【イッツ・オールウェイズ・ダーケスト・ビフォー・ザ・ドーン】
TICK TOCK、TICK TOCK……壁に掛けられた質素な時計が針の音を神妙に響かせる。空席ばかりの事務所内は薄暗い。部屋の最奥のデスクを照らす机上ミニ・ボンボリライトと、UNIXから発せられる緑の光とだけが、物憂げに輝いている。室内にただ一人、画面の前で厳しい顔で腕組みをするは……ニンジャだ。
彼の背後の壁には『為せば成る』『不如帰』『徹底する』のショドー……更に新たに掲げられた、彼自身の筆によって力強くショドーされた『ニューワールドオーダー』『格差社会』『罪罰』。ニンジャは……ザイバツ・シャドーギルドのマスターニンジャは、眉根を寄せながらモニタを睨む。
ネオサイタマ侵攻部隊指揮官に任じられ、そのまま駐屯部隊隊長として、猥雑なる混沌都市に留められることになったそのニンジャの名は……ワイルドハント。今彼は、胸中の苛立ちを鎮めるように努め、ザイバツ上層部とのやり取りに応じていた。繰り返される申請、協議、協議……協議、協議!
迷宮の如き官僚主義の前に、彼は何度も申請を横に横に、保留に流され……漸く答えが返ってきたと思えば、『現状維持で善処』『良い感じでやってください』などの無慈悲な解答。此度のニンジャ戦力及びクローンヤクザ、兵器類の増援申請も、いつ協議の結果が明かされるのか見当もつかぬ。
チラリと時計を見やる。21:00。テンプレートを奥ゆかしく装飾した回りくどい文言で申請を出してから、4時間余り。彼はその間、ブッダ像めいて黙々と椅子に座していた。腹拵えもままならず、そこに居続ける。ビボッ。IRCデバイスの通知音。ギルドのものではない。ネオサイタマ在中の闇組織からだ。
ワイルドハントは片手間に素早くメッセージ内容に目を通して返答。元ソウカイヤ傘下のヤクザ組織や闇カネモチへのアプローチだ。ソウカイヤ残党を吸収した組織、アマクダリ・セクトに未だ属していない者達への根回し、及び搾取。ギルド上層の協議中でも、彼の手は休まることはない。
UNIX画面からは決して注意を逸らさず、淡々とマルチタスクをこなしていく。並の精神力の持ち主であれば、苛立ちと退屈から離席し息を休めていることだろう。上層からの返答は遅い。遅いがしかし、席を外して文言を見逃し、応対が遅れればシツレイと見做されてしまう。恐るべき社会常識。
しかし……彼はマスター位階に属するニンジャだ。カラテは無論のこと、礼儀やワビチャの作法、奥ゆかしさをも備えている。この程度のムラハチ・トラップへの心構えなど、当然備わっている。ビボッ、ビボボッ。IRCメッセージ。配下のニンジャ……出世コースを離れた、素行不良の問題児たちからの。それらを片手間に対処していく。報告があるだけまだマシと考え、冷静に努める。
……キョートでふんぞり返って遅々としながらも威圧的な上層部に、指揮下においてはいるが、実際制御困難な問題児アデプト、及びアプレンティス。上も下も厄介極まりない。その板挟みのなかでワイルドハントがこなすは、人員配置、給与の調整、地盤固めの為の各勢力への政治的交渉、時に武力行使……余りにも多忙。本来なら、彼はここまでの実務を担う必要はなかった。
ならば何故?……同位階のニンジャの死。それが、彼の多忙の原因だ。マスターニンジャ、デスナイト、ボーツカイ。デスナイトは……諸事情あり、実際の立ち位置はアデプトのそれと差して変わらぬ。問題は、ボーツカイの死だ。実務、調整、指揮。非戦闘面において彼は非凡な才を持っていた。
そのボーツカイが死んだ。殺害された。デスナイトも。……ニンジャスレイヤーによって。結果、ボーツカイの担っていた非戦闘面での役割りの全てはワイルドハントに引き継がれた。ボーツカイ本人から託されたわけではなかったため、手探りのままに、上からの要求に応じる羽目になってしまったのだ。
こちらからの要求には碌に答えが来ぬというのに、あちらからの要求に対しては迅速に対処せねばならぬ。ポータル移送失敗者、ニンジャスレイヤーによるニンジャ殺害等により、ただでさえ人材が不足する中で、ワイルドハントはその不足を己の身一つで縫っていかねばならなかった。
多忙に次ぐ多忙。然りとて、配下に仕事を振ることもできぬ。このような細やかな事ができる連中ではないからだ。その連中の一人から、ミッション達成報告が上がってきている。送信者は……モスキート。ワイルドハントは顔を顰めた。モスキートは堅実で、優秀なニンジャだ。実績だけを見れば。
そのモスキートから、IRC通話リクエストが届く。ワイルドハントは自身をミュート状態にし、テキストメッセージで彼に対応する。『ドーモ、ワイルドハント=サン。モスキートです』抑揚の無い冷たい声に文字で答える。『ドーモ。仕事がハヤイな』想定時間より大幅に短い達成を賞賛する。
『よくやってくれた』実に優秀だ。ここまでは。『有り難きお言葉……ところで、そのう、ワイルドハント=サン?』……声に賤しい下卑た抑揚がつき始めた。ワイルドハントは溜息をつく。『私に与えられたミッションの内容を、今一度吟味してみているのだが……ね?』
『離反を企てた不届者とその一派の誅滅』『そう、その通りなのだが』
そこで一度言葉を終えたモスキートから、録画映像が送信されてきた。複窓で軽く確認する。ドク・ジツで肉体を水疱塗れにされた肉塊が死にゆく恐るべきスナッフ・フィルムめいたそれを。離反者に待つ残酷な現実を突きつけるために、見せしめのために、殺害の映像記録を命じておいたのだ。映像の中で、モスキートは淡々と冷酷な屠殺機械めいて作業を完遂させた。再生時間を見越してか、映像が終わる頃に彼が再び口を開く。その息は高揚に染まり、不穏な危うさを孕んでいた。
『一派……関係者な?その定義に、彼等に飼われた……フィ、ヒ、ヒヒ……奴隷オイランは……入るのだろうか?』……始まった。ワイルドハントは深呼吸して心を鎮め、諦観じみた返事を送信する。『好きにしろ』、と。
『フィヒ……仕事を早く終わらせた甲斐があったというもの……労働には対価、従者にはボーナス……たくさん役得ッ、紳士的汚染血液直結相互循環重点ッ……ああ君、落ち着いてくれたまえ。ダイジョブ、ダイジョ、フィヒッ!ンッ、ンッンー!そう、深呼吸を……息を吸って、吐いて……私の顔に、そう、そう!息のかかる距離で……蕾めいてカワイイな君の……フローラルな!フィ……フィヒヒ、フィヒ……フィーヒヒ!』
粘つくような嘲る声音で笑いながら、モスキートが一方的に通話を切った。ワイルドハントは何事もなかったかのように、再びUNIXと他デバイスへ向き直る。
フォーオー。雅な電子笙通知音。UNIX画面を睨みつける。『新しいメッセージな:重要』。ワイルドハントは即座にキーボードに手を添え、タイピングの準備をし……待機。直ぐにでも開いて内容を確認し、返信したいところだが、堪える。深呼吸。時計を見る。21:50。あと3分ほどは待たねばならぬ。
ここで即座に読了し返信などすれば、それはシツレイに当たる。奥ゆかしさが無いからだ。相手からの答えが無いことへの苛立ちや不満、焦燥感、対応を急かしての催促……そういった態度を、明け透けにしてはならぬのだ。TICK TOCK、TICK TOCK……TICK TOCK、TICK TOCK……。
今だ。適切なタイミングで内容を開示、確認。『現状の人員で臨機応変な対応を』……ワイルドハントは天を仰いだ。ここまでの時間は何だったのだ。余りにも無益。ビボッ。ビボッ。ビボッ……。ヤクザ、配下、闇カネモチ、配下、ヤクザ、ヤクザ……ワイルドハントはささくれ立った心で席を立った。
何たるブルシット。余りにもバカバカしい。ワイルドハントの脳裏に、彼がオノマル・シンギであった頃の記憶が浮かび上がる。権力欲、派閥パワーゲーム、腐敗……あれら忌々しい愚かなるモータルの所業。それをニンジャたる自分が、ニンジャ組織が、何故同じ轍を踏もうというのか?
沸々と湧き上がる怒り。彼はカーボンフスマを蹴破ろうとし……一呼吸おいて、しめやかにフスマを開いた。怒りや不満感に突き動かされるは愚か者の所業。オノマル・シンギはもう死んだ。今ここにあるはワイルドハントだ。己の為すべき事を為す。それがギルドの発展に繋がるのだ。必ず……必ずだ!
実績と成果をもって、派閥間の政治的対立などに現を抜かす貴族主義者達を制する。それが栄光なるザイバツの進歩を生み出す。その為に、決して心折れてはならぬ。何度NOを突きつけられようと、上奏はやめぬ。ニューワールドオーダー。ニンジャ千年王国到来のために。決意を新たに廊下に進み出る。人影があった。ワイルドハントは彼に視線を向ける。
「フーンク」
彼……壁に寄りかかっていたフルフェイスメンポの偉丈夫がワイルドハントを見やって、くぐもった声を発した。
「ドーモ、インペイルメント=サン」
ワイルドハントが軽くアイサツをする。いつからインペイルメントはここに居たのだろうか。上層部からの返信を待つ間、ここで待機していたのだろうか……。
「フーンク」
インペイルメントが両手に持った物をワイルドハントに示した。右手にはスシ・パック。見るからに安物な、てらてらとした合成スシ。左手にはビニル袋。濃厚な肉の匂いがする。ドンブリ・ポンのテイクアウト。ミート・ポンか?ワイルドハントは彼の方へ歩み寄り、それらを受け取る。
「……助かる。丁度、何か腹に入れておきたいと思っていた」
キョート人、それも貴族階級の生まれでありながら、彼は斯様なネオサイタマ・フードへ抵抗感を示さなかった。赴任直後は嫌悪していたが、もう慣れた。慣れるほかなかった。それに、存外……悪くない。腹持ちはいい。
それに、だ。インペイルメントの顔へと視線を向ける。フルフェイスの奥に隠された彼の素顔へと想いを巡らす。彼は眼が見えぬ。彼は口が利けぬ。眼も口も、大罪の報いに縫われているからだ。口が開けない故に、インペイルメントはマトモな食事を摂ることができない。
縫糸の隙間からチューブを捩じ込んでの流動食めいた簡易な食事しか、彼には出来ぬのだ。そのような状態でありながら、インペイルメントは多忙のワイルドハントへと度々差し入れを持ってくる。受け取り、食する以外に選択肢などあるものか。故に慣れた。惜しむらくは、その味わいを共有できぬことか……。
ワイルドハントは事務所に戻ることなく、廊下にアグラ姿勢で座り込み、ビニル袋からミート・ポンとペットボトルのチャを取り出し、メンポを外してがっついた。ショーユ煮の牛コマとコメの濃厚なカロリーが食道を刺激する。チャで流し込む。食べる。飲む。
あっという間に完食し、スシ・パックを開く。蛍光色のネタも見慣れたものだ。タマゴ、合成トロ、トビッコ、バッテラ。酢飯とネタを咀嚼し、食べる、飲む、食べる、飲む……完食。
「ゴチソウサマ」「フーンク」互いに会釈する。腹が満ちれば、セイシンテキに余裕ができてくるものだ。
ワイルドハントは空になったドンブリとパックをビニル袋に入れて立ち上がり、事務所に戻ろうと足を踏み出した。インペイルメントは頷き、その場を去ろうとする。……その背に向け、ワイルドハントが声をかけた。「インペイルメント=サン」「フーンク?」
「……実際、助かっている。礼を言う」「……フーンク!」満足気な音を発して、インペイルメントは去っていった。ワイルドハントは眼をギラつかせてデスクに戻り、先程の上層部からのメッセージに懇切丁寧な返信を送る。メッセージを受け取ってから食事を挟み、やや時間を置いた返信だが、その所要時間はまだシツレイの範疇ではない。奥ゆかしく文言を装飾し、了承の旨のなかに、それとなく追加の申請も加えて。そして再び彼の闘いが幕を開ける……フォーオー。
雅な電子笙通知音。画面に表示される『新しいメッセージな:重要』。ワイルドハントは訝しんだ。ハヤイ過ぎる。彼は怪訝な顔でメッセージを開いた。「え」そして、素っ頓狂な声を上げた。『これからネオサイタマへ向かう』とだけ書かれた、質素な文言がモニタに映し出されている。
あまりに直情的でシンプルな言葉。差し出し人の名前は……「ダークドメイン=サン……だと……!?」彼はただただ驚愕した。ワイルドハントは眼を擦り、もう一度差し出し人の名前と内容を確認した。目眩がした。これまでの実務に加え、かのグランドマスターへの接待のセッティングもせねばならぬ……。
ビボッ。ビボッ。ビボボッ、ビボッ。薄暗い部屋の中で一人、ネオサイタマ駐屯部隊長の苦難は続く。
イッツ・オールウェイズ・ダーケスト・ビフォー・ザ・ドーン
【終】