は私だよ、ほかに考えられない。だけどもね、そこに何か胡散臭いものを感じざるをえないんだ、ほんとうにそんなことが成り立つんだろうかって、実はそいつは巧妙に仕組まれたからくりで、私が独白と思っているものは、もしかしたらきみのおしゃべりなんじゃないか? さっきから私はまるできみがしゃべっているのを聞いているみたいに自分がしゃべっているような気がしてならないんだよ。私の言葉はほんとうに私の言葉なのかい? 私の便座は? 私のおまるは? きみというのはつまり、まだ存在していない私のことなのでは? ここが鏡の中の世界だとしたら、えっと、私は私に向けてしゃべっているきみの言葉の反響でしかなく、私はかれこれマイナス百年、ここではない場所でこうして頭からおまるをかぶっているということだろうね、申し分ない現実だ。見渡すかぎりの無だ。どうりで逆さまな感じがつきまとっていると思ったんだ。でも、とにかく進んでみないことには話にならないってことさ。それとも終わりからはじめるほうがいいか? そうだな、えっと、ケツのほうから見えるものっと。ほらあそこ、ガウンをはだけるように、見えるだろ、色のない恒星がカーテンの隙間から露出しようとしている。名づけるのをためらうほどの淫猥さでね。ヘリオスだったか、アポロンだったか、アマテラスでもなんでもいいのだが、そんな名前がついたとたんに、それはおとなしく無色の球体のままであることをやめてしまう。だから当面のあいだ、われわれはそいつに抽象的な呼称を与えることで満足しなければならないとも言える。そうだな、カタチってのはどうだろう、朝のカタチ、みなぎるカタチ、カタチ出ずる国から無形の他国へ。ずいぶんあやふやでいいんじゃないかな。まるいのか四角なのか星型なのかもわからんしね。これは疑いようもなく恒星の一種だ。コップ座のγ[ガンマ]星ではなかろうか。ひょっとすると白色矮星かもしれんぞ、どことなくヘリウム臭くて……それにしちゃあ質量が石ころじみて見えるな……。なんでもいい、ひとつの事実をまず述べよ。わかった、答えは無だ。それが事実だ。満足してくれたかな? 直立不動にして並列不能なる事実。前開きのボクサーパンツのように露出的な事実。ところで、ないものを列挙するのとあるものを羅列していくのではどちらがお好みかな? そりゃ、あるものはいくらでもある。ないものはまったくない。いや、いくらでもあるのかな? ないものという項目のなかにはあるもの以上のものごとがあるのだろうか。いや、ないのだ。いずれにせよ、こうして地道に進んでいくしかなさそうだ。前口上はこのくらいにして、気分転換になるといいんだけれど、とっておきの、百年前の、百年よりもう少し前の、私がまだ便座と貼りつかずにいたころの話でもしてみようじゃないか。私が溺れたときの話でね、あれはほかでもないとある港湾の、海岸の、大陸棚のその先の空虚の底なし海のそのまた先にある海底山脈の海溝でバウンドしてからたどり着いた真っ平らな空間、そう、深海の平野とも呼ぶべきそれは幻想的な場所だった。いいかい、どうして溺れたとか、そもそもとか、それは言いっこなしなんだ、なぜは嫌いだよ。正確にいえば溺れたわけでもない。潜っていたのさ。深く深く、果てしなく深い場所に行きたかっただけだ。そこはこんな場所だった。まったくの無音、よりはほんの少し、ざわつきが用意された空間だった。はっきりとはわからないが、何十キロも遠くから、見知らぬ大きな生き物の、私を呼んでいる声が耳に届くような気がした。それはまだ文法を持たず、意味も持たない言葉だった。だけど、その声が私に向かって何かを伝えようとしているということだけはこちらに伝わってくる、そういう種類の声なんだ。その声を聴きながら、長いこと私はその場所にじっとしていた。数時間かもしれないし、数十年かもしれない。まだ計算式の外側にあって、ゾエアとかプラヌラとかメガロパとか呼ばれるやつらみたいに漂っている幼生の時間とともにいたのだ。あるとき、私がいつものように海の底でじっとしていると、急に潮の流れが変わり、嵐がやってくる前みたいな妙にしんとした冷たい空気に包まれた。空気ってのはもちろん比喩だ。だが嵐というのは海中にもあるのさ。プランクトンの雨が変則的潮流に乗って荒れ狂い、電気クラゲに絡みついて稲妻が走り散る。気がつくと、向こうのほうから優に十メートルを超える体長の、いびつな深海魚の形をした完璧な無音が、尾鰭を振るってゆっくりこちらへやってくるのが見えたんだ。シンカイギョと名づけられているからには、確かに音の質感や響きを持っているはずなのに、それ自体は無音であるとはどいうことだろう。だがそれは、自身が永遠に音を失った存在であることを、厳正なまでに周囲に示している。ノックをしても音沙汰なし、おまけに表札もなし。この場所では、名前など、わけなく消滅してしまう。きみだとか、わたしだとか、リュウグウノツカイだとか、三百年前の沈没船だとか、深くて暗い海の底では、みな平等に無名であるのだ。私にはわかっていた。それまではわからなかったが、やつがやってきたとき、いつかこんな日が来るということが、あらかじめ自分にはわかっていたのだと思った。そんな感じに思うことってないかい? とにかく、生きているかぎり、いつの日かそいつと遭遇することは、暗黒の海底における揺るぎがたい掟なのだ。やつは私のすぐ近くまでやってきた。できるだけ体を低くして、通り過ぎていくのをじっと待つしかなかった。顎がはずれるのではないかと心配になるほど大きく開かれた、その魚の口が丸飲みにしようとしているものが自分の肉体にほかならないと察知して、すかさず身を縮め、地面に這いつくばろうと力を入れるが身体は沈んでくれない。底はすぐそこにあるのに、伸ばして藻掻いた腕が、余計に浮力を大きく作りだして遠ざかってしまう。脇腹を舐める水の密度が煩わしい。無音はすぐそこにまで迫ってきていて、いつもなら無数の玉になって流れ弾ける呼吸音さえも、闇に浮かぶ数キロ先の薄灯りのようにぼやけた存在感で、自分が息をしているのかわからなくなるんだ。せめて微かな脈拍の音にでも耳をすまそうと、両手で耳を塞いでみるが、やっぱり何も聞こえない。塞いだと思ったのは耳ではなく、頭部を覆う潜水ヘルメットの硬い表面なのに、手はそのことに気がつかない。私には血液が流れていないのだろうかと思ったら、急に血の気が引いてきて、頭がぼうっとしてしまってね。静かになってはだめだ。音を立てなくては! パニックに陥りながらも私は考えていた。私を長いこと呼びつづけていたものの正体はこいつだったのだ。あれは、あの呼び声はほんとうの声ではなかった。声なき声、無音の声、すべてを奪い、滅ぼしてしまう虚無の声だったのだ。普段、用のないときには、頭の中でまとわりつくように繰り返し鳴り響いている流行歌のフレーズも、ほんとうに必要なときにかぎってちっとも思い浮かばないのはどうしてだろう。あれはどんな歌だったっけ……途切れとぎれの女の声……少しかすれた、愛の不信が泡ぶくに変わってちぎれていって……。情感だけが伝染するのに、肝心の音の連なりはいつまでたっても不確かなままだ。悪夢から抜け出そうとして、何度もつかみ損ねる救いのロープのように、歌の切れはしを必死に手繰り寄せる。……歌え。レギュレーターをはずし、夢の中で溺れる前に、声を出すのだ。さあ、歌え。歌は私を導いてくれる。暗闇の中から、温度のない世界から、私を引き上げて、大空の高みへ、太陽の近くへと導いてくれる。鳥のように。それが歌というもののもたらす作用なのだ。しかし私にはそのとき、どんな歌も聞こえちゃいなかった。こんなろくでもない海の底なんかに潜ろうとしたのが運の尽きだったのだと思った。潜る前の私は、今ごろどこかでぴんぴんしているに違いない。過去の私が未来の私を裏切ったのだ。それで溺れたのさ。鳥のように。きみには歌えるかな? 聴かせてくれないか、きみの歌を。セイレーンの美声とやらを。ゴホンッ。以来私は海というところに近づいてはいない。ゴホンッ。海というか、海を映しだしうる領域、映しだしうる領域というか波が迫り砂を時間ごと削りとって引き返していく反復運動の只中、あの緩やかな堕落的なカーブを描く砂浜のようなスクリーンが、でんと偉そうに構えて自意識過剰なまでに人々の視線に我が身をさらしているあの映画館とやらに、私を海の藻屑として廃棄処理する場所にだね、正確には。なるべく正確にものごとを伝えようと試みていることくらい、少しは伝わってくれているといいな、道ばたの野糞に生えたチョロっとした毛髪くらいにはね。つまり、私が溺れたのは、潜る前の私が見ていた映画のスクリーンの中、それも何も映し出していないスクリーンの中でのできごとだったってわけだ。ああそうだ、その私を溺れさせた海を映写しそこなっている映画館から私は外の虚像の世界へ出たんたが、その出たところはまだこの今いる場所ではなかった。いいかい、私はとても重要な話をしているんだ。外出、の話なんだよ、まだ気づかないかい? 溺れるっていうのはつまり、そうだな、生れる、ってことと同義だろうな、逆さま的には。われわれはかの母なる一本道を通り抜けたのち世界に溺れるんだから。きみはほんとうに私が海で溺れでもしたみたいな無表情で私の話を聞いていたようだけど、私は、こう言ってよければ、さっきもすでに言ったように、外出した、あるいは排出された話をしているわけだ、結局のところはね。外へひり出されると私は湿っている自分の身体に光を受け、光を受けて自分の身体が湿っていることに気がついた。鳥のようにだ。こいつは羽を乾かさなきゃならん、どうにかこうにかよちよち歩きで、ところどころ、エクリン腺から塩やマグネシウム、ミネラル、亜鉛、尿素にカリウム、地面にぽたぽた電解質、ニッケルに、鉄、鉛、あとは少しの血液を、あぁ、やっぱり血液流れていたんだな、そういった生きている証を小便みたいに垂らしながら、ろくでもなさそうな光のほうへ進んでいったってわけさ。案の定、光のある場所はろくでもないところだった。ほら、頭上ではまたもや星類のレプトケファルスがガウンの前をはだけて輝いている! そのせいでなんだか頭がぼうっとしてしまってね、下半身の力も抜けて多少の本物の小便を漏らしちまった。急に光を浴びるとそういうことが起こるんだよ。目がチカチカして舌が痺れる、くちばしが乾いてひび割れそうだ。まずそこで見つけたのはいくつかの数字だった。9とか、12とか、そのほかの組み合わせ、そんなだったと思うけれど、あいにく失念してしまっているのかな、それが何を表しているのかも覚えていないんだよ、覚えていないんじゃない、はじめから知らないだけっていうのが正直なところでね、時刻かもしれないし、バス乗り場の案内だったかもしれない、だけどひとつだけ言えるのは、そのときまだ私は百という数を見たこともなければ聞いたこともなかったってことなんだ、それなのに。それなのに、いいかい、これは話すたびに泣けてくるんだが、私はどうやら何も映さない映画館の中に百年近くいたらしい、いやひょっとするもしないも、百年どころではないかしれないんだけどな、それよりたくさんの年月は、ひとつの単位以上のことだから、触れないようにしておこう、無関心がいちばんだ。トンネルを通り抜けるみたいに、産道を通り抜けるみたいに、通り抜けてからずいぶんたって見返すと、どう見ても感心するほどのしろものじゃあないんだから。問題はひとつだけ、1か0か、世界は0から始まったのか、1から始まったのか、これは引っ掛け問題かもしれないぞ、2から始まったってこともあるし、始まっちゃいないって可能性も、あるにはある。無限であり無である。無料であり、無辺であり、蕪でもあり、無用でもある。何も映さない映画館から外出し、しばらく歩くと、日曜の午後かそれ以外の日時だというのに、ほとんど買い物客のいないショッピングモールの片隅で、私は唐突に話しかけられる、まるで自分が話者ではなくて、聞き手になったかのように。中学生くらいの女の子で、黒い髪が異様に長い。彼女の腰のあたりまで届いて揺れる毛先――この毛先は何年前からこんなふうに揺れているのだろう――に思わず見入っていると、明日切るつもりなんですと、はにかんだように言う。スケートの刃が通ったあとの氷の溝みたいに冷たく潤った真っ直ぐな声にはっとして、私は百年前の私から三十年前の私を経て現在の私に一瞬で引き戻される。違うな、二百年前から百年前の私にだ。自分はもう子どもではない、海辺の鳥ではない、シンカイギョではない。当たり前のことだ。トリカゴ、いかがですかと彼女が言う。もしよかったら、見るだけでも、無料なんで。少女の背後は、汚れた薄桃色の建物の陰になっていて、地べたにひろげられたカラフルな縞模様のレジャーシートの上に、いくつかの鳥かごが並べて置かれている。ステンレスでできたよくあるタイプの鳥かごで、アブダビのモスクのてっぺん部分みたいな、紡錘形を半分にちょん切った形をしている。イタリア製なんです。お行儀がいいんですよ。ショートケーキに載った生クリームみたいに。アポロみたいに。ソフトクリームみたいに。モンブランみたいに。おちんぽみたいに。そうですか、へえ、なかなかそれなりのこれはまたなんと言いますか、鳥かごなんですねえ。ええ、行儀のいいトリカゴ、お嫌いですか? いえいえ、私も鳥かごについては一目置いてましてね、ひとついい物がないかと探し回っていたところなんですよ。あら、ちょうどよかったんですのね、このくらいの立派なタイプでしたら、あなたを閉じこめておくのにちょうどいいみたい、わたし買っちゃおうかしら。あれ、これはあなたの鳥かごではなかったんですか。ふふふ、わたしがトリカゴ売りに見えて? わたしはあなたを捕まえてこの中に入れるの、そしてあなたを売るのよ、わたしはカラス売りだもの、さあ入って、この中へ、いい子にしていい聞き手になっていい当事者になってちょうだいね、小生意気なカラスさん。いつのまにか、それまで内側だった場所が外側と化し、外側だと思っていた区域が内側になってしまう。聞き手が話し手になり、売り手は買い手に替わる。毎度のことだ。私が今生きていると信じているこの世界は、実際のところ、生きていることの裏面にあるのかもしれんよね。私は女の子のぶら下げた鳥かごの内側の止まり木の上にちょこんと腰掛けて、女の子の歩くリズムに合わせて、贋物の何かのように前後に揺られていたものだ。贋物の何か。何かはわからんよ、でも贋物だってことだけははっきりしている。ううん、はっきりなんて言っちゃいけないな、何もはっきりきっぱり噛めばぼりぼりするものなんかありゃしないんだ、現実は煎餅じゃないんだから。おおよその範囲での推定だ。この存在は贋物だということだよ、だけどね、それがなんだっていうんだ、誰かが贋物の何かみたいだからって、私になんの関係があるんだろう、たとえ私がその誰かだとしてもね、大切なのはそんなことじゃない、風さ、大切なのは風を感じていたってことさ、私は彼女の歩くリズムに合わせて風を感じていたんだ、鳥のように、こんなに素晴らしいことってあるかい? 風だよ、爽快に吹き抜けていく風、巻き上げていく風、叩きつけるような風、包みこむような風、え、そうさ、私は小生意気なおちびのカラスだった、だから余計に風を感じたのさ、羽と羽の間に、すうすうするくらいに、どこまでも飛んでいけそうな、素晴らしいやつを。それがすべてだった。少なくとも、そのときには、それがすべてだと思っていた、こうして人生は風の合間を通り抜けるように進んでいくのだと、私は満ち足りた気持ちになっていた。いつまでも海底でくよくよしていないで、早く出てくればよかったんだ。日曜の午後、あるいはそれ以外の日時であるにもかかわらず、つまりありふれた一日のありふれた時間帯ってことだけど、人々はほとんどおらず、そういえば映画の観客もいなかったような気がする。世の中には、上映していない映画を楽しむことができるタイプの人間もいるんだぞ、これは新しいタイプじゃない、とにかくそんな連中がいたのかもしれないが、人の気配も肉体も視線も、その呼吸や心臓の音、あくびやくだらないおしゃべり、罵る声や間抜けなスローガンやら阿鼻叫喚、鼻くそ混じりの鼻歌にいたるまで、なにもかもが透明になって見えもせず聞こえもしなかったのかもしれないな。透明? それはいったいどういうことだろう、とても素晴らしいことでもあると同時に、なんだかインチキくさいことでもあるんじゃないだろうかね、今の私の境遇がそうであるように、すべてはそこから始まったのさ、いや、終わったのか? とにかく透明だ、うん、何もかも、透明の世界なんだ。カラスの私はまだまともにしゃべれやしなかった。だから少女との言葉のやりとりだって妄想にすぎない。心の中でおしゃべりしたのさ。誰だってそうするように。誰もそうしないように。Aであるように。Bでないように。まるでしらみ潰しのしらみみたいなやり方だな。生クリームのように、野苺のように、男性器のように。だが私はちっとも怯みやしない、出鱈目をやっているように見せてはいるが、ものすごく抑制しているわけだ、ひとつひとつの、なんというか、分断、分節、ようするに禁欲的な個別化を図っているのさ、世界のありようをだね、今はおまるの上で、かつては鳥かごの内側でだ。その鳥かごは少女の手にぶら下がり、ショッピングモールじゅうを移動しつづけていた。6から8へ、14から31へ。鳥かごは折れ線グラフのように縦軸と横軸の平原を進んでいった。鳥かごは風を感じ、草のうねりを感じ、少女の少しほてった熱を感じた。鳥かごは彼女の手を僅かずつ冷やしていった。鳥かごは彼女と一体化し、彼女の足を使って歩行し、彼女の耳を使って音波を受けていた。鳥かごが歩けば歩いたぶんだけ、横軸は遠くまで延びていった。鳥かごが存在すれば存在するほど、縦軸はどこまでも生き延びていった。そうして鳥かごのグラフがショッピングモールをはみ出そうとしては失敗しつづけ、ショッピングモールの外縁がついには都市の果てまで飲みこんだころ、鳥かごはあることに気がついた。鳥かごは迷子になったのでは? ひいてはおちびの生意気カラスも迷子になったのでは? ひいてはカラス売りの少女も迷子になったのでは? たしかにそうかもしれない。だが、何に対して迷子になったのか。そこらじゅうのショッピングモールっぽさに対してなのか、どこかにいるはずの身内の鳥かごに対してなのか、少女に対して鳥かごが迷子になったのか、鳥かごに対して少女が迷子になったのか、迷子に対して少女が鳥かごになったのか、カラスに対して迷子がショッピングモールになったのか、いずれの場合も可、可ぁ可ぁ、と悲しげな鳴き声を放っていると、どこからともなく犬のおまわりさんがやってきて、こう質問されたのだ。きみ、その手に持っているものはなんですか? ちょっと見せてもらってもいいかな。それとも、見せるわけにはいかない何かがその中に入っているのかな? どれ、ひとつ見せていただけませんか、その鳥かごの中のカラスの中に隠してあるものを。少女の耳を通じて聞こえるその阿呆のようなしゃべり声にいらいらして、ますます可ぁ、可ぁ、可ぁぁあー! と喚き立てていたところ、鳥かごは少女から分離され、鳥かごの今まで少女の可憐な指先が優しくつかんでいた部分を犬のおまわりさんが息荒く乱暴に口にくわえて、少女と鳥かごは永久に引き離されてしまったかのように見えたが、永久にという表現は誇張だという気がする。そのとき、どこからともなく、もしかしたらずっと近くにいたのかもしれないが、すげえチャラい感じの男の声が聞こえてきて、こんなとこにいたのかよ、へー、なにこの犬、まあまあかわいーじゃん、やばくね、これほんもののカラスかな、ウケる、なんで犬がくわえてんの、つう可ぁ、あっちにゴディバがあってさ、なんかうまそうなの売ってっから行こうぜ、ぜじゃねーよ、誰だおまえ、目んたまつついて肛門から水晶体流しこんだろか、鹿馬が! と言って少女のではないカラスの目で見ていると、男は少女の腰、と尻の曖昧な中間地帯に手をやって、その性的な嫌悪感を催させる蟹のような指を強権発動的に這わせ、撫で回しながら歩み去っていき、鳥かごは少女の小さな丸いおいしそうなフルーツ入りプディングを彷彿とさせる尻から目と心の中のベロが離せなかったのだが、こういった光景は、以来私の記憶、というより人生そのものに焼きついており、原風景と化し、さまざまな場所で、さまざまなシーンで何度も繰り返され、多い日には四度も五度も実際に駅や街のいたるところで見かけるし、見かけなくとも記憶のスクリーンにしつこく映写されつづけて私を苦しめているのであった。私は自分の左手で、自分の左尻を撫でてみた。ついで右手を回し、右側の尻を触ってみた。もう一度、左手を伸ばして左の尻をひと回り撫で、最後に尻をぺしっと叩いた。それから右の手を右サイドから右の尻へ回すと、つるっと撫でてから尻の表面をばしっと打擲した。その動作を繰り返した。左からぺしっ、右からばしっ、左からぺしぺしっ、右からばしばしっ。しだいに私は高揚し、尻を制圧すべく腰をひねっては一心不乱に腕を振って尻を殴打しつづけた。気がつくと、鳥かごの周りにはカラスの群れが蝟集し、それぞれ首をひねったり、短くリズミカルに可ぁ阿ぁと発声したりしながら私のほうを眺めていた。ここには声があった。私は恥ずかしさを覚え、その場を取り繕おうとして、これはけっして恥ずかしいことではないのですよという意味にとれそうなことをしたいという欲求にかられ、かられるあまり本質を見失い、思わず、人間です、と言ってしまったが、なぜそんなことを言ったのかは自分でもわからなかった。私は人間です。これは、もっと恥ずかしいことではないのか? 人間であるということは? 自分は人間であってカラスではないのだからこのような複雑化された行動様式を持っており、これはカラスのきみたちには理解しえないのだが、人間界では普通に、まあだいたいの人がやっていることで、べつに私は淫欲や嫉妬にかられるあまり気が狂ったりしたわけではないのだということを表すがために、私は人間ですと言ったまでのことだ。しかし私はそこで、自分がカラスでも鳥かごでもなく人間であるというあまりに強烈な事実に打ちのめされることになった。咄嗟の一言が間違っていた。カラスのほうがまだ、くだらんことで気が狂ったりしないだろうに。それに尻打ち踊りは求愛のポーズということでうまく片付けられる。くそっ。私というカラスは何をやっても裏目に出てしまう。まるでサイコロの一と六のように、人間である私はカラスである私と引き裂かれているんだね、べつの言い方をすれば、括弧でくくって、私は人間とカラスを足し算したものに引き裂かれを掛け算した存在だということだね。そして私はカラスと人間の引き裂かれという状態を引き受けるしかなかった。そういう意味でも私は自分のことを私としか言いようがない、ということをわかってもらえるんじゃないかな。括弧の中にはカラスだの人間だの、彼だの彼女だの、あいつらだのロバだのカボチャやリンドウ、そら豆にギャングたち、石ころ、全体主義者、そしておそらくはきみだって含まれるだろうね、差し支えなければ。それらをひっくるめた私ってことさ。習ったと思うけど。気がつくと私は気がついてばかりで話が進んでいくのだが、ショッピングモールの迷子センターなのか忘れ物センターなのか、とにかく置いてけぼりをくらったものたちが一緒に集められている場所に連れてこられたんだ。そこには鼻水垂らして泣きわめいているガキが、タイトスカートにジャケットを着て襟元には青いスカーフを結んだお姉さんにしゃっくりまじりのお名前を伝えようと試みていたり、少々大人ぶった小さな女の子が、自分は迷子になったわけではなく、大人たちのほうが勝手な行動をして勝手に迷子になったのだ、したがって自分の今いるこの空間以外が世界迷子センターとでも称すべき場所であり、自分の移動に従って世界は迷子をそのつど可視化し消費していくのであるというような世界線のことを、本来コスプレではないのにある意味逆にコスプレ風に制服というものを身につけさせられているお姉さんたちに説得しようとしていたりした。ときどき財布やスマートフォンや買い物袋に入った何かが届けられ、それぞれ落とし場所や拾われた時間を記されたタグを結んでもらい、私の隣に丁寧に並べられていった。私の鳥かごに付けられたタグには、ゴディバ・三時・名無し、と書かれていた。そんな鳥かごを私は鳥かごの外側から眺めていた。つまり私は他人の視線だった。私は鳥かごの内側にいることをやめたのだ。それは意志の問題ではない。端的に私は何者か以外の何者かだからだ。私は人間の子どもであるとはどういうことであるのか必死に考えていた。同時に、カラスではないということがどういうことなのか考えていた。頭と尻がひっくり返りそうなくらい一所懸命考えた結果、そもそもはじめから私はカラスではなかったということに思い至った。人間の子どもですらないということにも思い至った。しからば私は誰だったのか? ときどきね、私はこんなふうに考えることがあるんだ。私はほんとうは存在していないんじゃないかって。きみはどう思うかね、きみの目の前に、はたして私は存在しているんだろうか。こんなに明晰であるというのに! だからこそかもしれない、私はどこにいても、自分が不在であると、その場に、その場面に木象嵌の工芸品のように馴染んだ存在者ではなく、存在仲間から仲間はずれにされた非存在であると感じてきた。今もだ。存在していないということ自体が苦痛なんじゃない。なんというか、ほんとうは存在したいのに、存在しきれていないような気がするんだ。虚数のように。私はここにいるのに、ひとりぼっちで宇宙の果てをさまよっているような気がする、そんなしんみりしたこの空気感、どうしてくれるんだ、これは私の望んだことではない、私の書いた一幕ではない、私はいつだって切実さ、だけどきみの前ではそんな姿を見せるわけにいかない、誰かが迷子の私を迎えに来てくれることを、今でもずっと待ちつづけているのかもしれないね、だけどひとまず話のつづきをさせてくれないか、そういうもんだって気がするよ、お話っていうのはさ、孤独に誰かを待ち焦がれているやつがするものだし、お話自身も誰かに聞かれたがっているものなんだ、もしかするとね。私は待ちつづけた。誰かが迎えにくるかもしれないなんて、確信があったわけじゃない。ここへ連れてこられる前に、私が誰のもとにいたのか、私の記憶の中でははっきりしていなかったからだ。私はそこに並べられたものを順番に見ていった。二つ折りのくたびれたありがちな革財布――北B男子トイレ・二時半、どこかのお土産屋で買ったような丸くて透明な石ころのついたありがちなキーホルダーにくくられたありがちな車の鍵――噴水広場ベンチ・四時、スマートフォンがひとつ、ありがちにふたつ、ありがちなみっつ、あってはならないよっつ……、三歳くらいの男の子――けいと、同じくらいの女の子――りんか、大小の紙袋がひとつ、仲良くふたつ、くしゃくしゃにみっつ、しゃきんとよっつ、そうおもいつつ、なんだかなごむっつ、多すぎて名札を見る気もしない、どれもこれも、いかにもショッピングモールの忘れ物センターに届けられそうなつまらんしろものだ、それから中身がからっぽのステンレス製の鳥かご――ゴディバ・三時、存在することが許されるのなら、私――場所不明・名無し。突然あたりが騒がしくなった。といっても、それほどの騒ぎじゃない。家族が、迷子のひとりを迎えに来ただけのことだ。母親と、父親、何人かの兄妹。えっと、ほら、そこのきみ、お迎えが来たよ、よかったね、これでもうひとりぼっちじゃない、もう泣かなくたっていいんだよ、安心しなさい、さあ家へ帰るんだ、そう、きみの家族と一緒にね、もう誰もきみのことを置き去りになんかしやしないから、さ、お母さんそうでしょう、約束してあげてくださいね、この子に、もう置き去りになんかしないからって。私はてっきり向こう側にいた男の子が呼ばれたのだと思っていた。ところが、係員は私のほうを指しながら、母親に向かってしきにり話しかけているようだった。それで私はこう思った。迷子、それは私のことなのだ、私はまるで誰かが迷子になったかのようにここに存在し、家族はまるで迷子になったひとりの弟か妹か、兄か姉か、そういう家族の一員を、家族という悪だくみの一味を連れに来たかのようにここへやってきた。それが迷子という名の取引だ。そうであるかのように誰かが振る舞えば、ものごとはそうであるかのように進行する。そうではありませんよと、誰も異を唱えないのであれば、それが正しかろうと誤っていようと、それはそれでしかなくなってしまうのだ。そんなわけで私は家族に引き取られた、というか、もともとのと思われる家族のもとへ帰ることになった。あの鳥かごはどうなっちゃうんだろう、と私は思った。他人とは思えない、私を乗せてここまで運んできてくれたあの鳥かごは。あそこにずっと残されたままなのだろうか。私を迎えに来たように誰かがあの鳥かごを連れて帰ってくれるのだろうか。ああ、今でも、あのとき連れて行かれたのがほんとうは鳥かごのほうで、自分は置き去りにされたままなんじゃないかって考えることがあるよ。そっちのほうが、なんとなくしっくりくるからさ。そうじゃない保証はないぞ。鳥かごが延々しゃべっているなんてことも、あいつのワールドではありそうなことだからな、ほらあの迷子センターにいた女の子な。駐車場に向かって歩いていくまでのあいだ、なぜだかわからないが、私は鳥かごのことと、海の底の巨大な無音のことだけを考えていた。私ではない何者かが、私の周囲で歌を歌っている。私が音のない世界へ飲み込まれてしまわないように、私以外の人間が、低く落ち着いた息づかいで、途切れることのない優しい歌を歌っているのが聞こえる。その歌声はとても静かだ。だけど力強く、私にひとつの合図を送りつづけている。おまえは、歌を歌う者の音響効果として存在しているのだと。見知らぬ家族については、不思議とそのとき何も考えなかった。この人たちはどこの誰なんだろうなんてことは、ちっとも考えなかった。なぜこの人たちは私を連れて行くのだろう、なんてしばらく歩いているうちに、どうやら私の歩き方は普通とは変わっているということに気がついた。誰もが私のことを、片足が欠けた人間もしくは足が三本ある人間あるいは後ろ向きに歩いている人間を見るような目で見るんだよな。実際には片方がちょっとばかり短いような感じがして歩きにくくてね、向きはたしかに後ろ向きに歩いていたのさ、それが後ろ向きだったなんて変な目で見られるまで気づかなかったんだけど。人生からひそかに後ずさりするみたいに私は歩いていた。いくらか傾いて。それが基本的態度だ。いつも片側だけ地面を踏みはずしているんだ。だからときどき手を使って地球を引っ掻く。当時から逆さまになりかけていたのかもしれないね。いやな目つきが飛んでくる。誰かを見るということは、同時に見られることでもあるだろう、うまく説明できないな、そいつが見返してきたらというんじゃなくて、一度見てしまえば、見られている側に身投げするようにして、あれ、投影するようにしてかな、違うぞ、自己を投棄するようにして、見られるということはどういうことかを先取りしながら、われわれは誰かを見てるはずだろう、それが本来であれば見ることの核心だ。けれどあいつらには前を向いて二足歩行をすることへの懐疑心もなければ、両足で靴を履くことに対する羞恥心もない。自分のことがちっとも見えちゃいない。まあ見る必要もないからな。視線の行き止まり。とにかく私は逆さまのなりそこないとして家族のあとから歩いていった。踵ぶんの高さが減っただけ、私は傾きを得た。おかげでいままで鳥かごの中からは見えなかったものが見えるようになった。べッセル楕円体にはりめぐらされた集積回路、座標系の格子に眠れる億万の繭に、ひび割れた子午線から滲み出る粉乳の雨。わかるかな、小さな引き算は、大いなる掛け算への知られざる、密やかな、控えめな、戸惑いがちな、括弧閉じの、間合いを見計らった、様子見の、利き手とは逆の手による、どことなく大胆不敵さを予感させる、背中から首筋へ這い上る、背徳的な、前科持ちの、見境なく行使される自家撞着に遊んだ前戯であるともいえるのだ。おかげで視力だけでなく、いろんな感覚が研ぎ澄まされたんだ。それから私は、その家族と暮らすことになった。いやだとか嬉しいとか、そういうことではなく、とにかく誰かとともに生きていくこと、それが、どうやら家族という名のアンサンブルだ。冗談みたいなんだが、実際のところ、ほとんどのできごとは冗談みたいなもんさ。ケースバイケースってことだ。きみにはきみの境遇がある。私には私のが。ときどきそんなことすらわきまえていないやつがやってきてね、きみとは違うさ、もっとナイーブなやつだ、ひょっこり私がおまるから生えたみたいに座っているもんだから、それも逆さまにね、度肝を抜かれて尻もちをついたりして、化け物でも見たような顔をして退散していくんだよ。見てはいけないものを見ちまったって顔さ、あんぐり口を開けて、目をぱちくりさせて、声にならない声を発してね。それだから、私のほうはといえば、とてもお話をする隙なんて与えてもらえない。かれこれここに座りつづけてなんていうふうに切り出したとたんに、相手はもう姿を消してしまっているんだ。人には人の境遇があるんだってこと、わかっちゃいないんだよな。久しぶりだよ、こうして自分の話をたっぷりできるのは。だから感謝している。私はひな鳥のように巣の中で、括弧おまるの上で、身動きはとれないんだけど、どっちかといえばこっちのほうが親鳥で、きみのほうが外を飛び回っているひな鳥で、こっちが待ちに待った餌を受け取るのじゃなくて、ようやく来てくれた子どもに餌を受け渡すことができたって感じかな。きみがお話に飢えていたのだったらね。孫にお小遣いでもいいんだけどな。きみがひな鳥、よしよししてやりたいくらいだ。話を戻すよ。暮らしはじめたのはいいが、ひとつ問題があった。父も母も、私の兄妹も、私のことをなんと呼んだらいいのかわからなかったんだ。だって名前がなかったから。ゴディバは私の名前じゃないし、こいつには似合わないと思ったんだろうな、はじめ彼らは私のことをちびと呼んでいた。べつに体が小さかったからとかそういうんじゃない、いわば愛称さ、おい、そこのちび、親しみと愛情を込めた呼びかけだ。なんで名前もないのに私を捜すことができたんだろう。あの、うちのちびを見かけませんでしたか? ここでうちのちびを預かってくれていませんかね? ああもしかして、あのおちびちゃんのことですか、ええ、ええ、こちらに、ほら、おとなしくしてたいへん賢い子だったんですよ、あんなふうにいろいろなものに興味を示しましてね、まるでパズル遊びをするみたいに、推理ごっこをするんです、この財布は二十歳くらいの学生が置き忘れたもので、なぜなら映画の学割の半券が二枚入っているからだとか、ええ、それはちょっとはお叱りしましたのよ、勝手に人のものを覗いてはいけないって、それからあの鳥かごは人が落としてしまったものじゃない、鳥の忘れ物だよなんて言って、それならいなくなった鳥を捜すほうが大事な仕事なんじゃないか、きっといなくなったのはカラスにちがいない、こんな立派な黒い羽が残されているもの、などなど、わたしどももこの子とお話ししていると思わず夢中になってしまって、これでお別れするのがさみしいくらいですわ、さようなら、お元気で、しっかりお母さんにひっついて歩くのよ、前を見てね、さようなら。こうして私は無事に、ちびとして、ちびのまま引きとられていったってわけだ。な、りんたとかけいことか、名前なんかなくったって事足りるのさ、どんな場面でも。名前なんていらない。人間は、名づけて名づけて名づけまくったあげく、名づけたものを簡単に捨てたり裏切ったりするんだからな、最後には名づけられるほうが疲弊しちまうって決まっているんだ。たとえばなんだろう、イルカ、とかかな。郊外の見覚えのない家で、私はちびとしての役割を演じていた。ときにはちびすけとしての。ときにはちびたろうとしての。朝、目が覚めると、私は階段を下りて居間へ行った。たいていそこでは母が朝食の支度をしていた。母は私におはようと言った。おはようというのは肺を満たしてくれる言葉だ。愛してるは骨盤に共鳴する。さようならは背中を引き裂く。ママうんち、というのはお腹が痛くなり脱糞する予兆だった。私は決まって朝食後にうんちをした。父はいつのまにか仕事に行ってしまい、私は兄妹と一緒に学校へ通い、母は子どもたちを送り出すと自分も急いで仕事へ向かうのだった。こうして家はからっぽになった。鳥かごみたいだ。生き物はいつも、どこかをからっぽにする。からっぽにならない場所があるとしたら、その場所は幸せだ。だけど私はからっぽになった場所のほうが好きだ。誰もいない家、誰もいない水泳プール、誰もいない教会、誰もいない地球。誰もいない場所は詩的で涼しげで、和やかだ。理想的な場所だ。ときおり何かの気配がする。でもその気配を感じる者はどこにもいない。誰かがついさっきまでそこにいた。今はいない。しーんと静まりかえっている。雨が降る。伽藍堂に反響する。蛍が飛ぶ。誰も見ていない。ちびは学校の点呼で飛ばされる。なぜなら名前がないからだ。だけど、はじめから名前を持たぬ者に、飛ばされるとか無視されるなんて感覚はない。植田と上野と植松と上村の間のどこかにいるみたいなもんだ。どこにいたって不思議じゃないし、同時にどんな隙間にも出現可能。はっ、と顔を出し、しゅっと引っ込める。捕まえられるなら捕まえてみろ。杉原。はっ。須藤。しゅっ。宮本。はっ。村田。しゅっ。ちびは誰にも捕まえられやしない。だけどいつでもそこにいる。今こうしてきみの前にいるようにな。それが特技なんだ。こういう返事の仕方があったっていいだろう、べつにやかましくしているわけでもないし、気がついたときにはすべては終わっているんだから。先生もほかの生徒たちも文句なしだ。数学においてはさらに文句なし。ちびは神出鬼没だからな、あらゆる多角形、多面体の辺と角のあいだにはっと現れ、しゅっと身を隠す。関数のポケットに入り込んで、しゅっ。数列の谷間から、はっ。因数分解の途中で、ほろろん。というようにかくれんぼが好き。隠れないでいることは嫌い。隠れることはそれほど悪いことじゃない。隠れたくなるだけの理由があるものさ。おい、ちびやい、隠れてばかりいないで出てこいよ、いるのはわかってるんだぞ、卑怯もの! ちびは机を蹴られる。ふでばこをぶちまけられる。次の日、ちびの体操着が引き裂かれる。何かを投げつけられる。引き出しの中にザリガニがいる。ザリガニははじめ一匹だったのが、その翌日には二匹になり、その翌日には四匹になった。その次は八匹、十六匹、三十二匹、以下略。ザリガニが増えれば増えるほど、ちびの居場所は減っていった。シャキンッ、はっ。シャキンッ、しゅっ。ザリガニのハサミとの攻防戦。ちびの唯一の武器は、父に買ってもらった道具箱の中に入っている青い持ち手の鋏だった。ザリガニの赤いハサミとちびの青い鋏。ザリガニは必ず、最初に自慢のハサミを振り上げる。すかさずちびはその隙を狙って、自分の鋏をザリガニの腹に向かって突き上げる。紫色の飛沫が散ったと思ったら、どろどろに溶けた水銀みたいな内臓があたり一面に降り注ぐ。その光景に興奮して、さらに胴体を赤くしたザリガニの群れが、ちびの周囲を取り巻いて、大勢でハサミを振り上げて威嚇している。破滅の群像劇。水銀の雨を浴び、いくつものハサミの砲火をかわしながら、青い鋏はしだいに精気をみなぎらせ、自身が何をなすべきかを理解しつつあった。鋏は悪と戦うのではない。戦うのですらない。それは論理に基づいて仕事を成し遂げなければならない。鋏は、鋏の前に差し出されたものを、何も考えずにちょん切りさえすればよい。ザリガニどもはすっこんでろ! ちびは前の席に座った女の子の髪に鋏を入れる。髪は女の子のものであることをやめて、軽やかに空気のカーテンを滑り降りる。後方でざわつく気配がする。乱れの予感。乱。ちびは後ろを振り向くと、何かしゃべりたそうにしていた男の子の顎を力いっぱいおさえつつ、口をねじ開け、喉の奥へ引っ込んで逃げようとする薔薇色の舌を鋏で切り落とす。あのなあ、できれば静かに遂行したい。騒ぎ立てるな。ちびは教室内をすり足で移動して、壁際で恐怖に慄いている女の子に近寄る。隣の男の子が小さい声でやめろと言う。聞こえないな。落ち着くんだと誰かが言う。おまえらがな。みんな何を言っているんだろう。テレビドラマの見すぎじゃないか。ここは、ちびのいる場所はこんなに落ち着いていて静かなのに。まるで深海にいるみたいだ。何十キロも先から、あの怪物が呼んでいる。いつかおまえのもとに行くからな。鋏が女の子の水色のスカートをゆっくり縦に切り裂いていく。スカートの裾に沿って、幾筋かの深い切れ込みを入れていく。女の子のスカートは短冊みたいになって、七月の停滞前線にひらひらと涼しそうに震えている。聞こえるかい、この無音が。窓外では雲が世界に蓋をして蒸し暑そうだ。女の子の太ももを何かが伝って流れ落ちてくる。透明なその液体に鋏の刃を浸し、掬いとるようにして鋏の先端で女の子の太ももを撫で上げる。やめろという声がする。ちびの声じゃない。頼むから黙っていてくれ。今は静けさが必要なんだ。泣きじゃくる声。いらいらする。いいところなのに。透きとおって、輝いている、女の子、だらしのない女の子、冷たい刃がとろけてしまいそうだ。扉が開き、誰かが先生を連れて教室に入ってくる。何も言わない。ちびのほうへ目をやるが、ちびはそこにいない。血の海に男の子が倒れている。女の子の垂らした小便をべつの女の子が片付けている。ザリガニが数十匹ひっくり返っている。煮て食ったらうまそうだ。ちびとはつまり、そういう空気のことだった。実体があるわけじゃない。いや、あるにはあるんだろうけど、どうしようもない誰かの暴力的な虚しさみたいなものとして存在しているのだ。それが私の本質だ。どこかのあんなふうなどうしようもなく普通の家族の中に私はいるのだし、台所のマットの片隅だとか、錆びついた窓枠だとか、埃のたまった電灯の表面だとか、すり減ったダイニングチェアーの座面だとか、便座の知られざる裏面だとか、おまるのアヒルの尾っぽの曲線だとか、テレビのリモコンの取れかけた決定ボタンだとか、先っちょの折れ曲がった電源コードだとか、製氷室の匂いのついた冷気だとか、あっちにもこっちにも、ずっと前から私はそこらじゅうにいたのだよ。ただなんとなくではなく、予定調和的にだ。必死で出番を待っていた。王子様とお姫様が出演中も、舞台袖でちゃんと自分の番を待っていた。弾ける前のポップコーンみたいにな。そうやってずっとその場所に存在し、百年がたつと誰もいなくなってしまった。父親も母親も兄妹たちも、私だけ残してこの世から去ってしまった。もちろん、同じ家でみんな最後まで暮らしたわけじゃないさ。兄妹は大きくなると、家を出ていった。私は居間の端で破れた壁紙として家にいた。ときどき兄妹は家に帰ってきた。父は歳をとり、母も歳をとった。私は洗面所の湿気て軋む床に貼りついていた。私はつねに、誰かの虚しさのように存在した。どこへも行かず、洗い流されもせず、リフォームもされず。天井の染み、戸棚の奥で忘れられ色褪せてしまった昔の写真、誰にも飲まれることのなかった未開封のウイスキーボトル、室外機の唸り声。サニタリーボックスの中の暗闇。それが私の家族との暮らし方だった。ショッピングモールの迷子センターにいたときから、私はずっと用意されていたのだ。私は拾われ、棲みつき、やがてすべては私のわきを通り抜けていった。もう誰も私のことをちびだと呼ぶこともない。鋏を振り回すこともない。沈黙あるのみだ。練習の成果を発揮して。裁判長! 私はしゃべるべきなのか黙るべきなのか、それとも舌を噛みちぎるべきなのでしょうか? おい、きみに訊いているんだ、その減らず耳を傾けているそこのきみ! どこそこのきみ、もう私をひとりにしてくれたまえ、私は現在脱糞中だよ? それとも解脱しようとしてたんだっけ。電気は消さないで、静かに立ち去ってくださいな。ゆっくり、距離をとって。もう一歩、ほらまた一歩。そう、振り返らないで、その調子。扉を閉めて。聞き耳はたてないで。私はあらかじめ黙祷を捧げよう、自分のために。自分の声と連帯して。黙祷。浮遊しそう。暗がりを上昇中。噴射! 黙祷も途切れとぎれに。逆さまになって空中で頽廃。シャキンッ。しゅっ。ふたたび無音の巨大魚が私をとらえにやってくるだろう、そんな矢先だった。爆撃でもされたのかというほどの、耳をつんざく轟音が空から降ってきて、尖った鉄の塊が私の棲みついた家を破壊しはじめたんだ。驚く暇もないくらいのできごとだった。家の壁に穴が開き、屋根からぺしゃんこに叩き潰され、柱を木端微塵に噛み砕く音がどんなものか、想像してみてごらんよ。とても想像だけででっち上げられるような種類の音じゃないね。ほとんど無音に近いくらいの大爆音さ。私はすっかり我を忘れちまった。逃げ出そうなんて考えもつかないし、木魚を打ってお経を唱えようなんてもっと考えつかなかった。もうただそこにいることしかできなかったんだ。あるいは、もうただそこにいないことしかできなかったんだ。どちらにせよ同じことだがね。何十時間かして、破壊の交響曲が鳴りやんだとき、私は運よく砕かれずにすんだおまるとともに、トラックの荷台に積みこまれていた。極限まで粉砕され、片付けられ、それまでそこにあった構造物が跡形もなく失われたあと、かつてそこに棲みついていた虚しさや私のようなものはどこへ行くのだろう。それは上手に答えるのが難しい問題なんだが、ひとつ言えるのは、私はこうしてどこともない場所へやってきて、どうということもないかたちでここにいるということだ。貼りつく壁もないし、時刻を忘れた時計もない。ここ、とはどこだろうってたまに考えることがあるよ。そこ、とどんなふうに違うんだろう。私はここにいる。誰から見て、何に対して、ここなんだろう。もう一度言ってみよう。私はここにいる。信頼に足る言葉だろうか。私はここにいる。私でないはここではないにいない。ところで、きみもここにいるのかね? こことはどこだ。私はどこにいるんだ。私はどこにいないんだ。きみがここにいるということは、ここにいるのは私じゃないということなのかい? きみがいないということは、私は誰に向かってしゃべっているんだい? つくづく思うんだ、私とはすなわち、私以外の誰かのものである記憶なんだとね。そして「ここ」というのは「そこ」から想起した架空地点だ。その他の地点、その他の私、その他のその他。私が今ここにいるということは、数えられない数なのさ。誰かが根号を使った計算式で導き出してくれないと、どこにいるかわからない。まあいい。おなじみの形式に関する問題だ。私が今考えていることを話そうと思う。そうだな、たった今思いついたことさ。私はこの場所に座ってかれこれ百年になる。これは前にも言ったと思うから、わかっているよね。そして、これからも、ずっと同じようにここに座りつづけていく、何もなければだ。だけど、それって決まったことなのかな、ってちょっと思ったんだ。もしかしたら、そうじゃない可能性っていうのかな、そうじゃない運命っていうのかな、そういうのがあるんじゃないかって、これはほんの思いつきなんだけどね。あの家族ともう一度暮らせないかな、みんなどうしているだろう、土の中に埋められているとか、骨壺の中に閉じ込められているとか、とにかくどこか墓場と呼ばれるところで静かにしているに違いないのだから、骨を掘り起こしてきて組み立てればいい。うまく人間のかたちになるとは限らないさ、頭と尻が逆さまになったり、半魚人みたいなしろものになったりするかもしれない、前のと同じ家族ですらなくなっているかもしれない。でもそれだっていいじゃないか、家族には変わりない。父と母と兄妹たちがいる。かつてのあの家はもうないかもしれない、というより確実にそれはないだろう、だけどそれがなんだっていうんだ、縦と横と奥行きを組み合わせていけばなんとかなるさ、得意だった幾何のかくれんぼだ、だまし絵になってたってかまいやしない、そのつど天井が畳になったり、ベッドが宙を飛んだりしているけれど、それなりの家だ、壁紙を鋏でカットして整える、庭の草木を鋏でカットして整える、学校へはあんまり行く気がしないのだけど、そうだな、なるべくでしゃばらずにすむように、校庭の鳥小屋に通うことにするさ、鳥かご出身だからね、居心地も悪くはないだろうし、言葉も少しは通じるんじゃないかって気もするし、そこにはチャボがいて、インコがいて、ハトがいて、ちびがいる、素敵な鳥小屋だよまったく、抜け落ちた羽がそこらじゅうを埋め尽くし、その上を糞尿が覆い尽くし、怒りが大地を焼き尽くす、早鐘が夜空に鳴り渡り、炎と黒煙のステンドグラスが天球座標系に彩りを添える中、ちびはステンレスの鳥かごに閉じ込められて運び出される、急げ、何もかもが燃え尽きる前に、こいつを届けるんだ、宛先は不明だけどな、そうして誰かの手から誰かの手へ渡り、リレー方式で、迅速に、密輸され、鳥かごはついにたどり着くのさ、髪をばっさり切った少女のもとへ、彼女の歌声が聞こえてくる、おちびのカラスはなんのいろ、ふかいうみのあけがたの、かなしいしらせのインクいろ、とどかぬおもいをはこぶため、たびたつはおとはかごのなか、さあおちびのカラスさん、ようく眠ってちょうだいね、このままこうして、永遠に目をつむって心を落ち着けるのよ、もうじき幕が下りるわ、百年前に開いた幕、いいえ、はじめから開いてなんかいやしなかった幕が、今下りようとしているの、完結編の完結よ、どこまでも深く下りつづけて、やがて沈黙がすべてを覆い、世界が無音の大きな口に飲み込まれても、どこまでも幕は深く下りつづけていく、ある日のある時間にそうだったように、そんなことはできやしないのに、もう二度と上がることがないように、それは足もとのほうから頭へ向かって下降しつづけ、少女は歌いつづける、聞こえない歌声で、何かに抵抗するように、何かを受け入れようとするように、今日が特別な日だなんて信じているやつの考えを否定するように、また明日幕を上げるために、幕よりも強く、同じことの繰り返し、またべつの百年が待っている、下がっていく幕のどちら側にいるのだろう、もう一度声が聞きたい、すっかり下りきる前にもう一度、もう百度、でもそんなふうに、時間を巻き戻すことにちょっとでも加担しようとしたなら、幕の開閉の自律運動に口出ししようとしたなら、誰かが今にツケを払うことになる。でも払うのは私じゃない、無のほうだ。

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