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御所坊ハ百年の歴史が登場!

ギネスに載っている古い宿は多いが、800年前の温泉街の詳細や宿の事が分かる資料が有るのは有馬温泉だけです。

藤原定家の明月記より 1203年~

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1203年、鎌倉初期の最も教養のある人物と言われた藤原定家の明月記をみると建仁三年(1203年)六月末から有馬に湯治、上人湯屋に滞在し山奥の滝を見物し、女体権現に参詣し七月十日帰路についた。

元久二年(1205年)七月七日、未明に京都を出発した定家は日の出ころ赤江から乗船し、日没後神崎について一泊し、翌日早朝神崎を立ち午後有馬に着き上人湯屋に入った。当時、京都から湯山(有馬)まで、およそ一日半の行程だった。江口(大阪市東淀川区)には遊女屋があって旅客を接待していたようです。

承元二年(1208年)十月にも有馬に来ているが、この時は船で水田(吹田)まで行き一泊し翌日の午後3時には有馬に着いている。

平頼盛の後室が湯口屋に滞留し、上人湯屋には播州羽林(藤原基忠)が居り、八日には入道左府が仲国屋を発って帰京し、九日には平三位光盛が老婆を見舞いに、十二日には七条院堀川局が有馬に来るといった大変賑やかな湯治場風景だった。

この様に明月記には克明に有馬の様子や行程が書かれている。

明月記にみられる湯宿は、上人湯屋(又は上人法師屋・上人房)、湯口屋(本湯屋)、仲国屋(仲国朝臣湯屋)の名がみえます。

※この湯口屋が現在の御所坊

上人湯屋は薬師堂温泉寺の上人房で、湯口屋は温泉湧出の浴場入口にあり本湯屋東屋ともいわれ、建武三年(1336年)九条家注進状に8月24日九条家が有馬温泉社神主職・湯口東西屋を知行し、足利尊氏が所有権を引き継いだと記載されている。

仲国屋は仲国朝臣が湯治の為に建てた湯宿で、後鳥羽院細工所の木工頭仲国が関わったと考えられる。

また寛喜元年(1229年)九条教家は一条相国公経の新造湯屋に入ったとあるので、鎌倉期の有馬は中央の有力者や朝臣が湯治用の湯屋をつくって京都の朝廷に仕える人々は湯治をした。雨天の場合は湯宿に温泉を運ばせて湯治をしたといいます。

鎌倉幕府と結んで京都に大きな勢力を持っていた西園寺公経は晩年、何度となく有馬に来ていたが、1227年頃有馬に赤斑瘡(あかもがさ)が流行る。

これは現代でいう麻疹(はしか)で、藤原定家も14歳の時にかかり終生呼吸困難や神経症的異常に悩まされたといいます。
そのように恐れられていたので、定家の義弟の西園寺公径は湯治を止めて、寛喜三年(1231年)水田(吹田)の山荘に、有馬の湯を毎日桶200運ばせたと言います。大変大掛かりなもので、各地の行遊と共に有名だったようです。

建長三年(1252年)九月には後嵯峨上皇は大官院と共に水田山荘で、六年九月には御所に有馬の湯を取り寄せています。

南北朝時代に入ると、将軍の御湯治料として有馬の湯の汲人夫と桶代を付近の庄屋に課していたという資料があり、将軍家も汲湯湯治を行っていた。

室町時代に入ればさらに諸家の日記に汲湯の事が記載されており、近世に入ると草津や熱海の湯を江戸将軍が取り寄せ庶民の間にも広まった。

鎌倉時代末期から室町時代にかけて禅宗寺院で漢文学が流行する。
幕府の外交文章を起草する必要性もあり四六文を用いた法語や漢詩をつくる才能が重要視された事で五山文学が盛んになった。

そのなかで温泉文学も生まれたが、ここで「温泉」とは有馬温泉を指していた。南北朝初めころから五山僧が有馬に来湯した。

例えば康永三年(1344年)雪村友梅、翌貞和元年(1345年)虎関師錬は早期の五山文学を代表する人達です。

祇園社執行日記 1371年~

南北朝時代の有馬湯治行として「祇園社執行日記」に詳しく記されています。

応安四年(1371年)9月21日、顕詮は薬師堂長老の指定で谷ノ藤五朗という一の湯宿にはいった。その時、故足利義詮の側室の細川局・八幡殿(将軍義満の生母)が湯治中で、播磨守護の赤松則祐が警護の為に逗留していた。

23日細川局母子が帰ると、その使用していた一ノ御所に赤松肥前入道性準の女房が東ノ御所から移り、東ノ御所に顕詮が移る事になったという。

つまり湯宿として一ノ御所が一番重要な人が泊まる場所だったといえる。この采配をしていたのが薬師堂の長老だった。

永徳元年(1381年)2月五山文学を代表する学問僧の義堂周信が長老の指示で一の御所に泊まり一ノ湯に入っている。

一ノ御所は一ノ湯の西にあり、東ノ御所は一ノ湯の並び東側であった。

現在の金の湯の所が、古来から有馬の湯の湧き出る場所で、一つの浴槽を二つに仕切り、南側を一ノ湯、北側を二ノ湯と呼んでいた。

薬師堂に面した湯が一ノ湯で、その東西に東ノ御所、一ノ御所という湯宿があり、これが建武三年(1336年)九条家注進状に「有馬温泉社湯口東西屋」と記載されている湯宿にあたる。

瑞渓周鳳の温泉行記 1452年~

亨徳元年(1452年)瑞渓周鳳が有馬に湯治し温泉行記(五山文学新集四所収)に詳しく旅程や有馬の様子が記載されている。

4月7日早朝、相国寺を出発する。お伴の僧を一人連れ瑞渓は輿に乗って陸路を有馬に向かう。途中輿を下りて歩いたりもした。相国寺から約20kmの山崎の旅宿で昼食をとる。箕面の瀬川の宿に着いたのが申の刻だから15時から17時。相国寺から西国街道を通って45kmぐらい1日で移動したことになる。

翌朝早く輿に乗り進むと途中道が分からなくなった。迷っていると湯治帰りの者が白杓子を持って通りかかった。この時代有馬の土産物は白杓子だったのだ。早速道を尋ねしばらく行くと道標があり湯山から190町(約20km)と記載されてあった。

この時代にも有馬への道しるべが有ったという事です。

生瀬で武庫川を輿に乗ったまま舟で渡り有馬に向かう。瀬川から12kmの所で昼食をとる。その後船坂に向かうが途中の道が険しく、輿を担いでいる者も足の踏み場がなく瑞渓は輿を降り草履を履いて川に沿って登って行った。二の湯の東北の息殿店という湯宿に着いた。

有馬のまちの広さは5~6町。つまり1町が3.000坪なので15.000坪ぐらい。現在の有馬温泉の金の湯を中心とした中心街という事になる。人家は約100軒で二階は湯治客用で下を自家用にしていました。

町は横に東西200m蛇行している。まち中に小さな川が西北に流れていて、家々の前には木を渡して橋にしている。南北には約100m。縦横に小道が通っている。北は小高く南は高く、まるで樋の底にいるようだ。

※今の湯本坂の道が元々川で、この川を付け替えたのが秀吉。

道は温泉寺に通じており、もう一つは山道に通じている。瑞渓の泊まった息殿店は十字路の所に位置していている。

二の湯の入口は北側に面していて広さが四間。ここは脱衣場で階段を5~6段下って、また四間ほどの湯室がある。

湯室の中に浴槽があり、幅150cm~180cm奥行210cm~240cmで10人ぐらいは入れるようになっている。底は石砂で岩間から温泉が湧き出ている。これを板で半分に仕切っている。

湯室には水槽が設けられていて東北の水源から木製の樋で水が引かれている。頭や口を漱ぐのに利用されている。

一の湯は二の湯の南側にあり入口は南側で樋の水は西南から来る。この一の湯二の湯は同じであって仕切りがあるだけで湯に優劣はない。ただ温泉寺に近い方を一の湯と称しており、湯客は貴賤なく南側の湯宿に泊まるものは一の湯に、北側の湯宿に泊まるものは二の湯に入るように決められている。

一の湯の西にある家屋を御所といい温泉寺の管轄である。これは足利義満がここに泊まったので御所というのだ。瑞渓が泊っている湯宿が息殿というのは、義満が小休止を取ったからといわれている。

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翌日、瑞渓が一階をみると店主が挽き物を作っていた。手に曲げ刃を持ち、もう一人が轆轤を引いていた。これが当時の湯宿の通例で、同じころに別の湯治者も挽き物細工をしている様子を記載している。

有馬では近年まで轆轤細工が盛んで「有馬の挽き物」というと薄いモノの代名詞に使われていた。

瑞渓は温泉寺を訪れた。老僧の案内で本堂の女体権現に参詣し、当時の温泉寺の様子を記載している。この時すでに湯宿では湯治法を書いたものが備えられていた。

季瓊真蘂の日記 1466年~

温泉行記について詳細なのは蔭涼軒日録の中の季瓊真蘂(きけいしんずい)の文正元年(1466年)2月からの日記です。

季瓊はこの前にも湯山湯治に出かけており、その間に湯山阿弥陀堂の勧進帳を将軍義政に披露して、再興に関わり湯山との関係が深かった。

文正元年の湯治に際して将軍から摂津守護の細川勝元や守護代の秋庭修理亮に途中警護の命令が下され、有馬郡主の有馬弥二郎には宿坊等の手配が命ぜられ、二の湯前の兵衛が京都に行き打ち合わせをしている。

2月29日季瓊は相国寺を出て湯山の御所坊に着いた。その時の御所坊の亭主は掃部という者であった。薬師堂では季瓊が来たというので気を使い、魚売りの呼び声を禁止した。

季瓊は町中が静かなのに不審を抱き調べ、薬師堂に使いを出して禁を解いた所、翌朝からは物売りの声で再び賑やかになったという。季瓊は37日間滞在したが、当時の有馬の滞在者は多くずいぶん賑わっていた。

この日記で興味深い事は、無垢庵主の話として、有馬のまちは家屋が50~60軒。瑞渓のいう100軒とは大げさな事。また浴槽も寸法も瑞渓は誇張している。

またこの日記で、御所坊の亭主は掃部・二の湯兵衛が出てきた。
瑞渓は御所は温泉寺が領していると記載しているが、御所は一の湯の西にあるので南北朝時代の一御所で、その名称からも個人的な湯宿ではない。それがこの頃には個人所有になっている。

季瓊の日記には、有馬で巫女の鼓舞とか、田楽徳阿弥の刀玉、八子太夫の勧進猿楽など湯治客を楽しませる催しが開かれている。
この頃から巫女が湯女と呼ばれる役務を担うようになったと考えられる。

※湯女の登場は1466年頃から出てきている。

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