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【マーダー・レッスン・フォー・グッディ・ガール】

1.

 日本から独立した自主国家、キョート・リパブリックの首都、ガイオン・シティ……その上層たるアッパー・ガイオン。基盤目のように整然とした道路、コンデンサめいて等間隔に配置された雅な五重塔、煌びやかでありながらも奥ゆかしく美しい都市。限られた人間達の住う伝統と神秘の街並みに訪れる観光客らは感動し、感受性豊かであらば涙さえ流しハイクを詠むほどだ。

 しかし……観光客の目の届かぬ場所はどうだろうか?アッパー・ガイオンは観光事業で栄える街だが、実際来訪者に賑わうエリアは限られている。中心部から少し眼を逸らせば……或いは中心部であっても……モラルの荒廃、犯罪者の隠れ蓑、そういった閉塞的な影がチラついている。渦巻く欺瞞は壮麗さの装飾に覆い隠されているのだ。

 そして……その影に潜む者が必ずしも人間であるとは限らぬ。


【マーダー・レッスン・フォー・グッディ・ガール】


 ガイオン・シティの死角の一つたるサミダレ・ストリート、そのとある廃墟。

 冷たい床で少女は眼を覚ました。少しだけ身震いし、身体を起こす。

 裾を毟り取ったドレスに履き潰れたスニーカー。肩下まで伸びた波打つような長く黒い髪。彼女の淀んだ空色の瞳には途方もない荒廃と絶望、虚無感が宿っていた。少女は立ち上がり、翳りのある表情で辺りを見渡す。

「……どこ、に?」

 そうポツリと呟いてから、その顔に徐々に不安の色が見え始めた。いつも彼女は『彼』より遅く寝て、『彼』より早く起きる。しかし……この日は『彼』の方が早かったようだ。

 少女が華奢な足で歩き出し、部屋を出る。そして暫く立ち止まり……また歩き出した。階段を降り、下の階へ。窓や玄関を少しだけ眺め、かぶりを振り、更に下の階へ。暗澹に軋む金属質の階段を降りていき、地下室の鉄扉の前に立つ。それを小さな手でゆっくりと押し開け、おずおずと中の様子を伺う。

 そこに広がる虐殺現場の凄惨な光景と、充満する血の匂い。ツキジめいて方々にぶち撒けられるネギトロの有様。少女はガラスのような瞳で、椅子に見立てた屍体に座る『彼』を……病的な色白の肌をした、痩せた男の後ろ姿を見つめる。『彼』はベントーの最後の一人、怯え切った男を前に、退屈そうな様子であった。

「……ンー、なンか違ェんだよな……全然つまんねェの」呟きながら、『彼』は首をグリッと後ろに向け、ドス黒い瞳で少女を見据えた。「アァ?……アー、丁度いいや。ヘヘ……こっち来いよ。アズール」眼を細め、手招きする。

 アズールと呼ばれた少女は頷き、その側に歩み寄る。床にへばりつく散らばった血肉や腑、コールタールめいた黒い汚泥を踏み分けて傍らに立って、『彼』をジッと見つめた。ジゴクめいて逆立った黒い髪、拘束具めいたニンジャ装束を纏い、囚人メンポを装着した男……凶悪犯罪者ゴトー・ボリスを、邪悪の権化たるニンジャを。デスドレインを。

 少し前まではこの二人の他に、もう一人ニンジャがいた。名をランペイジという。今はもう、居ない。彼は破壊衝動に呑まれ……否、破壊の概念そのものと成り果てて朽ちていった。以降、アズールとデスドレインは二人で行動するようになっていた。場当たり的な強奪、殺人、そういった邪悪行為に明け暮れる日々。時折ザイバツの手の者が現れたが例外なく捻り潰され惨殺された。

 ランペイジが居なくなるより少し前、デスドレインは己に刻みつけられた『咎』のカンジのノロイに蝕まれ、アズールやランペイジに無意味な暴力を吹っ掛けることが頻発していた。ストレス発散と娯楽を兼ね備えていたベントーの消費中も、デスドレインは笑い声をあげなくなっていた。

 ただ、ランペイジが居なくなってから……マグロアンドドラゴン社屋襲撃以降からは、その八つ当たりめいた無意味な暴力をアズールに振るう頻度は少なくなっていた。全く無くなったわけではない。彼女の華奢な身体には痛々しい痣が幾つも刻まれている。アズールは無意識のうちに、庇うようにして痣のひとつに手を添えていた。まだ熱を持っていて、痛みも引いていなかった。

「なァ、コイツ殺れよ」「……嫌」

 アズールはデスドレインの言葉にかぶりを振った。その白く細い首や手足に黒い汚泥が……アンコクトンの蔦が絡みついていく。緩やかな締めつけに少女は小さく呻いた。

「なーんかシックリこねェし……つまんねェからよォー……これ使わせてやッから。殺れ」

 そう言いながら彼は屍体の椅子から立ち上がった。目鼻や口からコールタールめいた汚泥が流れ出たあと、屍体は糸の切れたジョルリめいて床に崩れ落ちた。デスドレインは血塗れの衣服の繊維と混ざり合った肉片をゴソゴソと弄り、鈍く光る何かを探り当て、アズールに手渡す。それは銃だった。標準的な護身用の……当の持ち主の身を護ることは叶わなかったが……ハンドガンだ。

 アズールは緩やかな締めつけに苦悶しながら小さな手を伸ばし、それを掴み取る。どう使えばいいのかわからなかったが、彼女は頭の中のイメージに従い銃口をベントーに向け、引き金に指を掛けた。哀れな犠牲者は泣き叫び疲れた掠れ声で悲鳴を上げ出す。

「……?」

 少女は戸惑いの表情をみせた。引き金が引けない。固定されている。何回やっても同じだった。アンコクトンの締め付けが段々と強くなってくる。咳き込み喘ぎ、必死になって撃とうとする。が、ダメだ。デスドレインの方に視線を向ける。彼はニタニタと眼を歪ませ、アズールの方にのっそりと近づいてきた。病的に白い痩せた腕が伸び、少女の手元を覆う。

「へへ……へへ、へへへ!バカじゃねェの?安全装置知らねェのかよアズール!へへ、へへははは!」

 悪魔は上機嫌そうに嗤い、彼女の手からハンドガンを取り上げた。セーフティを外し、何の躊躇もなく発砲する。BLAN !! BLAN !! BLAN !!

「アバーッ!アバッ、アババッ……ア、アイエエエエ……!」

 夥しい流血、しかしいずれも急所は外されていた。断続的な叫びに悪魔は眼を細め……それから首を傾げて、黒く長い爪で頭をバリバリと掻いた。

「……アー、うるせェ。なーンか鬱陶しいンだよなァー、それ。気分悪ィ……もういいぜ、そいつ」退屈そうに言い、ベントーを指差しながら再びアズールにハンドガンを手渡す。「黙らせとけ」

 アンコクトンの蔓が彼女の細い腕を締めつけながら無理やりに持ち上げ、銃口を犠牲者に向けさせる。首に纏わりつく蔦に顔を顰めながら、少女は震える両手で銃を構え……引き金を引いた。

 BLAN !!

「アバッ……」

 弾丸が額を貫き、脳漿と鮮血が壁に飛び散り、へばりついた。男は項垂れ、痙攣し、目鼻や口から黒い汚泥を垂れ流し……やがて動かなくなった。バシャリ、とアズールに巻き付いていたアンコクトンが液状化し、床一面に広がるコールタールめいた汚水に同化していく。最後のベントーから流れ落ちたものも同様に。

 蔓から解放されて咳き込んだ少女が、濁った碧い瞳を悪魔に向ける。デスドレインは彼女の頭に手を置いた。びくりとする少女の髪を乱暴にグシャグシャと撫でつけ、背を折り曲げて彼女の顔を覗き込み、抑揚のない声で言う。

「お利口さん」「……ッ」

 そのぬばたまの目にアズールは身を強張らせて後退り、自分の腕を抱く。デスドレインはそれ以上何も言うことなく、震える彼女の側を通り過ぎ、鉄扉を蹴り開けて階段を上っていった。アズールは少しの間、立ち尽くしていたが、ハッと気づいたかのようにハンドガンを放り捨て、彼の後を追い縋った。重たい鉄の扉を押し開け、痩躯の背の後へ続く。

 二人が外を出ると、空は薄暗く、あたりには湿気が漂っていた。程なくして降り出した雨をデスドレインは無感情に見上げ、それからフードを被って気怠げに歩みを進めた。少女は雨に濡れながらついていく。

 やがて雨足が強くなってくると、デスドレインは金具や革ベルトの擦れる音を鳴らしながら拘束衣を無造作に広げ、しとどに濡れたアズールの肩をかき抱いて無理くり中に入れて再び歩き出した。二人の姿は雨霧に包まれ消えていく。


2.

 数刻が経った。雨は止み、ドクロめいた月が物憂げに顔を覗かせていた。しっとりとした水濡れの匂いを醸すアスファルトを歩く人々が、月明かりとワビサビある煌びやかな電子看板に照らし出される。昼間と比べても、行き交う人らの数に差程の違いはない。

 そのなかを当然のように歩くは、フードを目深に被ったデスドレインと、彼に連れ立って歩くアズール。二人は今、ハヌナリ・ストリートの往来にいた。

 少女は周囲の人々をキョロキョロと見渡しながら歩みを進め、時折デスドレインの顔を見上げる。彼は眠たげな目付きのまま、ヤンクめいた歩き方で無遠慮に進む。対向のサラリマンや観光客は、触れてはならぬものを見るような視線を彼らに向け、それとなく道を譲り、誤魔化すように自分の世界に入っていく。二人の出で立ちはアッパー・ガイオンを歩くには浮いてしまっているようだった。

 アズールは不安さを交えた不思議そうな顔をして、デスドレインを見やる。この男の思考は彼女には全くわからない。今はこうして、ただただ道を歩いてるだけであるが、次の瞬間には凄惨な理由なき虐殺が起こっても何らおかしくはないのだ。デスドレインはそんな彼女をチラリと見下ろし、小首を傾げ、また歩き出す。何か考え事をしているようだった。空色の瞳に映るその姿は、少女にとって異様で、不気味だった。

 人々の奇異な視線を横目に足を進め、ふいにデスドレインがストリートに立ち並ぶ店々を見据えた。そのうちの一つ、『グロリアス香り』の看板を構えた飲食店に突き進んでいく。少女もそれに続いた。

「ミャオーウー」電子招き猫ベルが奥ゆかしく入店を知らせるサウンドを鳴らし、店員らは脊髄反射に入口の方に身体を向け、マニュアル通りの所作でオジギをして声を上げる。「「「イラッシャイマ……セ……」」」そして互いに目配せし、曖昧な愛想笑いを顔に塗った。アルバイト店員らは自然にそれまでの作業に戻っていく。一拍置いて、経験豊富な妙齢の正社員女性スタッフが異様な佇まいの入店者のもとにたおやかな足取りで向かい、奥ゆかしいオジギをしながら二人に声をかけた。

「イラッシャイマセ。テイクアウトですか?店内で」「店」「カシコマリマシタ」

 話を無愛想に遮られようとも、顔を顰めることなく和かに対応する。伝統と奥ゆかしさが重視されるキョート共和国で接客業に携わる者に求められるのは、琵琶湖の如くに広い心だ。たとえ水面に石が落ちようと、その波紋は微々たるものである……そういった心持ちだ。

「カウンターかテー」「テーブル」「カシコマリマシタ」穏やかな声音で対応し、手で空席を指しながら彼らを見やる。「こちらへドーゾ」そして歩き出し、案内を始めた。周囲の席に着く客らはチラリと彼らを見てから視線を逸らし、各々の持つ話題に持ちきりになる。

 案内されたテーブル席、上質なソフトレザーの椅子に、デスドレインはそこらのパイプベンチに腰掛けるように遠慮なく座った。椅子につかずに立ったまま彼を見つめるアズールに眉を顰め、顎で対面の座席を示す。アズールは躊躇った。

「……ンだよ、隣が良かッたか?それとも膝の上かァ?」「……」

 少女は首を横に振り、ソフトレザーの感触に戸惑いながら腰掛ける。胸中に困惑の念を抱きながらも、表情には出さずに二人のやり取りを見守っていた女性スタッフが一礼し、淑やかに声を発する。

「ご注文お決まりになられ」彼女の言葉の途中でデスドレインがオシナガキ・メニュー表を乱雑に開き、枝めいた細い指で適当な品を指差してから、開かれたままのそれをテーブルに捨て置いた。「ヨロコンデー!」女性スタッフは柔かに微笑み、半歩後ろに引いて手を前に組み、深々とオジギしてから下がって行く。その所作にデスドレインは目もくれない。対面に座るアズールも同様だった。

 そして、デスドレインは面倒気に身体を伸ばした後、テーブルに顔を突っ伏した。碧い双眸がその姿を眺める。重なるレイヤーに生じるモアレめいて、二人の空間だけが周囲から切り離されている。他の客の声も、入店を告げる電子招き猫ベルも、外の音も、どこか遠い世界のことのよう。

 ……「オマタセシマシタ。こちら、『スシパフェ・雅さ』と、『オモチ・ダンゴ・クレープ』と、アンココーヒーにございます」配給オイランドロイドの声にアズールが振り向く。人間の所作と変わらぬ優美さで、甘味の暴力めいたパフェと、積載過多なクレープ生地の薄焼きパンケーキ、仄かに紫がかった二人分のコーヒーがテーブルの中央に供された。

 複数人が頼んだ料理を提供する際、客の外見やアトモスフィアから誰が何を頼んだのかを独自に判断してそれぞれに配膳するのはシツレイとされている。それを避けるための行動だ。

 兎角、飲食店における料理の提供には様々なシツレイ・インシデントやムラハチ・トラップが口を開けて待っており、最悪の場合、その場でケジメやセプクを命じられることも珍しくはない。故に料理の運搬は、人的損失を避けるためにオイランドロイドを使用されることが多い。どのような人物に対しても平等で公正であり間違いがない、が標榜だ。

「ごゆっくりお過ごしください」電子音声でそう告げたオイランドロイドが儀礼的仕草を終えて立ち去るのを一瞥してから、アズールはマグカップから立ち昇るコーヒーの湯気越しにデスドレインをジッと見つめた。鼻腔をつく嗅ぎ慣れない甘ったるい匂いに少女は困惑しながら、時を過ごす。

「食わねェの?」やおら顔を上げたデスドレインが言った。「腹減ッてたンじゃねェのかよ」上体を起こしながら妙な声音で言葉を紡ぎ、スシパフェとアンココーヒーを手元に寄せ、不躾に甘味を貪り出す。生クリームや雪めいた砂糖、てらてらとしたプディング・スシ、アンニートーフ・シリアル……それらを貪る様を空色の瞳が見つめる。

 先程、往来を歩いていた際の考え事の正体がこれなのだろうか。少女は思案する。空腹感は……わからない。数刻前まで血溜まりの中にいたのだから、食欲など無い……それに、彼女は空腹には慣れている。何をどう考えて、彼女が腹を空かせていると彼が判断したのか、アズールには理解できなかった。

 マグカップを呷りながら、デスドレインはオモチ・ダンゴ・クレープを彼女の方にやった。食用金箔にデコレーションされたクレープ生地の薄焼きパンケーキの上に、マッチャキナコが塗されたオモチと、蜜のかかったダンゴ。

 オモチもダンゴも、やや小ぶりではある……一般的感覚で見れば。元来、食の細いアズールからしてみれば、かなりの圧があるものだった。クレープとデスドレインとを交互に見る。ぬばたまの瞳に宿った感情は、読み取れない。

 アズールは躊躇いがちに食事を進めた。食べねば、何をされるかわからないと感じたからだ。備え付けのフォークとナイフで生地と積載物を小分けにしていく。スシパフェを平らげたデスドレインが、空になったマグカップをブラブラと弄びながら、眼前の光景を眺める。

 その視線を感じながら、少女が小分けにしたクレープ片を口元に運び、もそもそと咀嚼する。味はよくわからなかった。アズールはアンココーヒーを、その甘さに顔を顰めながらクレープごと喉に流し込み、時間をかけながらそれらを処理していった。

 ……胸焼けしそうになりながらも、アズールは漸く食事を終えた。それから暫くして、デスドレインが席を立った。少女も一緒になって席を立ち、彼の傍を歩く。

 何をするでもなく会計に向かうデスドレインの姿を、彼が懐からゴテゴテとしたバイオワニ革財布を取り出して淡々と会計を済ませる様を、アズールはまじまじと見つめていた。

「本日は誠にありがとうございます。またのお越しをお待ちしております」

 柔かに微笑みながら言葉を紡ぐ女性スタッフをかえりみることなく、店を出て行こうとするデスドレインが、訝しむような少女の表情を見咎めて足を止めた。

「あン?なンだよ、アズール」「……殺さないの?」彼女は辺りを見渡しながら……奇異な目で、或いは哀れみをもった目で見られながら……頭に浮かんでいた疑問を素直に口にした。デスドレインは……デスドレインは、目を細めて彼女を見据えた。「殺してェの?」

 少女が返答する間も無く、デスドレインの足元から胎動する暗黒物質が溢れ出した。周囲の空気が凍りついた。「じゃあ殺すかァ」フードを外し、悪魔の顔を顕にする。良からぬ期待に、ぬばたまの瞳が濁る。

 一瞬の静寂は悲鳴の喧騒に染まり、深淵の恐怖が伝達し蔓延した。金切り声で絶叫する妙齢の女性スタッフの開け放たれた口へ暗黒物質が侵入し、中で膨らんで頭部を破裂させた。失禁してへたり込んだアルバイト店員を黒い蔦が叩き潰して床のシミに変えた。鎌首をもたげたアンコクトンは次々に店内を蹂躙し、血飛沫と肉片をブチ撒けていく。

「アイエエエエ!?」「アバーッ!?」「ニンジャ!?ニンジャナン、アバババーッ!!」

 千切れ飛ぶ人体、乱れ舞う絶叫。店内だけに飽き足らず、ショーウィンドウを突き破った暗黒物質は往来の人々をも喰らっていく。アズールはそのアビ・インフェルノ・ジゴクめいた惨状を……店内、店外とに広がる混乱をガラスのような瞳で見つめ……その場に膝をつき、黒々とした水溜りを指で弄り出した。白い指先で格子模様を描き、広げていく。

 ……「終わッたぜ、アズール。へへ、終わッちまッたァ」声音に愉悦を交えてデスドレインは首を巡らせた。アズールが顔を上げる。彼女の足元に描かれた幾つかの格子の中には、瞼のない目が描かれていた。

 デスドレインは肩を揺らして彼女の元へ歩み寄る。描かれた格子模様が遠慮無しに踏みつけられて、滲んで、潰れていく。

「なァ、アズール。殺したかッたのか?へへ……へへへ!殺してェのかよ、オイ……?まだ殺りてェか……アズールゥー……」

 少女は答えを返さず、口を噤んで立ち上がり、澱んだ碧い眼で彼を見据えた。デスドレインはせせら笑いながら、割れ砕けたショーウィンドウから夜に這い出して行く。アズールは破片に僅かに皮膚を傷つけられながら、その後を追って夜に融けていく。

「ピガッ、ピガガッ、オマタセシ、ガガガ……こちら『タイヤキ・シャーベット』……」

 理不尽な暴虐の嵐が去った後の店内を、火花を散らした配給オイランドロイドがヘドロ混じりの肉塊を配膳用オボンに載せ、残骸の前で立ち往生していた。程なくして損傷部から激しいスパークと煙を上げて爆発し、辺りに広がる血肉に鉄塊をトッピングして、果てていった。


3.

 数日後。イカルガ区画、ハリアゲ社の倉庫。缶詰の入った木箱や溶剤入りのドラム缶、廃棄予定のスクラップ群などが押し込められたその広い空間に、錆びたパイプ椅子に拘束された、年齢や性別、服装も疎な人間が十人。

 彼らは中二階の柵に寄りかかって眼下を眺める凶悪存在に震え、慄いていた。拘束具めいたニンジャ装束を纏った凶悪存在、デスドレインは、傍で蹲るように座り込んだアズールを見下ろしながら嗤い声を響かせる。

「アズール!アズールゥー!へへハハハハ!」

 この日のデスドレインは上機嫌だった。飼い慣らされた犬を呼びつけるかのように、己が少女に名付けた名を口にし、黒い蔓を伸ばす。

「へへ……良いモンやるよォ」

 黒い蔦が血に汚れたサブマシンガンを掴み取り、アズールに差し向けた。顔を上げ、淀んだターコイズブルーの瞳がそれを見つめる。ハリアゲ社の警備が所有していたものだ。当然持ち主はもうこの世にいない。

 アンコクトンに締め付けられる前にアズールは立ち上がり、サブマシンガンの銃身を掴んでひったくった。そして生きていた時の警備員がやっていたように構え、リロードし、抱えるように携えた。

「殺せばいいの?」

「オ?ヤル気あンじゃん。楽しくなッてきたか?なァ?なァ?なァ!」

 楽しいわけがない。アズールは顔を背けて口を噤み、鉄柵を支えに銃口を階下へ向ける……彼女は脚に違和感を覚えた。違和感……否、もう慣れてしまった感触だ。デスドレインの足元から這い上がったアンコクトンの触手がアズールの華奢な脚に巻き付いていた。瞬間、彼女の視界はグルリと回転した。

「うああッ……!?」

 倉庫の床に叩きつけられてアズールは倒れ込む。アンコクトンが主人の元にシュルシュルと帰っていく。中二階から投げ落とされた少女は、痛みに口をはくはくとさせ、デスドレインの方を見上げた。ニタニタと嗤いながら、彼はアズールを枝のような細い指で差す。

「へへへはははは!なァ、アズール!纏めて掃除とか、くだンねェだろ?……ハァーッ……くだンねェよ……一人ずつ殺すのがいいんだよ、こういうのはさァ……」

「……わかった」苦心して立ち上がり、サブマシンガンを構える。

 端から片付けていこう。銃口を向け、引き金を引く。

「ヤ、ヤメ」

BRATATATA !!!

「アバーッ!」

パンクスの装いをした男が蜂の巣になった。次。

BRATATATA !!!

悲鳴と血飛沫。ゲイシャの女が蜂の巣になった。次。

BRATATATA !!!

声。血。サラリマン。次……。

「なァー。ちゃんと数えてるか、アズール。へへへ……なァ、楽しいかよ、オイ……楽しくなッてきたか?」

 それまでつまらなさそうに耳の穴をほじくりながら殺人作業を眺めていたデスドレインが、アズールに声をかけた。

「殺すのッてさァ、楽しいか?ヘヘ……楽しいッて何かわかるか、アズール?楽しいッてのはさ……つまンなくねェッてことだよォ……へへへへ……」

「……」

 何の意図を持ってそんな言葉を投げかけてきているのか、アズールにはわからなかった。この男が自分に何を求めているのか、その黒い瞳に何を映しているのか、何も理解できなかった。……理解したくもなかった。

 ただ、従うことしかできなかった。デスドレインはニンジャで……自分を外へ連れて行ってくれる存在だった。荒廃しきった家族の檻を破った存在だった。そして、とても恐ろしい、悪魔のような存在だった。その邪悪さと暴力性に、何度も何度も恐怖した。けれど誰も助け出してはくれないので、ただ、従うしかなかった。

 BRATATATA !!!

 ……四人目。作業着姿の男。次……。

「……助けてください……」

 五人目、オーエルの絞り出した懇願の声に、少女はピタリと停止した。淀んだ空色の瞳がオーエルを見つめる。彼女は藁にもすがる思いで命乞いを始めた。

「助けて……助けてください!お願いします!こんな、こんなことは、もうヤメテ!」

「……こんな、こと……」

 ポツリと呟く少女に対し、女は必死で捲し立てた。アズールが動けないでいると、他の拘束された連中も一緒になって命乞いをし始めた。「助けてください」「助けてください」、と。少女の胸中には何かよくわからない感情が渦巻いていた。それをどう処理したらいいかわからず、彼女は無表情のままに固まっていた。

ハイ、ハイ、注目!

 乾いた拍手と悪魔の声が空間に響く。恐怖の視線が一斉にそちらに向けられた。遅れてアズールもデスドレインを見上げる。彼は目元を邪悪に歪ませ、口を開いた。

「へへへ……俺は優しいからよォ。テメェら、生き残りたいもんな?死にたくネェもんな?……なァ!?」

 残り五人は必死になって頷き、次の言葉を待った。デスドレインが愉快そうに続ける。

「だッたらよォ、ヘヘッ……テメェら、そのガキ殺せ。そしたら見逃してやる。それで終わり。ワカルカナ?」わざとらしい身振り手振りでの宣言。拘束された男女達は、茫然と佇むアズールを見ながらゴクリと生唾を飲む。その目つきには恐れと、そして……憎悪。「ハイ、じゃあ動けェー!ボーッとしてンじゃねェよ!」

「動けませんアバーッ!」正論を言った男が足元から湧き上がった黒い汚泥に引き裂かれて死んだ。残り四人。湧き出したアンコクトンの蔓が鎌首をもたげ、彼らの拘束を乱暴に破壊し仮初の自由をもたらした。彼らは敵意を剥き出して少女に襲いかかった。

 体格のいいカラテマンらしき男が、その場に立ち尽くすアズールを制圧しにかかった。彼がサブマシンガンを強引にはたき落とすと、床に転がって行ったそれをオーエルが拾い上げた。扱い方がわからずしどろもどろになった彼女をよそに、作務衣姿の男が少女を羽交い締めにした。皆、必死だった。生き残るため……そして……淡々と殺戮を繰り返してきた忌々しい少女を殺めるために。殺意を向けた。

 少女の……アズールの胸の底で、ドス黒く渦巻く感情が蠕動し、動悸を高まらせる。濁った空色の瞳が彼らを睨め付けた。

 ……助けてください?ふざけるな。助けてほしいのは私の方だ。こんなことはヤメテ?ふざけるな。こんなこと、やりたくないに決まってる!
なんで。なんで私を殺しに来るんだ。なンで、誰もあいつを殺そうとしないンだ!誰も助けてくれない。誰も救ってくれない!ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな……!

 突如カラテマンの頭部が砕け散り、全身がメチャクチャに引き裂かれ、肉片を撒き散らしながら飛散した。何が起こったのかわからず、困惑するオーエルの身体が潰れた空き缶のようにひしゃげた。透明な狼めいた獣が、彼らを殺した。動揺する作務衣男の拘束を引き剥がし、アズールはサブマシンガンを拾い上げた。BRATATATA !!! 闇雲なフルオート射撃が彼をミンチにした。

「ハァーッ……!ハァーッ……!ううッ……!」

 少女は息を荒げ、胸を抑えながら両膝をつき、涙目になって嗚咽を漏らす。不可視の獣の唸り声が掠れ、その存在と共に薄れて消えていく。空色の瞳から涙が零れ落ちる。なぜ泣いているのか、なぜこんなに苦しいのか、それすら彼女はわからなかった。わからなくなるから、嫌だった。わからなくなるから、心を閉ざしてきた。なのに、それなのに!

「あと一人」

 ……頭上から声がする。顔をあげ、声の方を見やる。流れ出る黒い汚泥に溶け込むようにしてベシャリと落ちてきたデスドレインが、のっそりと身を起こし、アズールに話しかける。

「あと一人、残ってンぜ」

 ひた、ひた、と黒い水溜りに足跡を残し、そしてそれは犠牲者から這い出た新たなアンコクトンに呑まれて潰えていく。

「なァ。アズール……あと一人。あ、と、ひ、と、り、だ!

「……ッ!」

 アズールは振り返って倉庫内を見渡した。見当たらない。残り一人……女子大学生の姿が無い。デスドレインの視線を薄い背に受け、少女は駆け足で倉庫を走り回った。銃口を向けながら物陰をひとつひとつ確認するも、見つからない。

「へへ、へへハハハハ!オーイ、アズールゥーッ!?そんなチンタラやッてるとよォー、置いてくぜェーッ!?ハハハハハ!」

 倉庫内に愉快げな悪魔の哄笑が木霊する。アズールは必死で探すがどうしても見つからない。もしや……既に逃げてしまったのでは?その可能性に思い至って、彼女は倉庫の入り口の方を見た。口笛を吹きながら、ズカズカと大股で歩いて倉庫を出て行くデスドレインの姿が視界に入り、アズールは息を呑んだ。

「あ……ま、待って……」力無くフラフラと彼を追い、ドクロめいた月の光が差し込む入り口の方へと向かう。外の空気が流れてくる。「待ってよ……お、置いて……置いていかないで……」紡ぐ言葉は辿々しい。

 デスドレインの背を追い、アズールは倉庫を出る……その直前。「アイエエエエ……」屋外から声が降ってきた。パァン!……と臓腑の叩き潰れる水音と共に、彼女の眼の前に人が落ちてきた。アズールは声にならない声をあげ、落ちてきたそれを見る。それは、最後の一人……女子大学生だ。

 彼女は拘束を解かれた後、周りの喧騒に紛れて逃げ出そうとしていた。デスドレインはそれを見逃さず、アンコクトンの蔦で捉え、倉庫のパラペット部に吊し上げていたのである。その身体に纏わりつくドス黒いヘドロが液状化し、主人の元へ同化していく。悪魔は嘲笑った。

 アズールは憎々しげにデスドレインを睨み、サブマシンガンの銃口を彼に向ける。

「アァ?なにしてンだ、テメェ……殺れンのかよ?なァ……なァ!アズール!」振り返ったデスドレインは声を張り上げながら彼女に近づいた。「殺せンのか……?テメェに!俺が!」

 アズールは涙を流し、泣きじゃくりながら後退り……銃を下ろした。無駄なことだからだ。銃弾を浴びせたところでこの男は死なない。何も変わりやしない。

「へへへ……そうだよなァ。俺がいねェと、何にもできねェもんなァ?アズールゥー……」

絶望に打ちひしがれ、少女は項垂れる……。

「……ア、アバッ……」

 虫の息となった女の末期の声に、アズールは目を見張った。デスドレインはその様子を見下ろしながら口を開く。

「……オォッ?まだ生きてンじゃん!人間ッてスゲェよなァー、マジで。生命の神秘ッてヤツ?……でもよォー、こりゃもうどのみち無理だぜ。なァ、アズール……?」

 悪魔は屈み込み、子供を慰めるようにして、涙ぐむアズールに視線を合わせた。ぬばたまの目が淀んだ碧い瞳を凝視する。

「ア……アバッ……ァ、ァ……」

 もはやローソク・ビフォア・ザ・ウィンドの如き女が苦しげに音を漏らし、光ない目で二人を見上げていた。あべこべになった四肢が痙攣し、弛緩した口からはとめどなく血が溢れ出している。デスドレインはアズールに向けていた視線を死にかけの女子大学生の方へやった。

「苦しそうだなァー。辛そうだなァ……死にてェよなァ?悲しいぜ、俺は……心苦しいよ。ヒデェよな、マジで」そう言い、視線を少女に戻す。既に彼女は唇を噛み締めて、銃口を女に向けていた。

 BRATATA !!!

 鮮血を散らして、最後の一人が死んだ。アズールは何か言おうと口を開いたが、言葉は出なかった。屍体から流れたアンコクトンがデスドレインに同化していくのを、ただただ眺めていた。

 やがてデスドレインが立ち上がり、歩き出すと、少女はサブマシンガンを抱えながらついていった。銃身はまだ熱かった。

 ……それから暫く、デスドレインによるアズールへの『殺人講座』は続いた。アズールが人を殺すと、デスドレインは気分を良くした。そのような日々のなか、段々と傷と痣の痛みは引いていった。新しく傷跡を刻み込まれることは少なくなっていき、やがて……デスドレインがアズールを傷つけることは無くなった。


4.

 アッパーガイオン東部、ゴリラ門周辺。死臭漂う、寂れた教会にて。

「まず……シリンダーを開く」「ホォ、ホォ」

「弾丸を……1発ずつ、装填していく。俺はスピードローダーは使わない……装填数は、6……口径は36」「ヘェー」

「シリンダーを閉じる……撃鉄を……起こす」「ホォーン……オイ、聞いてッか、アズール?」

 デスドレインはキャビネットの上に座り、足をぶらつかせながら、床にぺたりと座り込むアズールに話しかける。彼女は無表情のまま頷いた。

 二人にリボルバーの撃ち方を、実銃を用いてレクチャーするはシェリフめいた男。ガイオン・シティの中でも治安の悪いゴリラ門近辺で自警団活動をしている彼は、実際屈強な人物であるが……その面持ちは緊迫に塗れていた。

 シェリフめいた男は二人のやり取りがそれ以上続かないことを確認し、生唾を呑んだ。顔を引き攣らせながら、レクチャーを続ける。

「あとは……あとは、引き金を、引く……それで、終わり」

「ハーイ、ハーイ!センセイ、質問!」

 デスドレインがケタケタと笑いながら挙手した。シェリフめいた男は心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥り、滝のように汗を流す。

「それさァ、引き金引いたらさァー、どうなンの?」

「……銃口から、弾丸が……発射、される」

「フーン。じゃあさ、じゃあさァ!発射されたら!?」

 愉悦に声音を染めたデスドレインに戦慄し、男は室内を……長椅子に縛り付けられた、彼の妻と息子を見やる。幼い息子は先刻の殺戮やニンジャ存在感に当てられて気を失ってしまっている。妻は悲痛な表情でシェリフを見つめ、啜り泣くばかり。

 悪魔が何を求めているかは理解できる。

「……こう、なる」

 彼は苦し紛れに、講壇に備えられた美しい花を飾る花瓶に銃口を向けた。BLAM !!! それは粉々に砕け、水や花の残骸を撒き散らして床を汚した。

「ヘェー、ヘェー……なァ。それさァ、人に向けて撃ッたらどうなンの?」ニタニタと目元を歪ませ、デスドレインは言葉を紡ぐ。「俺さァー、学がねェからさァー、全部見せてくれねェと、わッかンねェの!なァ、なァ、なァ!?人撃ッたらどうなンだよ!教えろよォ!」

 心底嬉しそうな声で捲し立てられ、男は慄き、掠れた声で必死に言葉を搾り出す。

「や……やめてくれ。話が違うだろ……?こ、これの、これの使い方を教えてくれれば、見逃してやるって、アンタ、そう言ったじゃないか……」

 彼は既に物言わぬ死体と成り果てた神父や見知らぬ男女を見やる。目前のニンジャは彼の腰に吊るされたリボルバーに興味を示し、撃ち方を実演してみせろと……そうすれば家族全員見逃してやると、確かにそう言っていたのだ。

「アァー?ンなこと言ッてたか?」「言ってた」小首を傾げたデスドレインに、アズールが口を挟む。「マジ?じゃあそれ、無しで」彼は平然と約束を反故にした。ナムアミダブツ……おお、ナムアミダブツ。なんたる理不尽か。邪悪の権化たるデスドレインはキャビネットから降り、男に歩み寄る……。

う……撃つなら私を撃って!」その時声を上げたのは、男の妻だった。「私、私はどうなってもいいから……!その代わりに、家族のことは、どうか……!」

「お前、何言って……」シェリフめいた男は驚愕に目を見張り、彼女を見やる。その悲愴な決意に満ちた顔に苦慮しながら、その言葉を、意思を汲み取った。そしてデスドレインに向けて言葉を発した。

「……頼む。どうか、どうか……せめて、あの子だけでも見逃してくれッ!俺たちのことはどうなっても構わな」「アバッ、ゴボボッ、オゴッ」

 夫妻は不快な水音に背筋を凍らせ、幼き我が子を見た。デスドレインの足元から這い出た黒い触手に巻きつかれて拉げた小さな身体が激しく痙攣し、目、鼻、口からコールタールめいた汚泥を垂れ流す。そうして命の灯火は呆気なく暗黒に潰えた。

「オゲェーッ。何テメェらだけで盛り上がッてンだよ」汚らしくゲップし、ヘラヘラと嗤いながら、デスドレインが幼い死体を横目に見る。「あーあ……お前。お前がさっさと撃たねェからさ……死んじゃった。カワイソ。へへへ」

 女は呆然としていて、現実の惨状を受け止められていないようだ。シェリフめいた男は……震え、顔を引き攣らせながら笑っていた。アンダーからのしあがり、ヴィジランテ活動に勤しみ、そして家庭を得て掴み取った、過酷ながらも幸福であった日々のソーマト・リコールに浸り……そして拳銃をデスドレインに向けた。

 人に向けて撃てばどうなるか、教えてやろう。撃鉄を起こし、引き金を引く。BLAM !!!

「グワーッ!……ハハハハハ!」弾丸は湧き出したヘドロめいた壁に阻まれた。デスドレインは痛がるジェスチャーをしたが、「これじゃ見えねぇか!ヘヘヘハハハハ!」と戯けて言った。アンコクトンの壁が弾ける気泡めいて断続的な空白を作り、嘲笑う悪魔の姿が露わになる。

 BLAM !!! BLAM !!! BLAM !!!

「あッぶね!」言葉とは裏腹に、焦る様子もなくヘラヘラとしながらわざとらしい振る舞いを続けるデスドレイン。空白を狙って放たれた弾丸は虚しく暗黒に呑まれて潰えていった。

 男は眼を血走らせながら、どうしようもない絶望と恐怖を味わった。弾丸は残り1発。悪魔はそれを見越してか、挑発的に壁を融解させ、邪悪な喜悦に眼を弧にしながら、ゆったりとした足取りで彼に迫る。

(((撃ってどうなる?また防がれるだけではないか?そして、リロード……リロードをしている間に、あの、悍ましい何かに呑み込まれる……)))

 歯の根が合わずにガチガチと音を鳴らす。恐怖と混乱が思考を掻き乱す。シェリフめいた男の血走った眼、その視界はデスドレインの後方……惨劇を仏頂面で見つめ続ける少女を捉えた。瞬間、彼のニューロンは加速した。

(((……きっとアレも同類だ。子供の見た目をしているだけの悪魔だ。悲鳴の一つもあげず、凶行を静止するわけでもなく、ただ見ているだけ。……何よりこの悪魔の傍にずっと居た。仲間だ。悪魔の仲間!)))

 少女の抱える背景や事情など、もはや知ったことではない。男は狂気的に笑い、涎を垂らしながら銃口をアズールの方に向けた。

 デスドレインは真顔になった。

 BLAMN !!!

「アバーッ!?」

 ……シェリフめいた男の額が砕け、血肉や脳漿を一面に撒き散らかした。引き金が引かれる瞬間、暗黒の壁から飛び出した触手が男の腕を、手をへし曲げ、銃口を彼自身の頭部に向けさせたのだ。触手はそのまま腕をめちゃくちゃに潰した。リボルバーが手元を離れ、重たい金属音を響かせて床を転がる。触手の先端が花弁めいて開き、男の上半身を呑み込み、貪り喰らった。下半身だけになった死体がフラフラと蹌踉めき、斃れた。

 その間、デスドレインは無表情だったが……彼の後方に近づく気配に気づくと、すぐにいつも通りの悪魔じみた邪悪な笑みに顔を染めた。背後を振り返ると、アズールが拾い上げた拳銃を見つめていた。

 ニヤケながらデスドレインは男のホルスターを探り、弾丸を乱雑に引き摺り出した。「そらッ」餌を撒くように弾をバラバラと床に散らす。少女が散乱する鉛弾を濁った空色の瞳で見渡す。裸の弾丸を衝撃に晒す非常に危険な行為だが、そんなことは彼の知ったことではない。

 アズールは無理くりにシリンダーをこじ開けると、しゃがみ込んで床に散らばった弾丸を拾い上げ、ぎこちない手付きで装填を進めた。彼女が最後の1発を手に取ろうとすると、細長いアンコクトンの蔦がそれを摘みとって横取りにした。アズールは小さく舌打ちし、別の弾を拾って込めた。そして無骨な拳銃を両手で持ち、腕を上げた。

「……ナンデ。ニンジャ、ナンデ」女は呟く。「ナンデ……ナンデこんな酷いことができるの」悲痛な言葉だった。

「ナンデェ?ナンデ、ッてそりゃお前……ナンデだろうなァ?へへハハハハ!ナンデだと思うアズールゥー!?」

「知らない」

 愉悦の声音に素っ気なく淡々と返し、アズールは小さな両手に力を込めて拳銃を構える。女は少女の冷たい表情を憐れむような眼で見た。それからデスドレインをキッと睨みつけた。

「こんな……こんな小さな子にまで、人殺しをさせるなんて……ッ!アナタは、最低の……ッ!」

「アァ?……ンだよお前、そういう感じ?」ウンザリした様子でデスドレインは肩をすくめて呆れた。女は意に介さず、もう一度アズールの方を見た。心底哀しそうな顔だった。

「アナタも……本当はこんなこと、したくないでしょう……?無理矢理、脅されて、仕方なく……そうでしょう……?コワイだよね……コワイだから、従って……そうだよね……?」

 慈しみの言の葉を空気に乗せ、眼には涙。極限状況下に置かれ混迷し、崩壊寸前になった自我が防衛本能によって無理くりに繋ぎ合わされたがために、彼女はある種のトランス状態となっていた。女は尚も言葉を紡ぐ。

「ゴメンナサイ……何もしてやれなくて……こんなことをさせてしまって……助けてあげられなくて、ゴメンナサイ……どうか、どうかアナタに救いがあらんことを……」

 彼女の振る舞いと言動に、デスドレインはつまらなさそうに欠伸をしていた。一方のアズールは……淀んだ碧の眼で女をジッと見つめている。冷たい眼差しだった。

 ……この人は何を言っているんだろう。この人は私の何を知っているんだろう。何も知らないくせに、薄っぺらい綺麗な言葉だけ投げかけてくる。

 黒い感情が胸の奥で鎌首をもたげ、沸々と湧き上がってくる。アズールは昔通っていた小学校と、それから、本来なら今現在も通っていた筈の中学校の教師たちを思い出していた。

 ……遠くから聞こえの良い綺麗事ばかり言ってくる大人たち。アイツらと同じだ。何もわかろうとしないくせに……くだらない自己満足と義務感に酔っているだけで、何もしないくせに。

 撃鉄を起こす。引き金に指を添える。女は謝罪の言葉を述べながら眼を閉じて最期を待った。

 BLAMN !!!

「うッ……!?」

 華奢な両腕に響いた反動、その痺れと痛みに呻き、アズールはフラついて近くの柱に背をつけてもたれかかる。反動に大きく跳ね上がった銃身から放たれた弾丸は、狙いを逸れて女の頭上を通り過ぎて壁に穴を開けた。女は閉じていた眼を開き、表情を強張らせる。

「ヘヘヘへ!ダセェの!」

 デスドレインがアズールを指差して愉快そうに言い、暗黒の触手を伸ばして彼女の手元からリボルバーをひったくった。そして女に向けて銃口を向ける。

「アズール、アズールゥー!よく見てろォ!へへハハハハ!」

 BLAM !!! BLAM !!!

「ンアアアッ!!」

 急所を外した弾丸に肉を抉られ、女が悲鳴を上げた。鮮血が舞い散る。デスドレインは小首を傾げた。

「アレ?ッかしィなァ、頭狙ったんだけどなァ?結構ムズイなコレ!なァ!」

 BLAM !!! BLAM !!!

 迸る鮮血と響き渡る絶叫。頭部を狙った射撃を外し……否、彼は初めから頭など狙っていない。大袈裟に反動によろめく素振りをみせながらも、実際その射撃に一切のブレは無い。わざと外しているのだ。悪魔は嗤い、アンコクトンの触手を伸ばして女の銃創を抉り、苛んだ。

「ンアァァァ……ッ!!」

 血肉をほじくり出され、赤黒く艶がかかった弾丸が摘出される。激痛に叫ぶ女に向けて、再び鉛弾が放たれた。

 BLAMN !!!

「ア、アアア!!ア……アイエエエ……」

 女は血みどろになって、絶え絶えの悲鳴をあげる。眼の焦点は合っていない。瞼がひくついて、ゆっくりと閉じかける……が、糸めいて黒く細い触手がその薄い瞼を突き刺して無理やりにこじ開けさせる。デスドレインはリロードの様をジックリと見せつけ、再び銃弾を見舞う。

BLAM !!! BLAM !!! BLAM !!!

「……ア、アバッ……ァ……子、だけ……は……ど……か」死に体で掠れ声を絞り出す。悪魔がニヤケながら耳を立て、言葉を返した。「へへ、イイぜ、あンた。イイ感じになってきた……ああそう、テメェのガキはもう死んじまッたぜ。見てたろ?」口元に邪悪な弧を浮かべ、彼は反応を待った。

「……その……子……女の子……アバッ……!解放、して、あげ……てェ……」女は震えながらアズールの方を見、言葉を紡いだ。デスドレインは目を丸くした。「オオ、マジか。スゲェな、あンた。そいつに撃たれてンのにさ……外しちまッたけど。へへ、もう正気じゃネェのな」そうしてまた、銃声が響いた。敢えて銃弾を明後日の方に撃ったり、肉体を掠らせたり……ジワジワと命を削っていく。

 銃声と弱々しくなっていく悲鳴、アズールの解放を懇願する声。アズールは……柱に背を預けたままズルズルと腰を下ろし、蹲るようにして膝を抱えて座り込んでいた。両膝の間に頭を埋め、時が過ぎるのを待つ……。

 ……どれほど時が経ったのだろう。女はもはや息があるのが不思議なほどの、悲惨な有様であった。

「こ……ころ、し……もう、殺して……」

 断続的に途絶えさせながら末期の声を発する。苛まれる加虐のなかで、繋ぎ合わされた自我がとうとう瓦解したようだった。その様を悪魔は品定めするような眼で眺める。

「ヘヘ……仕上がッてきてンなァ……イイぜ、スゲェイイ……もっと痛めつけて、殺して、そンで抱いてやるよォ……」銃に視線を下ろし、勿体ぶるように再度リロードを行う。その間も女は呻き続けていた。デスドレインが顔を上げる……「ゴアアァアア!!」

 突如轟いた獣の咆哮。デスドレインは眼を見開いた。虫の息であった女の肉体が引き裂かれ、潰され、一瞬のうちに血煙と肉片と化して散っていく。空気が微かに揺らぎ、巨大な狼めいた不可視の獣の輪郭が朧げに浮かぶ。デスドレインがアズールの方へ振り返った。

「鬱陶しいから、黙らせたの」少女は抱えた膝に顔を埋めながら言葉を紡ぐ。「……悪い?」くぐもったその声は上擦って、震えていた。

「……」

 デスドレインが無言で彼女の元へ歩み寄る。彼の足音と近づく気配に、少女は身を守るようにして蹲る身体をより丸めた。彼はアズールの髪を掴み、引き摺り出すようにして無理矢理顔を上げさせた。

「ンアァ……ッ!」「アズール」

 ただ一言、彼女の名を口にする。ぬばたまの瞳が、涙に潤みながらも敵意を宿した碧の瞳を見る。アズールは嗚咽を漏らしながら反抗的な目付きで彼を睨んだ……次の瞬間。

「……GRRRR !!!」 「グワーッ!?」

 イヌガミ・ニンジャの化身が唸り声をあげながらデスドレインに飛びかかった。鋭い爪と牙が彼の身体をズタズタに引き裂き、吹き飛ばす。「グワーッ!!」裂かれた色白の身体から黒い血が迸る。その様をアズールは茫然と眺めていた。

「……あ」我に返り、震える声を発する。濁った空色の瞳に宿った敵意は消え失せ、少女は怯えたような目付きになった。弱々しく這いながら、彼らの方へと向かう。胸の奥で燻ろうとする何かを噛み殺し、抑え付けながら。

「ゴオァアアア!!」「グワーッ!!」

 荒ぶる不可視の獣に暗黒物質の触手が絡みつき、締め上げる。獣が唸りながらそれらを引きちぎる。触手が鞭のようにしなり、獣を打ち据える。不可視の存在はまるで意に介さず、デスドレイン本体に飛びつき、押しかかって床に叩き伏せた。巨獣の開かれた顎をアンコクトンが堰き止めようとしたが、獣は身を逸らして容易く躱し、デスドレインの喉元に喰らい付いた。

「ゴオアアアアッ!!」「グワーッ!!」

「や。やめろ……やめろ!殺すな!」少女は叫んだ。「こ、殺……殺さないで……殺さないでェ!」悲痛な叫びだった。アズールはなんとか立ち上がり、足をもつれさせながら、仰向けに転がったデスドレインに駆け寄る。不可視の獣が身動ぎして顎を離し、彼の首に食い込ませていた牙を引き抜いた。暗黒物質の液体が牙の跡から噴き出す。

「嫌、嫌だ……嫌……!こ、この人が、この人が死んだら……誰も、私を……」

 涙声で辿々しく言葉を紡ぐ。燻る何かを胸の奥底に沈め、デスドレインの身体に縋りつく。不可視の獣の存在が薄れて消えていくと、仰向けに倒れていたデスドレインが徐に上体を起こした。アズールは身を仰け反らして後退り、尻餅をついた。

 裂傷部から暗黒物質が沸き、黒い泡を溢れさせながら、千切れかかった部位や穴の空いた肉体を繋ぎ合わせ、埋めていく。デスドレインは痙攣しながら立ち上がった。

「アー……痛ェ。畜生」

 メンポを毟り取り、ヘドロめいた黒い血の塊を吐き出し、頭をバリバリと掻きむしる。そして床にへたり込んだ少女を見下ろした。彼女は口をキュッと結んで身を竦めさせた。デスドレインは気怠げに口を開く。

「……アズール。その犬ッコロ、躾けとけよ……」

 言い終えると彼はフラつきながら近くの長椅子にどかっと腰掛けた。アンコクトンが着実にその肉体を修復していく。デスドレインは瞼を閉じた。

 アズールは恐る恐る移動し、彼の対面に佇んだ。そうして暫く、暗黒物質がデスドレインの肉体の損傷を塞ぎ込んでいくのを眺めていたが……彼が寝息を立て始めたことを確認すると、彼女も椅子に横たえ、とうに嗅ぎ慣れた血肉の匂いと死臭が立ち込めるなか、眠りについた。


5.

 アズールはサブマシンガンを扱うようになった。他の銃よりも弾が当てやすく、扱いやすく、そして……『殺しの感触』が他よりも幾分か薄く感じられるからだった。狙いをつけて標的を……人を見据えての銃撃より、闇雲なフルオート掃射の方が気が楽だった。当てずっぽうでも、引き金を引けばそれだけで良かった。それは殺人行為を機械的な処理に置き換えた。

 気が楽、といってもそれは気休め程度のもので、そもそも彼女にとって無意味な虐殺は好ましいものでは無い。不快だ。だがそんな彼女をよそに、デスドレインは面白がりながら人を殺す。悪戯に殺す。犯して殺す時もあるし、殺してから犯すこともある。嗤いながら、愉快そうに。アズールにはその理由も、感覚も、理解できなかった。

 ニンジャだから面白がって人を殺せるのだろうか?なら自分もニンジャらしく振る舞えば、ニンジャらしく主体的に虐殺を行えば、面白さがわかるのだろうか。……別にわからなくていい。わかる必要も、きっと、無い。

 アズールは先日の教会での出来事を恐れていた。不可視の獣がデスドレインに襲いかかった瞬間を、その時己の中で燻っていた何かを恐れた。その何かが齎すであろう変化を、その可能性を恐れた。変化は、恐ろしいことを招く。故に彼女はその何かを胸の奥に、奥に、ずっと奥にしまい込んだ。そうしてまた、心を閉ざした。あの日、あの二人に連れ出された時のように。

 言われた通りのことを、教えられた通りのことをする。それでいい。どうせ何もどこも変わらない。それでいい。今まで通り……。


────────────────


 アッパー・ガイオン南東部、トンボ地区の街外れ。色彩を抑えた品格あるネオン光がひっそりと夜闇に光を添え、キョート貴族の住まう屋敷めいた外装の建造物を奥ゆかしく照らす。歴史ある観光スポットのようにも見える佇まいだが、実際のところ、この屋敷は退廃ホテルである。

 ネオサイタマのそれは、猥雑なネオン看板を掲げた高層ビル、或いは過激な電光装飾に彩られた西洋城めいた外観が多く、また、同様の目的の施設が群生して周辺一帯に退廃ホテル街を形成する。

 一方、ガイオン景観法によって、建築物の高さからネオン看板の色調に至るまで厳しい制限が課せられた、此処ガイオン・シティ上層においては、ネオサイタマのような色彩溢れる退廃ホテル街は見られない。貴族屋敷めいた外観の退廃ホテルが、区画の境目、観光地から離れた地点にひっそりと聳えるばかりである。アンダー・ガイオンにおいては……言うまでもあるまい。

 『平安の庭』の立て看板を構える屋敷状退廃ホテル。しじまの夜を笙リード音が装飾する。それは格調ある音色であったが、今この時の静寂……死の静寂に奏でるには虚しさが優っていた。

 ホテル内、エントランスホール。シックな壁や気品あるカーペットが敷かれた床を、血や臓物、暗黒物質が出鱈目に染め上げ、趣味の悪い落書きのような惨状を彩っていた。ロビーに掲げられた『少し憩ってください』『先端のみ』『朝焼けのコーヒー』『身体火照ってしまう』などと優雅な字体で書かれたショドーが血染めに混じり合い、ベッタリと赤黒に穢れて滲む。

「アバッ、アババッ……待て、待ってくれ」

 ホール中央、臓物の沈んだ赤々しい噴水、その外縁部に背をもたれ荒く息を吐くのはザイバツ・シャドーギルドのニンジャ。血塗れの薄茶色ニンジャ装束、破損した鋼鉄メンポ。彼の名はスライバジャー。ザイバツの邪悪な資金源の一つたるこの退廃ホテル『平安の庭』の経営者だ。彼は眼前に立つ二人のニンジャを……即ち襲撃者らを……手で静止し、血を吐きながら懇願した。

「お、俺を殺すな……損をすることになるぞ!」

 必死の形相だった。無理もない。ポン引きや美人局行為を、彼が所有する奴隷オイランに行わせ、愚かなモータルからカネを巻き上げて崇高なるギルドに上納する。客の入りは多くはないが、高く設定した単価によって元は取れる。そう、いつもと変わらぬ日であった。そのはずだった。奇妙な二人組が現れるまでは。

 突如現れたのは、歳の離れた男女二人組。女の方は未成年。それも十代前半、年端もゆかぬ小柄な少女だった。彼女はサブマシンガンを抱えていた。その少女を連れるは、拘束具めいた装束を纏った、異様な風体の色白な痩せた男。スタッフも、居合わせた客も、彼らの不穏なアトモスフィアに慄いた。

 彼らを見渡して、男は嗤った。その足元から湧き上がった暗黒物質が蔦を伸ばして人々を貪り食らった。少女が構えたサブマシンガンの掃射が、人々に向けて無慈悲に振り払われた。そうして殺戮のショーが幕を開けた。

 緊急アラートと監視カメラ映像に異常事態を知らされ、スライバジャーは現場に急行した。駆けつけた先に広がるは凄惨な虐殺のブラッドバス。異変に気づいて逃げ出そうした客室の利用客らは部屋に雪崩れ込んできた暗黒物質に呑まれ、挽き潰されて死んでいった。

 この由々しき事態を前に、まずスライバジャーが案じたのは自身の処分のことであった。ケジメで済むだろうか?これまでノルマ以上の売上金を上納してきた忠義や、チャの作法、ハイクの才、それらを正しく評価してくださるだろうか?そういった思案を。

 そして次に、相手の不遜なアイサツによって敵の名を知り、驚愕した。デスドレイン。あの懲罰騎士でさえ殺しきれなかったという恐るべき存在!オミヤゲ・ストリートの破壊活動もマグロアンドドラゴン社の襲撃も、このニンジャが主犯格であったと聞く。

 どこまでが正確な情報かは判断しかねていたが、この場合、正確さは然程重要ではない。噂が流れる背景、土台……そのような情報が真実であると思わせる恐ろしさ。実際、眼前の敵は噂通りの存在であった。

 シコミ・ニンジャクラン由来の数多の暗器は流動する暗黒物質に悉く破壊され、スライバジャーは瞬く間に無力化されてしまった。ニンジャにとって最大の武器たる素手のカラテを振るっての抵抗も、デスドレインの規格外のジツの前にはただ無力であった。

 追い詰められたスライバジャーは命乞いをした。通ればヨシ、通らねば……ナムアミダブツ。血混じりの脂汗に額が滲む。

「カネならやる。ギルドの情報もだ!頼む、見逃してくれ……」

「カネェ?ヘヘッ、こう見えて俺さァ、カネモチなんだ……ダルマ売っ払ったカネがあンだよ」

「ダ……ダルマな?」

「もう全ッ然減らねェの!……ッつーかよォ、カネなんて殺して奪ッちまえばいいじゃねェか。困ンねぇよ実際。テメェのカネだって、ブッ殺して奪えばオシマイ。だよなァ」

 ヘラヘラとした態度でデスドレインが傍に立つアズールに視線を向ける。彼女は無表情のままだ。彼はその頭を抑えつけ、髪をグシャグシャと撫で回して乱れさせた。少女はぼんやりとしていて、何の反応も返さない。デスドレインは首を傾げて目を眇め、スライバジャーの方へ向き直った。

「ならば、ギルドの、ザイバツの情報を……カネより価値がある」

 ザイバツニンジャは表情を強張らせて言葉を発し、酸鼻な血の匂いに咽せ返りそうになるのを堪えて返答を待つ。

「ヘェー。じゃあさァ、アイツがどこいるか教えてくれよ」

 悪魔じみた影が揺らぎ、足を踏み出す。その足元には黒い水溜りが滲む。スライバジャーは眉根を寄せた。

「アイツ?誰だ……誰のことを知りたい。教えてやる……俺を見逃すならば、だが」

「ダークニンジャ」告げられた名前にスライバジャーは息を呑んだ。デスドレインは言葉を続ける。「ノロイの落とし前つけさせてやりてェんだよ。ムカつくぜ……居所知ってンのかお前、アア?オイ。どうなンだよォ!」

「ダ、ダークニンジャ=サン……ワカル、ワカル。ああ。教えてやるさ……」

 嘘だ。彼は嘘をついた。かの懲罰騎士の居所などスライバジャーは知らぬ。そも、ロードの覚えめでたきニンジャ戦士の情報を知ろうとすること自体が畏れ多いことだ。デスドレインは不機嫌そうに目を細くした。

「知らねェだろ。しょうもねェ嘘吐きやがって」

「……!」

 アンコクトンが噴き上がる。デスドレインが踏み込む。ワン・インチ距離。

 ここだ。

 スライバジャーは眼光を鋭くし、怯えた表情を一転させ、殺戮者の顔となって叫んだ。「モハヤコレマデーッ!!」同時に彼のサイバネ置換された鋭利な刃めいた肋骨がニンジャ装束を突き破って展開された。奥の手のヒサツ・ワザ。殺傷力は非常に高いが、瞬時の展開を可能とさせるためにサイバネ機構は極力簡略化されており、リーチは短い。故に彼は、デスドレインが最適な間合いに踏み込んでくるのを待っていたのだ。デスドレインは興味なさげな顔でそれを眺めた。

 跳ね上がった暗黒物質がスライバジャーの全方位から瞬く間に迫り、その全身を肋骨ブレードごと包み込んで球状を模った。直後、急激に圧縮。内部に響くくぐもった断末魔と爆発四散、それすら呑み込み、喰らった。ナムアミダブツ。球状を崩して粘っこく液状化したアンコクトンが床に広がっていった。

 視線をアズールの方に向ける。サブマシンガンを抱え、人形めいた虚無の表情で、彼女はただ佇んでいる。

「こっち来いよ、アズール」声をかけると少女は、散らばる血や臓物を、広がる黒い汚泥をスニーカーで踏み潰しながら歩き、デスドレインの側に来た。彼は暗黒の蔦を伸ばして彼女の身体に巻きつけ……直ぐに解いた。アズールの顔を覗き込む。淀んだ碧い瞳を凝視する。

「……」「……」二人とも無言だった。デスドレインが周囲に広がる惨状を見渡した。そこらに転がる死体に、その顔に視線を向け、見比べるように再度視線をアズールの顔へと戻す。言葉が交わされる事はなかった。

 それから暫くして、デスドレインは少女を連れて適当な客室に入った。芳醇なお香薫る座敷めいた内装をした、奥ゆかしくも何処か官能的なアトモスフィアを漂わせる部屋が彼らを迎え入れた。扇情的な淡い色をしたLEDボンボリの微かな光が、二人の影を描く。客の死体はない。空室だったようだ。

 デスドレインはメンポを剥がして放り捨て、ベッド・フートンの上にぶっきらぼうに腰掛けて俯いた。アズールは部屋の隅に移動し、壁にサブマシンガンを立てかけ、ぺたりとタタミに座り込み、痩身の男を見つめる。外から微かに聴こえる笙リード音と、時計の針の音だけが響く静けさのなか、空虚な時間が過ぎていく。

 ……草気も眠るウシミツ・アワー。アズールは重い瞼を擦りながらゆっくりと立ち上がり、フートンに腰掛け俯くデスドレインの方へ近づいた。彼は身動ぎひとつしていなかった。

 少女は彼より遅く眠り、彼より早く起きる。もはや習慣となった行動。自分が眠っている間に、彼が自分を置いて、居なくなってしまうかもしれない……その不安と恐怖から来る強迫観念は、ランペイジが居なくなってから、より強く彼女の心を縛りつけていた。だから、確かめなければいけない。彼が寝ているかどうかを。でなければ、眠れない。

 アズールはデスドレインの前に立ち、彼を見つめた。彼は俯いたままで、時折不明瞭に小さく呻いている。まだ起きているのか、眠って夢でも見ているのか。……ノロイに苛まされているのか。確かめるべく、その顔を覗き込む。

 ぬばたまの瞳と目が合った。

 まだ起きていた。そう思い、部屋の隅に戻ろうとするアズールの華奢な腕をデスドレインが掴んだ。枝めいた生身の細い指が、黒い爪が、少女の白い肌に喰い込む。慣れない感触だった。彼女が振り向く前に痩躯の男はその腕を引っ張り、無理くりに引き摺り込むようにして、アズールをフートンの上に仰向けに押し倒した。押し出される肺の空気を吐息に漏らし、少女は彼の顔を見上げる。悪魔は死体の女を抱くときと同じ顔をしていた。

 その悍ましい表情をぼんやりと空色の瞳に映しながら、アズールは想起する。

 前にもこんなことがあった。まだ首輪を付けられていた時だ。ノロイに蝕まれ、様子のおかしくなったこの人に……今と同じような顔をしたこの人に、こんな風にフートンに引き摺り込まれて、服を脱がされて、身体を触られて、それから……それから、どうなった?

 ドレスに手をかけられ、着衣が乱れてはだけ、少女の小さな肩が露わになる。淡い紫色のLEDボンボリライトに照らされた白い肌に、デスドレインは黒い舌を垂らして舌舐めずりした。

 あの時と、だいたい同じ。違うところは……そうだ。あの時はまだ、ランペイジがいた。おかしくなる前のランペイジが。それで……それで、異変に気づいて目を覚ましたランペイジが、この人を荒っぽく止めて、助けてくれた。今はもう彼は居ない。ならばもう、このまま身を任せるしかない。それでいい。

 ……本当に?

 ドクン。アズールは己の心臓が強く脈打つのを明確に自覚した。動悸が早まる。段々とニューロンが活性化し、ジワジワと加速していく。胸の奥底に沈めていた何かが燻り出す。嫌だ。何が嫌?

 ドクン。触れてきた男の指が、素肌をゆっくりと、蠱惑的になぞる。覆い被さるようにして、悪魔の痩躯が寄ってくる。熱帯びた息が首元に触れる。黒く長い舌が鎖骨を這う……。

 ……嫌だ。言いなりになって、嫌なことをされるのも、させられるのも。なら抗えばいい。檻から抜け出す一歩を踏み出せば。本当はそれを望んで……違う。それは恐ろしい事だ。自分から行動を起こして、変化が起きるのは、本当に、本当に恐ろしい事だ。だから……だから!……だから?

 ……「グワーッ!?」

 デスドレインが目を見開いて上体を仰け反らして悶絶した。少女が彼に刻まれた『咎』のカンジに爪を立てて引っ掻き、抉ったのだ。彼女はフートンから死に物狂いで這い出し、四つん這いのまま部屋の隅に駆け、壁に背をつけてサブマシンガンを抱きしめ、デスドレインを見た。

「……テメェ!アズールッ!!」立ち上がり叫んで、アズールを刺々しい目付きで睨みつける。アンコクトンが彼の周りから噴き上がって鎌首をもたげ、攻撃態勢を取った。

「わ、私!私は!」少女は抱えた銃をより強く抱きしめ、声を上擦らせながら叫んだ。イヌガミ・ニンジャのソウルが顕現し、庇うように、守るようにして、彼女の前に立つ。

「私は死んでない……私はまだ、死ンでない!私、生きて……生き、て……ッ」

 絞り出したその声は段々と涙声になり、言葉尻は曖昧になった。大粒の涙にターコイズブルーの瞳を潤わせながら、彼女は恐れた。デスドレインのアンコクトンを。彼の表情を。そしてそれ以上に、自分の行動の意味を、燻る何かを理解した自分を恐れた。それはきっと、怒りだった。

 怖い。踏み出そうとする心を引っ込める。駄目だ。これは、違う。私はこんなこと、望んでいない。本当に?本当に……。燻り出した怒りに蓋をする。沈める。それでも、見て見ぬふりはもうできなかった。何かの正体を知ってしまったから。そして少女は、自分が何を望んでいるのか、何が嫌なのか、もう何もかもわからなくなってしまった。

 溢れる感情の整理ができずに泣きじゃくり出したアズールを、彼女の前に立つ透明の獣を、デスドレインは見据え……それからかぶりを振り、わざとらしく両手を挙げてホールドアップした。

「……ヤメだ、ヤメ。面倒クセェ。くッだんねェ……寝てろよ」

 湧き出した暗黒物質が融解し、彼の身体に染み込むように戻っていく。デスドレインはフートンに座り込み、アズールを一瞥してから、バツが悪そうに頰を掻いた。

 少女は泣きしきり、不可視の獣に縋りついた。獣は彼女に寄り添った。そうして透明の毛皮に包まれながら、彼女はデスドレインが眠りにつくのを待とうとしたが……やがて泣き疲れ、丸くなって寝静まった。この日は、アズールの方がデスドレインより先に眠りについた。

 翌朝。泣き腫らした眼を擦りながら、少女は身を起こした。不可視の獣が身動ぎ、存在を消失させる。アズールは乱れていた衣服を正した。それからデスドレインの対面側に向かい、タタミに座り込んで彼が目を覚ますのを待った。

 オブシディアン装束のニンジャに追い詰められたデスドレインに助けを請われたときのことを、教会での出来事を、昨夜の出来事を想起し、そして、彼女は自分の行動をひどく恐れた。変化を恐れ……その時彼女は、カーテン越しに室内に差し込む陽の光に気づき、眩しそうにそれを見た。

 望まなくとも日は昇り、明日が今日になる。あんなに恐ろしいことが起きても、何食わぬ顔で太陽は忌々しく顔を出し、彼女のことなど誰も気にかけず、平然とその日を生き始める。

 そうだ。何も変わらない。どうせ何もどこも変わらない。だから、無駄なんだ。それでいい、それで……。

 やがてデスドレインが瞼を開け、気怠げに身体を起こした。ぬばたまの瞳と空色の瞳が交錯する。男はメンポを顔に貼り付けてやおら立ち上がり、部屋を出る。

 その後ろをアズールがついていく。これまで通りに。置いていかれないように……。




マーダー・レッスン・フォー・グッディ・ガール 【終】

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