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【掌編】2

数字は『2』から始まる。これは真理だ。

『0』や『1』は、それら単独では数字に成り得ない。『在る』か『無い』かで言い表せば事足りるからだ。二つ目や二匹目や二人目が出てきて初めて、数えるという行為が必要となる。故に数字は『2』から始まる。

ここまではよいか。では次だ。

今の話を聞き、それを言うなら『3』ではないか、と思った者もいるかもしれない。試しに手を挙げてみよう。ふむ、半数に満たないぐらいか。

今手を挙げた者はこう考えたのではないか。『0』と『1』が『在る』と『無い』で言い表せられるのであれば、『1』と『2』も他の言葉に置き換えられる。自分と他者、即ち『わたし』と『あなた』だ。世の中にあるものが二つ目、二匹目、二人目で打ち止めならば、まだ数を数える必要は生じない。故に数字は『3』から始まる、と。

ここが数学的センスの分かれ目だ。

数字は『3』から始まると考えた者は、『1』を自分自身と捉えた。この場合、『0』は自分が存在しない状態、『2』は初めて出逢えた『あなた』に当たる。成程、この視点に立つ限りにおいて、『2』は数字に置換される余地なく、単なる自分以外の他者に留まるものであろう。

断言する。
このような思考の者に、数学は向かない。

自己を観察対象から切り離し、神の視点から事象を捉えて初めて、論理は論理足り得る。悪いことは言わない。数字は『3』から始まると思った者は、家に帰って小説でも書いていろ。数学を志すに当たって、諸君は圧倒的にセンスが足りない。

その上で、私は告白する。
こうして壇上に立ち、高説を垂れているこの私も、かつて数字は『3』から始まると思考した一人である、と。

ここから先は与太話だ。試験には一切出ぬから安心して聞け。いっそ聞くを放棄し、居眠りに興じるもよし。思い切って講義室を去る者がいたとしても、今日の私は止めはしない。

たった今この私から、数学者としての才覚を否定された者に向け、同じくこの私から、つまらない慰めを送ろう。
私が如何にして数字の『2』、神の視点を獲得するに至ったか。その粗筋を語ることで、諸君への激励に代える。

さて、諸君は恋をしているか。

呆けた顔の者が多いな。恋だ、恋。特定のパートナーがいるいないに関わらず、はたまた対象が異性か否かにも寄らず。誰かを慕い、焦がれ、揺れ。その感情の奔流に飲まれたことはあるか。

私は、ある。

同様に恋を知る諸君に問おう。恋に焦がれるその最中、こう夢想した覚えはないか。

自分と、そして意中の相手。もしもこの世に互いしか存在せぬよう、突然変異が起こったとしたら。
さながらアダムとイブであるかのように、私と君だけ、君と私だけ。そんな特異な状況下なら、かの人は自分を欲しがってくれる。
そんな妄想に囚われたことは、ないか。

枕はここまで。本題に入る。

まだ諸君と変わらぬ歳の頃、同じくこの学び舎で勉学に励んでいた私は、ひとりの女性に恋をしていた。
ここでは彼女のことをMとしよう。私の学生時代は、表向き学問を主軸としながらも、その実、Mへの純情と劣情に塗れたものだった。

Mはいわゆる『高嶺の花』で、私同様、彼女への恋に身を焦がす男はいくらもいた。しかしおそらく、そこに手が届くほどの度量を備えた男は、そう現れはしなかったのだろう。倶楽部活動の一環で彼女と知り合った私は、週に数回しかその姿を見ることは叶わず、その数回の度、そこに自分以外の男の影が差していないかを注意深く観察し、彼女がまだ誰の色にも染まっていない様子に安堵していた。

Mと私が一対一で接触した機会は、ただの一度。毎度開かれる倶楽部の飲み会、その帰り道でなんの拍子か、我々だけとなった。その日彼女は酔っており、道中、馴染みの薄い私との会話を片手間に、時折足をふらつかせていた。

地下鉄の駅の入り口。改札まで降りる階段は長くはなかったが、Mがその調子であったため、エレベーターを私は選択した。到着した箱にMと乗り込み、扉が閉まり。箱が緩やかに下降し始め、足元に浮遊感を覚えたところだった。

エレベーターが止まった。

後で調べたが、地震があったわけでも停電となったわけでもない。原因はわからぬままだが、とにかく止まった。非常呼び出しのボタンを押したが、どこにも通じない。再び動き出す気配もない。まだ携帯電話など無かった時分だ。私とMは途方に暮れた。私たちが乗り込んだその箱だけが、本船から切り離されたボートのように、大海を当て所なく漂っているようだった。

危機的状況。にも関わらず、私は歓喜した。世界にただ私とMだけ。夢にまで見たシチュエーション、その只中にいるのだ。不謹慎とは自覚しつつも、胸の内、興奮を禁じ得なかった。

Mの長い髪。
Mの透き通った肌。
Mの慎ましやかな仕草。

それらすべての供与の先が、私一人である世界。すべてのそれらを享受するのが、私一人である世界。

今しかない。長い間積み上げたMへの思慕、思いの丈をぶつけるのであれば、この世界にいられる今しかない。そう思った。

永遠とも一瞬とも思える時間の中、何を話したのかは覚えていない。塵芥を掻き集めたかのような瑣末な話題を防壁に、核心の一言を撃ち込む隙を窺って。そんな狙撃手のごとき心持ちでいながらも、しかし、ただただ時間を浪費するのみで、踏ん切りはつかずにいた。

どうかこのまま、いっそこのまま。視界にMしかいない、甘美なるこの世界が、永遠に続いたならば。そうすれば、想いを告げる必要もなく、Mの側に居続けられる。そんな妄想に囚われ始めたときだった。

突然、Mがしゃがみ込み、頭を倒して蹲った。
声をかける間もなく、小さく折り畳まれた身体が震え、その背から嘔吐する声が聞こえた。

何が起こったのか、理解はできた。しかし、どうにも信じられぬ思いだった。エレベーターの床に広がっていく吐瀉物と、鼻をつく酸っぱい匂いが、呆けた脳に動けと急かす。慌てて膝を折り、大丈夫か、とその背をさすった。情けないことに、それ以上にできることを思いつかなかった。

無力感に打ちひしがれる一方で、卑劣にも私は考えた。可憐なMが、このような粗相を起こす事態に立ち会えたのもまた幸運である、と。物理的に我々しかいない空間で、さらに我々のみが分かち合える秘密が生まれた。その事実が一層、ここにある私とMの世界の輪郭を太くし、内部に漂う空気を濃密にしてくれた気がした。

もはや、世界にはMしかいなかった。Mと呼称する必要すら消えた。

背中、髪、肌、汚物に異臭。荒い呼吸と苦悶の嗚咽。

君。
ここにあるもの、すべて君。

吸い込み吐き出す空気の隅々にまで、君が行き渡る。
肺に、血に、細胞に、君が染み渡る。

君。
君君君。
君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君君。

君。

さながら大海原に、あるいは砂漠に、はたまた宇宙に飲み込まれるような。
それは真理であり、摂理であり、原理であり。
つまり自然であり、当然であり、必然であり。
ならば疑いはなく、躊躇いもなく。
迫り来るそれに身を委ね、自己を埋没させようとした、矢先だった。

「……ないで」

その音が、俯き見えないMの口から発せられたものであると気づくのに、時間を要した。何か言われた気がするが、何を言われたかわからない。Mの顔を覗き込み、もう一度同じ言葉を繰り返すよう、求めた。

Mは赤く血走った眼で私を睨みつけ、言った。

「誰にも言わないで」

視界の中、光が弾け、思考が巡った。

誰にも。誰だ。
私ではない。私以外の誰か。
三人目。
四人目五人目六人目。
際限なく続く、他者。

つまり、我々はその始まり。
始発点にいる、一人目と二人目。
この世界で私とMは、唯一無二の存在でなく。
この世界に私とMという『二』が唯在るだけ。

ただ、それだけ。

しばらくしてエレベーターは動き出し、私はMと共に外に出た。Mを化粧室に行かせ、私は駅員を呼び、エレベーターを汚してしまったことを詫びた。落ち着きを取り戻したMをもう一度地上へ連れて行き、タクシーを捕まえて送り出した。貧乏学生ながら見栄を張り、紙幣を握らせ、走り去る車を見送った。

Mとはそれきり、一言も交わしてはいない。

倶楽部活動からも身を引き、私は勉学への道を邁進した。以降、私の才覚は花開き、運よく生涯の恩師に巡り合えた。機にも恵まれ、世に認められ。そこから先の道のりは、ここでは多くを語るまい。諸君の手元の教科書にある、著者来歴を参照いただければ事足りる。

すべて、あの日私が『2』を獲得したことが始まりだ。
己と世界を切り離し、神と視点を並べたあの夜が、私を高みへ導いた。

だが、思い出す。
だが、考える。

あの時、私を睨みつけた、Mの赤い目。恥辱に触れた私を恨むような、冷たい視線。私と世界を切り離した、鋭い眼差し。
あの目が澄んでいたのなら。あの視線が温かであったなら。あの眼差しが柔らかであったなら。
その世界線に降り立てるとしたら、今いるこの高みから、喜んで私はこの身を投げるだろう。

諸君。確かに私は神に並んだ。高みに達した。孤高を極めた。
しかし、そんなことはいつでもできる。誰でもやれる。容易く成せる。

どうかその日が来るまでは、いつかその気になるまでは。
己を『1』とし、この世界に在れ。
『3』から数えて、誰かを愛せ。

ちょうどよいところで鐘が鳴ったな。今日はここまで。また来週だ。

学ぶ気があるなら、また来るがいい。
私は変わらず、ここに居る。

来週も。その先も。

『2』の無い世界に焦がれながら、この壇上で真理を語ろう。


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この作品は、いぬいゆうたさんに朗読いただくために執筆したものです。

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