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【掌編】傘

失恋も三度目ともなると、半ば達観した思いを抱くものらしい。

喫茶店でコーヒーをかき混ぜながら、僕は思った。

一度目の恋は、高校時代のクラスメイトだった。
栗色の髪に、快活な笑顔が似合うその子とは、大学入学後の五月まで交際した。年月と共に生活スタイルが変わり、各々に世界を広げていく中、露わになった価値観の相違が原因で、別れることとなった。

二度目は、大学の研究室で知り合った後輩だった。人懐っこく、それでいて奥ゆかしさを備えた彼女とは、およそ二年の月日を共にした。僕が就職活動に成功し、遠く離れた土地へと旅立つことを機にして、別れることとなった。

そして三度目が、美樹だ。
社会人になって、友人の紹介で出会った美樹とは、僕の二十五歳の誕生日から一年半付き合った。勤め先の経営改革に伴い、彼女が職を退くことになり、それを機に僕と身を固めるか否か逡巡した結果、それほどの展望を二人の間に抱けなかったことから、別れることとなった。

それが、昨夜のことだ。

「さよなら」という結論に至るまでの、底無し沼をハーネスをつけて降りていくような話し合いを経て、今朝の僕は疲れ切っていた。それでも運悪く今日は平日で、さらに運が悪いことに僕は外回りの営業職を生業としており、極め付けの不運として、訪問先から車に戻る最中、強い雨に見舞われた。おそらく通り雨だろう。傘の持ち合わせもなく、慌てて入り込んだこの喫茶店で、ひとまず濡れた背広が乾くまでは様子を見ようという算段だった。

コーヒーをかき混ぜる手をとめ、スプーンを置く。カップに口をつけると、ほのかな温かみが身体を通った。

すでに店に入って十分ほどが経過していた。こうして都合よく屋内に逃げ込めたのは良かったが、一度緊張の糸が解れてしまうと、つい余計なことを考えてしまうのがよくない。できれば日中は仕事にかまけ、美樹とのことを振り返るのは、夜、カフェインでなくアルコールと共に行いたいイベントだった。

だが、思いのほか、落ち着いている。
離別の瞬間から、まだ二十四時間経っていないと言うのに、不思議なものだ。

一度目の別れの後は、ろくに飯も食えなかった。二度目もまた、誰とも口をききたくない期間が続いた。だが、三度目の今回はどうだ。大した落ち込みもなく、いつも通り満員電車に揺られて出勤し、こうして社会の歯車として日常をこなしている。

ボックス席の真向かいに置いた、黒いバッグを見やる。急な雨で濡れているが、中身のパンフレット類まで浸透はしていないだろう。どの道、先方に渡してそれっきり、多くは捨てられてしまう運命にある悲しい紙の束。
営業の仕事の多くが門前払いや肩透かしで終わる。入社したての頃はそれに一喜一憂していたものだが、徐々にそれにも慣れ、「縁がなかった」の一言で気持ちが切り替えられるようになった。

それと同じように、美樹とのことも「仕方がなかったんだろうな」という思いを抱いている。僕と美樹の間は、ここまでだった。それはタイミングの問題なのかもしれないし、そもそもの相性の問題なのかもしれない。いずれにせよ極論を言えば、「縁がなかった」の一言に集約できるものなのだろう。

大袈裟に言えば、運命か。
あの日あの時出会い、昨日別れるのが、僕たちの運命だった。

恋人との別れを、うまくいかない仕事と同等に脳内処理してしまうあたり、我ながらドライになったものだと思う。こういうのを大人になった、と評していいのだろうか。若い頃は愛だの恋だのに、もう少し高尚な思いを抱いていた気もする。
しかし思えば、抗えない環境に立ち向かう情熱や衝動を、単にそう名付けていただけなのかもしれない。それは当初眩しく尊いものに映ったかもしれないが、その実いかに無謀なものなのか、ようやく身にしみて理解できるようになっただけ。そう考えるのはいささか冷酷だろうか。

少なくとも、その達観に似た冷酷さは、この先を生きていく上でも大いなる武器になってくれそうではある。
そんなことを思うこと自体、僕が「愛」から遠ざかってしまった証左なのだろうけれど。

窓際のテーブル席には、じんわりと真冬の冷気が染みてきている。雨も相まって、一層外は冷え込みが増しているらしい。通りに面したガラス窓は、霞がかかったように曇っていた。

ふとその曇りガラスの向こうを過ぎった人影に、どきりと胸が騒いだ。
白いコートを纏った女性のシルエットが、強い雨脚から逃げるように早足で僕の視界を横切っていった。

一瞬の佇まいが、美樹のそれと似通っていた。

目で追えたのも束の間、あっという間にその影は消え去り、同じように曇りガラスが濾過する、冴えない街の様子が戻る。
変わったのは僕の鼓動と呼吸が、ほんの少しテンポを上げていることだった。

もちろん本人ではあるまいし、ましてや追いかけて確かめるような真似をする気もない。
ただ似ている、というだけ。
それだけであるはずなのに、僅か数秒を僕から奪ったその影に、これほどまでに胸をかき乱されていることに、ひどく動揺した。

あれが美樹だったなら。
同じようにこの店に入り込み、顔を見せてくれたなら。
そんなありもしない空想が、頭のどこかで花開く。

なにが冷酷だ。なにが運命だ。

僕はカップを引っ掴み、残りのコーヒーを流し込んだ。喉を通った液体は、すでに蓄えていた温度を失っている。
もう店を出よう。どうやらこの雨は止まない。

「仕方ないな」

僕は呟いて、伝票を手に立ち上がった。


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Inspired by ”King Gnu『傘』”


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