【オンスロート・オブ・ア・ダイコク・フロウ】エピローグ

承前

 彼方此方を焦がす炎。ニンジャの超常の力が齎した破壊と災厄。豪華絢爛な高級ホテルは今や見る影もない。その災禍の最中、しめやかに歩みを進める存在。乱れた薄紫の髪。白磁めいた肌は傷つき汚れきっている。スプレンディド……もはやニンジャ装束の維持すらままならぬ様子で、彼は独り歩く。月白色の燕尾服めいた装束が光となって消えていく。ボロボロになったフォーマルホワイトスーツの姿となる。

 虹彩に宿っていた金色の光も今はない。全てのオフセを使い果たした自爆により、彼は実際満身創痍の状態にあった。ボロボロのスーツの上着から上質なハンカチーフを……アスミ・キナタコからマスター位階昇進の祝いとして贈られたそれを取り出し、己の血を拭う。調息の乱れを抑え、油断なきニンジャ野伏力を発揮し、注意深く脚を進める。

 あちこちに斃れる屍を観察し、いつ暗黒物質が飛び出してきても対処できるようカラテ警戒を怠らずに進む。ニンジャ第六感を研ぎ澄ます。不可視の獣の気配も、邪悪なるアンコクトン・ジツの悍ましき気配も今は無い。

 スプレンディドはスーツのネクタイを緩めて解き、炎へと焚べた。同様に、スーツの上着も脱ぎ捨てて炎へ。血に濡れたハンカチーフもまた、同様に……炎へ。それらの繊維が焼け焦げていく。彼はそれを少しだけ眺め、再び歩き出す。

「……」

 暫く歩いてから立ち止まり、炎の元へと戻る。躊躇なく炎へと手を突っ込み、ハンカチーフを取り出す。

(((……私も未熟者だな。過ぎたことにセンチメントを……)))

 血と焦げ後で酷く汚れたそれを強く握りしめ、脚を進める。そうして彼はやおらに壁へ凭れかかった。緊急事態用の隠し回転扉が作動し、スプレンディドの姿はその中に消えていく。隠し階段を降りていき、脱出路を抜ける。冷たい夜風が彼の頬を撫でつけた。

 スプレンディドは夜に佇むリジェンシ・セッショを見やった。バラバラバラバラ……夜空を飛ぶ最新鋭武装ヘリ。ザイバツの救援部隊。混沌の事態の収束を察知して派遣されてきたのだろう。救援要請に応えたという体を成すための、形だけの派遣。何もかもが手遅れのなか、武装ヘリは周囲を暫く飛び回った後、何処かへと飛び去って行った。

 静まり返る暗澹なる夜。ロード・オブ・ザイバツのキョジツテンカンホー・ジツがモータルへのニンジャ存在露見を隠しているが故に、ホテルで起こった忌まわしき殺戮を人々に知覚させない。ガイオンに暮らす人々は何の疑いもなく寝静まり、或いは労働に勤しんでいる。不気味なほどに普段通りのガイオン・シティの夜がある。

 スプレンディドは飛び去るヘリを侮蔑的に一瞥し、リジェンシ・セッショを後にする。彼の脳裏ではアスミの最期がいつまでもフラッシュバックしている。手に持ったハンカチーフを見やる。悔恨の自責が彼を苛む。

 ……意地を張らずに、誰かしらの派閥に身を寄せていれば。或いは、彼女だけでも派閥に所属させていれば。彼女はこんなところで死なずに済んだのではないか。他の者らに彼女の命を預けるのを恐れずにいれば、或いは……。

 スプレンディドは重たい憂鬱を抱えて路地裏へと入り、思考を巡らせる。一般層に向けたマサラサマウジ・ハクトウとしての会見のスケジュールを練る。ギルドへの謝罪とケジメを考える。まだ自分に利用価値があるならば、ケジメとペナルティ多額奉納で事は済む。用済みならばカマユデか。考えても考えても、彼の隣にはもう誰もいない。

 路地裏を曲がり、曲がり。通りを見やる。日中であれば人混みに紛れて姿を眩ませられようが……今は人の往来は無い。最適な逃走ルートをニューロンに描く。

「ねぇ」

 仄かに華の香りがした。スプレンディドは振り返り、声をかけてきた少女の姿を見やった。さりげない動作で、敵意のない仕草で彼の懐に入り込んだ少女を。何の疑問も持たせぬ、極々自然な、透明な心。スプレンディドは己のウカツを悟った。

「死んでよ」

 ガラスのような空色の瞳が彼を射抜く。冷たい声音が紡がれる。スプレンディドを見上げた少女が、サブマシンガンの銃口を下から彼の顎へと押しつける。ゆっくりと。緩慢に。

 ……今この瞬間にカラテを振る舞えばこの少女を殺せるか。否。緩慢なのは己の主観時間だけだ。世界から切り離された、鈍化した主観。既に少女の指はトリガーを引いている。間に合わない。死がそこにある。

 避けられぬ死を前にして、脳内でソーマト・リコール現象が始まる。鬱屈な幼き日。格差社会英才教育のための教材として迎え入れられた少女。父や兄らから隠れて少女の住まう座敷牢に足を運び、施しを与えた日々……。

 ……ニンジャとなった日。怒りに任せた一族の討滅。闇からの使者、ザイバツ。勧誘。そして彼女もまた、ニンジャに。次々と蘇る過去の記憶。



 ──ローソクの光に微かに照らされる座敷牢で、少年と少女は向かい合っていた。

「ありがとう、ございます。マサラサマウジ・ハクトウ=サン。私なんかにこんなに優しくしていただいて」

「はは。君とは歳が近いからかな……ああいう酷いことをされるのを観ているのは、気分悪いからね」

 幼きハクトウとアスミ・キナタコの姿だ。

「ほんとうにありがとうございます……なにかお礼を差し上げたいですが、このような身ではそれもままならず。ゴメンナサイ」

 申し訳なく首を垂れる少女の顔を上げさせてハクトウは微笑んだ。

「そンなことで謝らなくていいよ。お礼なんか……ンー、でもそうだな。……ハク。ハクって、呼んでくれないかな」

「え。ハ、ハク……ですか?」

「うん。対等な関係っていうのかな……そういう愛称みたいなので呼び合うの、憧れてンだよね」

 崩したアグラ体勢で彼は言う。少女はおずおずと口を開いた。

「あ……えっと……ハ、ハク=サ」「ハクだけでいい」「……スゥーッ……フゥーッ……ハ、ハク」「ありがとう」

 朗らかに少年は笑った。

「そうだ!おれも君のことを愛称で呼びたい。アスミは……家の名前だよね。おれは君を何て呼べばいい?」「え。えっと。じゃあ……」

 少女が、はにかみながら自分の名前を、ハクに呼ばれたい名を告げる──


 光景が移り変わる。記憶にない光景だ。黄金立方体を空に頂くハクトウの私邸。庭園をのぞむ縁側でチャを嗜む若い二人の男女。マサラサマウジ・ハクトウと、アスミ・キナタコ。ハクトウは隣に座るキナタコへ眼差しを向けた。彼女は穏やかに微笑んだ。

 嗚呼、嗚呼。死に際に何と都合の良い夢を見ているのだろう。彼女が私を赦す訳などないというのに。微笑みかけることなどありはしないのに。

(((……キナ。キナ……ああ。おれは。君を。君の、ことを……))

BRATATATA !!!


 無慈悲なる銃声とマズルフラッシュがソーマト・リコールを、黄金立方体の幻想を引き裂いた。血が、脳漿が、飛び散る。赤く濡れた鉛弾の掃射が突き抜けていく。手元を離れたハンカチーフが夜空にひらひらと舞う。視界が明滅する。

 そうだ、これでいい。都合の良い夢に浸ったまま迎える自己満足の死よりも、惨めたらしいブザマな醜い死こそ相応しい。

 鮮血と共に冷たいアスファルトに仰向けに倒れて、彼は自嘲した。黒雲の隙間から顔を覗かせるドクロめいた月がショッギョ・ムッジョと呟いた。

「サヨ……ナラ……!!」

 ハクトウは爆発四散した。

 アズールは熱持ったサブマシンガンを下ろし、スリングベルトに預けた。爆発四散跡を一瞥して踵を返し……少し歩いてから立ち止まった。振り返り、来た道を戻っていく。彼女はアスファルトにフワフワと舞って落ちてきた物を屈み込んで拾い上げた。そうしてまた、踵を返して闇へと消えていった。もうこの場に帰ってくる事はなかった。


◆◆◆



 遊具の少ない小さな公園。夜風に当たりながらベンチに大股座りに深く腰掛ける、フードを目深に被った痩躯の男。彼は己の方へ近づいてくる気配を察知し、空になったコロナビールの空き瓶を手元で弄びながら気配の方を向いた。

「よォー、おかえり。ちゃンとお使いできたか、アズールゥー……」

「……うん」

 アズールはコクリと頷き、デスドレインを見やる。彼はケラケラと笑い……空き瓶をそこらに放り捨てて立ち上がり、アズールの方へ歩み寄った。

「へへへ、お利口さん……あン?お前、何持ッてンだそれ」

 片眉を吊り上げ、ズカズカと彼女に近づく。隠し持つかのように後ろ手に何かを持った少女に詰め寄る。アズールは少しの逡巡の後、おずおずとその手に持った物を彼に差し出した。

「なンだこれ」

 少女の手からそれをひったくり、ボロ雑巾を手にとるような手つきで端の方を摘んで観察する。血と焦げ跡に汚れた厚手のハンカチーフ。デスドレインはまじまじとそれを眺め……「きッたねェな。ンなもん拾ッてくンな」ぶっきらぼうにそう吐き捨てて、ハンカチーフを放り捨てた。

「そンじゃ、行くか……ア?何見てンだ、アズール」背を伸ばして歩き出し、アズールへと声をかける。彼女は夜風に晒されて飛んでいくハンカチーフをジッと眺めていた。「欲しかッたのか、アレ」デスドレインの言葉に少女はかぶりを振った。

「別に。何となく、拾っただけだから」

「そうかよ。じゃ、行こうぜ……ボサッとしてンなよ、チンタラしてンじゃねェ」

 ズカズカと立ち去っていくデスドレインの方へ顔を向け、アズールは彼の後を追って歩き出した。二人の姿が闇夜に融けて消えていく。

 ……ガイオン・シティの夜空を、風に乗ってハンカチーフが飛んでいく。やがてそれは街を流れる水路にひらひらと舞い落ち、清き水の流れに赤い尾を引きながら……何処かへと消えていった。


【オンスロート・オブ・ア・ダイコク・フロウ】

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