【ライズ・アンド・フォール、レイジ・アンド・グレイス】#4
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……数日前のこと。あの悍ましき<青い火>の永き一夜を明け、ニーズヘグ、サガサマのそれぞれと別れてから約2週間後のことであった。
大陸西海岸沿いに広がる……かつてはマリブと呼ばれていたらしい町にアズールは立ち寄った。メガロシティたるロサンゼルスとはそう遠くないこの町で、彼女はある人物の話を耳にした。離れに暮らし、時折日用品の買い出しにふらりと町に訪れるというその人物は、長い間、人を探しているらしかった。
特に理由もなく、彼女はその人物の元を訪ねることにした。町から離れた郊外にヒッソリと佇む小屋に、彼は一人で住んでいた。ショーン・ハウイット……白髪混じりの初老の男性だ。彼はまず、アズールと名乗った小さな来訪者に驚き、彼女の腰に吊るす不釣り合いで物騒な49マグナムを見やり、その奇妙なアトモスフィアに感じ入り……それから、出来うる限りの丁重なもてなしをするのだった。
「見ての通り、辺鄙で、なんにもないところだがね……」ランタンの仄かな明かりに照らされる室内。テーブルを挟んで二人は向かい合い、トウヒの椅子に座る。「電子戦争よりずっと前は、彩りある生活があったんだよ。これはその名残さ……」落ち着いた声でそう言いながらショーンが淹れた、ハイビスカス色のハーブティー。
その光景を、色を、香りを……アズールは鮮明に覚えている。
「ヒックは、僕の息子だ。甲斐性無しで妻に逃げられ、男手一つで必死に育て上げた……僕を反面教師にしたかな、立派な人間になってくれたよ。カラテだって僕よりずっと上だった」
卓上の写真立てに飾られた、日に焼け褪せた家族写真を指でなぞりながら彼は語った。指先についた埃をジッと眺めた後、眼鏡拭き用のクロスで写真を拭き上げながら、口を開く。
「気立てのいい奥さんも迎え入れてね、アメリカはもうずっと前からこんな有様だが、それでも得られる幸福はあるんだ……あったんだ」声音に諦念の意を深く落とし、ショーンは自嘲気味に微笑む。少女は哀れむでもなく、ただジッと空色の瞳で彼を見つめる。彼は困ったような顔をしながら、言葉を紡ぐ。
「……残念なことに、ここのルールはとてもシンプルで……ああ、煩わしい政治家の演説中継も寧ろ今は恋しいかな。あれはあれで、秩序を形作っていたんだ。もう、何もない。西部開拓時代に逆戻りだ、なんて言われもするが……それよりもっと前だと思うよ。混沌と、暴力が、秩序だ」
そこで息をつき、飾り気ない白磁のマグカップを口元にやった。アズールも同じようにマグカップを口元に運んだ。暖かく芳しい味わいが喉を潤す。眼を閉じ、深く香りを感じ取る……眼を開けると、微笑むショーンの姿があった。
「色々なことがあった。レイリン……ヒックの愛した彼女はこの世を去った。心労が無理を祟ったか、病に陥って……それから少しして、当時僕たちが暮らしていた小さな町に、ニンジャが現れた」
「ニンジャ」
初めてアズールが口を挟んだ。ショーンは頷いた。
「本当に恐ろしいことだった。毒々しく輝くニンジャは、情け容赦無く、残酷に……飽きるまで殺し、壊し、奪っていった。戯れに生かされた者もいた……僕とヒックもそうだ……本当に恐ろしいことだ。ニンジャ……ああ、ニンジャ!恐ろしい……」
両手で頭を抱え、慄く。落ち着き払っていた声に焦りと怯えが見えた。それから思い出したかのようにアズールを見やり、震えた。「君は……君は、やはり?」少女は頷いた。「そうか……そうだったか。アズール=サン……只者ではないと、そうは思っていた。ニンジャ……なのか。申し訳ない……」深呼吸した後、彼は落ち着きを取り戻し、頭を下げようとしたが、アズールがかぶりを振って止めさせた。やがてショーンはポツポツと語り始めた。
「ニンジャ……そのニンジャの名は……!」声を荒げそうになったショーンをアズールは引き止めようとした。無理に思い出す必要はない、そう言おうとしたが、彼はアズールを手で静止し、唸りながら言葉を絞り出した。「……マイティブロウ……!そうだ、マイティブロウと、そう名乗っていた……町の自警団は皆、殺された。ハリケーンの去った後のような災禍のなか、生き残った者達は僅かな荷物を伴って町を出た。僕もそうだった。しかしヒックは……ヒックは違った。正しい怒りを抱え、カラテを携え、息子は飛び出していった……混沌に振り回され、妻に先立たれ、ニンジャに襲われ……それできっと、ヒックは世界を呪っていたんだ」
初めのように諦念と自嘲に声音を染め、嘆息をまじえて物語る。
「飛び出していったっきり、ヒックは戻ってこなかった。僕は……僕は追わなかった。追えなかった……他の生き残りの人らと連れ立って、マリブに越してきた。きっとあのまま、息子は混沌の荒野で命を落としている……そう自分に言い聞かせてね。暫くして、『ナローズ・ピット』……荒くれ者の集いの頭領がニンジャに殺されたと風の噂に聞いた。もしやすれば、息子がニンジャになって正義を成したのかもしれないと、そういう淡い期待をしてみた。蓋を開けば……ああ、マイティブロウ……頭領を殺した彼が、そのまま野盗のリーダーに君臨した、と……」
アズールが白磁のマグカップを口元に運び、机に置こうとして、もう一度ハーブティーを飲んだ。白髪混じりの男は苦笑し、マグカップを呷った。
「あれきり僕は息子が、ヒックが……もしかすれば生きているかもと……そう思いこそすれ、行動には移せなかった。情けないことだが、精一杯の努力が、町を少し離れて暮らしてみることだけだった。探しに行こうとして、躊躇した結果さ」
「あなたの願いは、息子と再会すること?」淡々とした声が言葉を紡ぐ。「なら、私が探しにいく」
ショーンは眼を丸くして驚いた後、喜ぶような、悲しむような、そういった複雑な感情を顔に浮かべ、曖昧に頷いた。
「ありがとう……ありがとう……本当はわかっている。さっきも言った通り、きっともう、生きていないよ。けれどそれを確かめる勇気がないまま、後悔ばかり抱えているんだ……せめて遺品だけでも見つけられればと考えもしたが、それもきっと叶わない。ヒックはいつも、在りし日の想い出を収めたペンダントを身につけていた。飛び出していったあの時も、そうだった。きっと奪われるか、売り払われるかしているだろうね……」
彼はそこで口を閉じ、シャツのポケットから皺くちゃになった顔写真を取り出し、アズールに差し出す。彼女はそれを受け取った。精悍な顔つきの青年が写されている。裏にはヒック・ハウイットの名が記されていた。
アズールが顔写真を受け取ったのを認めると、ショーンは席を立った。そして部屋の奥へ向かい、小さな革袋を手に戻ってきた。彼はジャラジャラと金属の擦れる音を立てて揺れる革袋をアズールの前に置いた。彼女はそれを一瞥し、ショーンを見つめた。
「これは?」
「人探しの報酬……ということにしておいてくれ」
「なぜ。私はまだ、何もしていない」
「何も見つかりやしないからさ。遺骨も、遺品も。生きていた証なんて、残るわけがないんだよ。殺され、奪われ、消し去られるのがこの世界なんだ。それで、想い出だけが、きっと、確かなんだ……」
ショーンは柔らかい笑みを見せた。
「老いぼれの昔話に耳を傾けてくれたお礼、といってもいい。どうか受け取ってくれないか。それで諦めがつくんだ。僕は……僕は、息子の死を受け容れたいんだ!もし、もし君が……ヒックを探しに無法の荒野を彷徨い、戻ってこないなどということになれば、ああ!……だからどうか、これが、この愚かしく哀れな男の救いになると、そう思って、受け取ってはくれまいか……」
笑みを浮かべながら嗚咽を漏らし、縋り付くようにして金貨の詰まった革袋をアズールに託す。
少女は返答に窮し、ショーンを見つめ……残っているハーブティーを喉に流し込んでから革袋を手に取り、席を立って戸口へ向かった。白髪混じりの初老の男は、涙を流しながら感謝の言葉を述べ、彼女を見送った。その小さな背が見えなくなるまで、彼は祈るようにアズールを見送っていた。
……アズールは、ショーン・ハウイットを『良い人』だと感じた。『良い人』であるがために、苦悩し、苦しんできたであろうことを理解した。そして、その『良い人』が奪われ、虐げられ、理不尽に踏み躙られる様に、沸々と感情が昂るのを感じた。自分らしくない、とも思ったが……自分らしさの拠り所もわからないので、彼女はただ駆け出した。混沌と暴力が支配する無法の荒野へと、ただ駆けた。
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『中立非戦市街地』。荒廃した文明消失の地に転々と微かに根付くオアシスめいたエリア。商業施設、宿泊施設、インターネットなど……ランクは文明圏のそれに大きく劣るが、最低限の文化の真似事は可能だ。混沌と暴力の世界において未だ前時代的な金貨が出回る理由である。このエリアにおいて、運営側以外の外部からの干渉は許されない。私欲、争いごと、それらを運び込む者は無慈悲に断罪される。
運営側による裁定のルールは存在するが、それが明文化されることはない。定義があれば、その穴を読み解いて如何様にも理屈をねじ込まれ、形骸化の一途を辿ることになることを彼らは知っている。
その有り様は、ネオサイタマのオールドカブキチョの中立地帯『獄麗』に似ているようにも思える。しかし……実際、『中立非戦市街地』は『獄麗』とは比べるべくも無く歪で、欺瞞的だ。サイバネ治療を担う医療所の機械、宿泊施設で最低料金の一部に含まれるケータリング・サービスの整髪剤……その他諸々に、サブリミナル的に暗黒メガコーポの影が見え隠れしている。『獄麗』が中立地帯として成立しているのはネオサイタマという強力な地盤と、何よりも取り仕切るニンジャの度量の格によるところが大きい。USA崩壊後のアメリカ大陸において、真に弱者の拠り所たり得る場所など存在しないのだ。
中立非戦市街地・オックスナード区画。小規模のコミュニティが群体となって身を寄せ合い出来上がった準文化圏。砕けた月が照らす町の有り様は、穏やかに見える。広場に居座り、フジツボめいたドローン発射装置に覆われたコンテナを背負ったカンオケ・トレーラーと、その周りに展開する大量の武装バン、クズ肉が纏わりつく刺々しいモンスターバギーに眼を瞑ればだが。
血やオイル、土埃に塗れた『BESTIE』の旗は夜風に微かに揺れている。彼らは昼間の襲撃を逃げ延びていたのだ。舞台めいて開かれたトレーラーのコンテナにクローンヤクザが積荷を運び入れる。各車両にも同様に、クローンらしい一糸乱れぬ作業が滞りなく行われる。襲撃による損害は大きいが、全滅ではない。ならば問題無し。予定に遅れが生じているが、明日の朝には出立できるだろう。
「……」夜風に当たりながら、薄いブロンド髪の女……ブラックルインは、戦友アウェアネスの死を悼みながら、思索に耽っていた。その右腕は簡易的な工業用サイバネアームに応急置換されている。彼女は左手に持ったペンダントを砕けた月に翳す。
「ブラックルイン=サン?寝たんじゃあなかったか」
ワンダリングフリッパーが彼女に声をかけた。頭部の生体LAN端子から伸びる、ドレッドヘアーめいたLANケーブルは微かな光を伴いフヨフヨと宙を泳いでいる。ブラックルインは彼の方へと振り返った。
「……アズール=サンは無事だろうか」
「ンー、わからんね……しかしまぁ、実際最高のタイミングだったね彼女。もしかして、俺らに盗聴器か発信機付けてんのかも」
冗談めかして戯ける黒人ニンジャを女ニンジャはその鋭い目つきで睨みつける。
「彼女はそんなことをする人物ではない」
「わかってるっての!ジョークだよジョーク……そんでその、それ。何なんだ?渡されたんだろ」
LANケーブルがブラックルインの手元のペンダントを指差す。彼女は頷き、口を開いた。
「託された。あの悪趣味なバギーと一緒にな。おかげで私は格好をつけそびれ、生き延びてしまった」
「大口叩いといてな」ワンダリングフリッパーはバカにするように言ったが、その声音には安堵が多分に含まれている。
「……まったくだ」肩をすくめ、それから忙しなく作業に勤しむクローンヤクザを眺める。運搬作業はまだ掛かりそうだ。「このペンダントについて、事情を聞いておきたいところだが……ム?」
彼女は何かに気づき、手庇でそちらを見やった。人影が武装キャラバンの方に覚束ない足取りで向かっている。客か?ワンダリングフリッパーに視線を向ける。彼は静かに頷いた。『BESTIE』は商売の機会を見逃すことはない。相手が個人だろうと企業の雇われであろうと、それが買う者であれば売るのみである。営業時間の概念は彼らにはない。運搬作業の途中であろうが、気にすることはない。所詮は文明ごっこで、常々事態はシンプルなのだ。
遠隔操作でバンの一つから『商売が好き』の電飾看板をアンテナめいて生えさせ、ワンダリングフリッパーは客の注意をそちらに向けさせた。
「ヨー、ヨー!夜分遅くに買い物かい?いいぜ、来るもの拒まずが俺らのモットーだからな。ドロボーは勘弁だが」
陽気に笑いながら、バンの元へ向かう。隣を歩くブラックルインが眼を見開き、その客の方へと駆け出した。ワンダリングフリッパーもまた、眼を凝らし、早歩きになってそちらに向かった。小柄な人影は、空色の瞳をした少女だった。「……アズール=サン!」
「ワオ!マジにアズール=サンか!昼間は助かった、ぜ……?」
駆け寄る二人は、月明かりと電飾看板が照らし出したアズールの姿を見て絶句した。衣服はボロボロであちこちから血が滲んでおり、素肌からは痛々しい生傷が覗く。
「ドーモ」空色の瞳が二人を見つめる。まだ誰か探しているようだったが……「アウェアネス=サンは死んじまったよ」察したワンダリングフリッパーが声をかけた。
「……そう」アズールは短く答える。「まぁ、アンタが気に病むことじゃないが、アー……気が向いた時に弔ってやってくれや」
頷き、アズールは懐から金貨の詰まった革袋を取り出し……言葉を紡いだ。
「……メディキットと、弾丸。それと、スシを」
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『ア、アイエエエエエ!?アイエエエーッ!!!アイ、アバッ!アバババーッ!!アバッバッ、アバババーッ!!ヤメ……サヨナラ!』
激しく歪んだ劈くような電子音声が、極彩色の室内を満たす。オブザーバーの断末魔だ。
チャブ・テーブルに座しそれを聞くは、橙色のインナースーツにノースリーブの黄緑ニンジャ装束の男。信号機めいた3色カラー電飾付きの金属板が移植された両肩。『偉い男』『酷さの苦味』の威圧的なタトゥーが刻まれた逞しい両腕。ナローズ・ピットの頭領ニンジャ、マイティブロウだ。
「……チッ!どいつもこいつも使えん奴ら……!」
彼は苛立ちを露わにチャブ・テーブルに拳を叩きつけ、壁に映し出されたプロジェクター映像を凝視する。オブザーバーから転送されてきた、所属不明少女型ニンジャ『アズール』のビジュアル・データと得物、ジツ。
カープスタン、ソリッドクロウズ、オブザーバー。既に三人のニンジャが件の少女に殺害されてしまった。由々しき事態だ。残るニンジャ戦力は他ならぬマイティブロウと……惰弱なるサンシタ、リゼントメントのみ。当然戦力外だ。残忍なるニンジャは思考を巡らせた。
アズールの目的とは何か?その正体は?順当に考えれば企業戦士であろう。ナローズ・ピットは暴れすぎた。そもそも、以前から暗黒メガコーポの関連が疑われる襲撃は着実に起こっていたのだ。
野盗がどこぞの企業の物資でも奪ったのか、いつの間にか目をつけられてしまっていたようだった。企業連合による掃討が予定されているという噂もある。アズールはその先鋒か。ソリッドクロウズを破るほどの実力者……かの意地汚い傭兵はいけ好かなかったが……実力に関しては文句のつけようがなかった。それを殺してのけるようなニンジャだ、勢いそのまま完全殲滅のためにアジトに直接殴り込んでくる可能性は大いにあり得る。
何にせよ、ここらが潮時だろう。
マイティブロウは室内を見渡した。ネオサイタマカルチャーは好ましく、蒐集品に思い入れもある。が、命よりは安い。所詮、物だ。また集めればいいだけのこと。
たかが一人の小娘によって大損害を被ったことに、怒りを感じぬわけではない。しかし彼はヤクザではなく、メンツの概念も薄い。現状マトモに戦えるのは己のみ。今また傭兵を雇うとなれば、それは人手不足を自らアピールすること他ならず、賤しく足元を見られること間違い無し。選択肢は一つ。
コン、コン。
扉をノックする音が響いた。マイティブロウは反応を返さず、映像を切り、最低限の荷物を纏め始めた。何も映さないプロジェクタースクリーンが極彩色の壁に虚しく残った。
コン、コン。コン、コン。
「あのー、マイティブロウ=サン?居ます?えっと、あの、あー、報告……」
反応がないと見るや、扉越しにボソボソと喋り始めた声に舌打ちし、彼は乱暴な物言いで入室を許可した。ビクビクしながら、黒と灰色のツートンカラー装束を着たクロームメンポのニンジャが室内へ。目を細め、卑屈に笑むリゼントメント。
「そのう……ソリッドクロウズ=サンの連絡も途絶えてしまって……この場合、あの、報酬って、どうしたらいいですかね」
「テメェで考えろクソカスが!」声を荒げてリゼントメントを指差す。困惑する彼に対し捲し立てる。「いいかリゼントメント、テメェに特別ミッションを与える。俺は暫く用事で此処を空ける。その間、留守を預かっていろ。いいな!」
「え、えーっと……ハイ……?わ、わかりました」曖昧に微笑み、頷く。それから壁のプロジェクタースクリーンに気付き、首を傾げた。「何か……観てました?」
「アア?……チッ。あークソ、めんどくせぇ」溜め息を吐き、映像を復帰させる。「そう遠からず、この娘が訪れる。丁重にもてなしてやれ、客人だ」精々俺の逃げる時間を稼げ……そう心の中で呟き……マイティブロウは訝しんだ。スクリーンに映し出されたアズールの姿に、リゼントメントは半ば放心しながら釘付けになっていた。
「……『アズール』……」
その名を噛み締めるように、静かに呟くリゼントメント。その眼は見開かれ、悍ましい熱を帯びている。マイティブロウは気味悪く思い、不快そうな様子で手荷物を担いだ。
「何だオイ、性犯罪者かテメェは?確かに上玉だが、ありゃガキだぞ……まぁいいや、そんなにご熱心ならゆっくり、じっくり楽しんどけェ……」
棒立ちに固まるリゼントメントの側を通り過ぎ、扉へ向かう……「待て」その襟首が掴まれた。「逃げるのか」他ならぬリゼントメントの手に。
「……アァッ!?テメェ、リゼント、メン、ト……」怒声をあげ、その手を払い振り返るマイティブロウ。何をいきなり偉そうな口を利いてやがる……その言葉は生唾と共に呑み込まれた。恐るべき憎悪と怒りを纏ったニンジャがそこにいた。
「臆したか!イヤーッ!」別人の如くアトモスフィアを一変させた黒灰ツートン装束ニンジャがマイティブロウの胸ぐらを片手で掴み上げた!「グワーッ!?」「イヤーッ!」掴んだまま大柄なマイティブロウを軽々と持ち上げ、床に叩きつけた。衝撃で調度品が跳ね上がり、散らばり落ちる!「グワーッ!」
「貴様のジツのフーリンカザンは此処にあろう……!」リゼントメントは鋭い眼光で睨み、マイティブロウを掴み上げ、興奮に息を荒げながら言葉を紡ぐ。「俺が奴を……嗚呼!あの少女を、アズール=サンを、オオオ……!俺が!殺す!貴様はジツで俺をサポートしろ……いいな!」
「な……何を勝手なことを」「ダマラッシェーッ!!」恐るべきニンジャスラング!残忍なるニンジャは思わず気圧されてしまった。
「アズール=サン……ああああ!!アズール=サン!ブッダよ、遅い!何もかも手遅れだ!……あまりに遅いが、しかし赦そう……この時を齎してくれたのならば……ウフフ……運命的だ……すべて、すべてこの時のためだったのだな……」
恍惚に声を振るわせ、オハギ中毒者めいた危うい目つきで胡乱な言葉を吐く。彼は凄惨な笑みを顔色に湛え、それでいて目元には涙を浮かべていた。明らかに正気ではない!
「いいか……いいか!俺はこれより、アブストラクトな……セイシンテキを伴う崇高なるメディテーションを、執り行う……チャメシ・インシデントだ!十余年、欠かしたことはない!日本にいようと、海外に渡ろうと……惰弱に身を費やしていようとも、時間を作ってな!わかるか!」「……あ、ああ……ワカル」マイティブロウは慄き、取り繕った。格下の筈のリゼントメントに圧倒されているこの状況は大変に腹立たしいが、それ以上に尋常ならざる狂気への恐れが優った。
「ジツだ……ジツを研ぎ澄まし、磨き上げるためのアグラ・メディテーション……ニンジャとなって以来、誰にも使ったことはないジツだ……アズール=サンに披露するまでは、ンッ、ンーッ……誰が他者に使うものかよ!!」「ワ、ワカル、ワカル」返事を絞り出すが、狂気のニンジャの耳に届いているかは疑問だった。
「俺はこのジツで必ず、あの少女を殺すのだ。彼女に再会が叶わないのなら、一生涯使用せず、ハカバに持っていく所存!故に俺はカラテだけを振い続けてきた……」言いながら、彼はクロームメンポを外した。熱意を持ちながら薄暗い、奇妙な表情がそこにあった。懐から何かを取り出す。闇よりなお黒い、光通さぬ謎めいた……鉱石。掌を少し余るほどのその鉱石の塊を、口元に運び……おお、何ということか……齧り始めたのである……!
「……オ、オオ、そりゃ、なんだ、その……岩塩か何か?」絶対にそんなことはない、と思いながらマイティブロウは問いかけた。すると、驚くほど穏やかな声が返ってきた。「エメツ。エメツ鉱石ですよ、マイティブロウ=サン。昔、チョイとくすねて来たんです。大変でしたよ、ええ、暗黒メガコーポが喉から手が出るほど欲しがってるんですからね。でもねー、欲しかったんです。勘がね、告げてきたんです、これはもう、オヒガン的な……アハハ」
エメツ鉱石を貪りながら、彼は自らの装束の胸元をはだけさせた。露わになった生白い胸筋……おお、ナムアミダブツ……そこに埋め込まれたるはエメツの結晶……!
「……アズール=サン……俺が、必ず……ウフフ……!」
エメツ鉱石を平らげたリゼントメントが立ち上がり、譫言を発しながら、夢遊病患者めいた足取りで部屋を出た。一人残されたマイティブロウはただただ震え上がり、感情が抜け落ちた表情で、呆然とプロジェクタースクリーンを眺めた。
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「しかし、その……そのナリでよォー、よくやるぜっていうか……スゲェよな、実際」スシピザの一切れを頬張りながらワンダリングフリッパーは嘆息した。「昔そういうの観たぜ、サバイバル・エンターテイメントのTVショウか、戦争映画の物々しいやつで……」
生体LANケーブルが呆れたような戯けたジェスチャーを表す。その視線の先では、アルミベンチに腰掛けながら、包帯の端を口に咥え、器用に負傷箇所をカバーするアズールの姿があった。傍には広げられたメディキットの箱と、バッテラ・スシのタッパー。スシは既に幾つか食されており、残りひとつ。
「闇医者に診てもらった方が確実じゃねぇの?」「そうかもね」視線を向けずにアズールは答える。「でも今は必要ない」「ンン……そういうもんかね」黒人ニンジャはスシピザを飲み込み、もう一切れ手に掴み頬張り始めた。
「アズール=サン、水……で良かったな」ブラックルインが真水の注がれたグラスを、包帯を巻き終えた少女に差し出す。アズールは頷いて受け取り、スシをひとつ摘んで口に放り込んだ。咀嚼し、飲み込み、水を流し込む。ニンジャにとってスシは完全食であり、効率的で優秀な回復手段だ。
その一挙一動を、薄いブロンド髪を夜風に揺らしながらブラックルインは感心し、畏敬の眼差しで眺めていた。見た目こそ十代の娘だが、実年齢もニンジャ歴も、彼女よりアズールの方が歳上なのだ。
一方のアズールの空色の瞳は彼女の手元に向けられていた。ロケットペンダント。少女はワークパンツのポケットから顔写真を取り出し、ブラックルインに向けて差し出した。ブラックルインは進み出て受け取り、写真に映る青年の顔を見る。それからそれを裏返し、裏面に記された文字を見た。ヒック・ハウイット。そして、筆跡の違う、ごく最近に加筆されたであろうワード。それは何らかの所在地を示している。マリブの近くを指しているようだ。
「これは?」「ヒック・ハウイット。ナローズ・ピットに殺されて、今はもういない。そのペンダントは彼の遺品」アズールは目を閉じて深呼吸し、アルミベンチの上でアグラ姿勢を取りながら言葉を紡ぐ。「マリブに寄ることがあれば、彼の父親にペンダントを届けてほしい。町から離れたところに一人で住んでいる」
「オイオイ、お遣いかよ!いやまぁ、命の恩人の頼みだから、引き受けるけどよ……」口を挟むワンダリングフリッパーをブラックルインが鋭い目つきで睨むが、彼はお構いなしに喋りづけた。「ていうか、それよそれ、ペンダント!その父親の依頼か?ならお前が直接届けてやれよ」
「前払いで報酬は貰っている。依頼はもう、達成済み」未だ余裕のありそうな革製の金貨袋を掲げて彼女は言う。「それに私は用事がある」
そう言い、ゆっくりと眼を開きアグラ姿勢を解く。それからアズールはメディキットの中から携帯可能な物を取り出して懐に収め……職人じみて洗練された手付きで49マグナム・サンシーカーの手入れを始めた。
「ンンッ、用事……ねぇ」黒人ニンジャはスシピザを飲み込み、肩をすくめた。着実に『支度』を進めるアズールを見ながらまたもう一切れ手に取り、頬張る。「実際、依頼はもう終わってんだろ?」
「そうね」サンシーカーに視線を落としながら、少女が淡々と答えた。「それがなにか」
「別に止めねぇけどよ……無茶苦茶だぜ。ひとつ言っておくが、あれよ、例の連中。ナローズ・ピット。近々、暗黒メガコーポ傘下の企業連中に掃討されるって話だぜ。つまり、お前が何かしなくても奴らもうオシマイってわけ」
アズールは答えず、黙々と手入れを進める。ブラックルインは真剣な眼差しで、それを興味深そうに覗き込んでいた。
「あー、まぁアレよ。連中の猿山の大将、マイティブロウだったか……アジトはまぁ、遠巻きに見ても実際わかりやすいから迷うこたないだろうよ。あのスカムタウン!ネオサイタマ風に着飾ってやがるつもりだろうが、ありゃミーハーだぜ。絶対ネオサイタマに行ったことないし、実際大して深い興味があるわけでもねぇってのが丸わかりよ!」
生体LANケーブルの一つが、ナローズ・ピットのアジトの座標と、その周辺のミニマップが記されたマキモノを掴み取り、アズールに放り投げた。彼女はそれを作業の傍らに受け取り開き、素早く目を通してから閉じた。
「何よりもあのネオンライトだ!安っぽい安直で下品な色!本場とは別物よ!」「違いがあるの?」不思議そうにアズールが問うた。「そりゃあもう、全然!なんて言うかな、アトモスフィアがだなぁ」
「フ……」微かにアズールは微笑んだ。「詳しいね」
「詳しいも何も、俺は昔ネオサイタマでヤクザをやってたんだぜ。ニンジャのせいでメチャクチャになっちまって、オヤブンもどっか行っちまったし散々な目に……ていうかそもそもアンタ、日本人だろ?」
「ネオサイタマに思い入れは……あまりない」
少し考えてから彼女は言うと、手入れを終えた無骨な拳銃を腰に吊し、立ち上がった。スシとアグラ・メディテーションによるニンジャ治癒力のブーストが全身を満たす。まだ戦える。
確かな足取りで足を踏み出す。その空色の瞳に神秘的な光が灯る。
「アズール=サン、私たちは手を貸すことはできないが……このペンダントは必ず送り届けよう」
ブラックルインが力強くそう声をかけると、アズールは振り返った。その傍の空気が僅かに揺らぎ、幻想的な抽象の輪郭を描く。ワンダリングフリッパーがサムズアップし、頷いた。アズールも同様に、無言で頷き返し……不可視の獣に飛び乗り駆け出し、闇夜に溶けていった。もう振り返ることはなかった。
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