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【短編】「ごめん、やっぱり青がいい。」

「才能か努力、どちらを認められたいか」と問われれば、あなたはどう答えるだろうか。

簡単に言えば、テストでいい点をとって、「頭がいいね」とほめられるか、「勉強がんばったね」とほめられるか。私は断然前者、「才能」である。
努力を認められるということは、その努力を必要とするほどの素地しか私にはなかった、と評価されているに等しい。先程のテストの例ならば「馬鹿のくせに高得点をとるなんて、がんばったね」と言われているようなものだ。
幸にして私は馬鹿ではないので、これまでそうした評価を受けることはなかった。むしろ「頭がいい」は私の代名詞のようなもので、クラスで優等生はと問われれば、必ず私の名前が挙がる。みんなが頭を悩ませる黒板の問題もすらすら解けるし、勉強以外のパズルや謎解きだって誰よりも早く正解にたどり着く。本も選り好みせずたくさん読んでいるので、知識だって豊富だし、難しい言葉も漢字で書けて、意味がわかる。
まわりとは明らかに違うことから、「天才」などと持てはやされることも多い。それが普通であったし、今も普通である。
だから、初めてである。才能ではなく、努力をほめられたのは。

「藤井さん、よくがんばったね」

笑顔で先生から返された画用紙を手に、私はしばらく固まってしまった。思わず、「あの、どこが悪かったですか」と聞いてしまう。先生は「え?どこも悪くないよ。よく描けてるよ」と戸惑った顔になるが、その戸惑いぶりにまた「本当はよくなかったんじゃないか」と疑心暗鬼になる。
夏休み、図画工作の課題で描いた絵のことだ。
絵というのは、その人の才能がダイレクトに現れると、何かで聞いたことがある。技術よりも先に、描いた人の個性や美的感覚が、むき出しでさらされる、と。
つまり、絵の良し悪しは、描き手の才能の有無に直結する。絵がよくないと言うことは、才能がないということだ。
そして「がんばったね」と言われるということは、「絵の出来はともかく」ということである。
私の描いた絵は、いい絵じゃなかった。才能がなかった。
ショックとくやしさで、泣き出しそうになるのをこらえながら、私は画用紙を手に自分の席に戻った。次の子が先生に呼ばれて、描いた絵を受け取りに行く。その子がなんと言われるのか気になり、耳をそば立てていると、私と同じ「がんばったね」だった。特に成績もよくないだろう、パッとしない感じの子だ。あの子と同じ評価なのだと思うと、情けなくて、手に持った画用紙をビリビリに引きさいてしまいたくなる。
「藤井さんの絵、すごーい」
後ろの席の子が、身を乗り出してのぞき込んできた。間近になった顔から、息が感じられて気持ちが悪い。今は絵のことにふれて欲しくはなかったが、むげにするわけにもいかない。作り笑顔で「ありがとう」と返す。すると、呼応するように前の子も振り返り、「ほんとだー」と私の絵を見始めた。
「青色が、だんだん水色になっていくのが、きれい」
そうだろう。グラデーションというのだ。プロの画家も使っている絵の技法で、今回の課題に、私はそれを採用した。図書館で水彩画の本を読んで、勉強したのだ。
そこまでしたのに。
「きれい」とほめられて持ち直しかけた気持ちが、いっそう深くへ沈み込む。もはやお礼を言う気も起きない。前後のクラスメイトも、無反応の私に首をかしげ、今度はお互いの絵を見せ始めたようだった。
最悪だ。通知表は、ちゃんと「がんばろう」でも「できる」でもなく、「よくできる」に丸が付くだろうか。これまで、体育の水泳以外は、「よくできる」以外をとったことがない。今から二学期の期末が心配だった。
「はぁい、静かにしてください」
先生が手を叩いて、教師のざわめきをしずめる。席を立ったり、体をひねっておしゃべりしていた子達が、元に戻って前を向く。
「今、夏休みに描いてもらった絵を返しましたが、みんなとてもよくできていました。初めて海を見たススーの感動が、画用紙を通して伝わってきました」
先生が言う。
今回の課題は、ある物語の一場面を想像して、絵に描くというものだった。誰も傷つけないよう、ずっと森の穴倉で暮らしていたススーという怪獣の子供が、意を決して外の世界に出て、初めて海を見るという話。そのススーが見た海を想像して、画用紙の上で表現する。
正直、課題としては失敗なのではないか、と思う。こんなの、ほとんど「海を描いてください」と言われているのと変わらない。
ちらほらと周りを見ても、同じようにブルーの大海原に、太陽の光や、ススーとおぼしき怪獣の後ろ姿が描かれているものばかりだった。こういう事態が想像できたから、何か特徴のあるものをと思い、わざわざ時間をかけてグラデーションの水面を描いたのだ。
あれ。
皆が机の上に返却された画用紙を広げている中、ひとつだけ何もない席があった。私の左ななめ前で、小柄な男子が座っている。すでに絵を丸め、どこかにしまった、という様子でもない。
どうしたのだろう、まだ宿題を提出していないのだろうか。そう思った時に、先生の言葉が続いた。
「実は一人だけ、まだ絵を返していない人がいます」
ざわり、と教室に動揺が走る。みんな気になっていたのか、その小柄な男子の方に視線が集まった。
「そう、マユズミ君です」先生がうなずく。「実はマユズミ君の絵がとてもよく描けていたので、今度の児童コンクールに学校から応募することになりました」
おぉ、というどよめきが起こる。私は反対に何も言えず、マユズミ君の小さな背を見つめるしかできない。
マユズミ君は、まわりからの賞賛に恐縮するように、肩をすくめている。せまい肩幅が、いっそう縮こまって見える。
コンクール?この子が?
「マユズミ君の描いた絵は、これです」
先生が教卓に一枚の画用紙を立て、みんながいっせいにそれを見た。
は?というのが、正直な私の感想だった。
マユズミ君の絵に描かれているのは、皆と同じく大海原だった。ただひとつ違うのは、水面が赤、白、黄、紫もあるだろうか、そういうカラフルな色彩で描かれているところだ。遠目でよくは見えないが、油絵のようにこってりと絵の具を使い、芋虫みたいなサイズの色をランダムに重ね合わせている。
なんだ、これは。これが海?
他のクラスメイトも同じような感想なのか、言葉に出ない衝撃を味わっているようだった。
「マユズミ君の絵のすばらしいところは、海を普通とはちょっと違う、赤や黄色で塗っているところです。普通では思いつかない、とても個性的な発想だと思いました。みんな、この絵を見て、どう思いますか」
いや、気持ち悪いだろう。なんだこれ。そう思ったが、素直に口に出すわけにもいかない。もし自分が発言を求められたら、何と答えよう。にわかに焦りが生まれる。
しかし、
「とてもきれいだと思います」
最初に手を上げた女子が言った。続いて、次々に声が上がる。
「赤や黄色で海をぬるなんて、思いつかない」
「朝焼けの海にも、夕焼けの海にも見える」
「ススーの海を見たときのいろんな気持ちが想像できる」
正気か、と思ったし、先生の前でいい子をしているのでは、とも思った。だが、ほとんどの子が本気で目を輝かせているように見えた。私をはさんだ前後の席の子も、すごいねー、と顔を合わせてほめ合っている。
本当か。これは、「いい絵」なのか。どうにも判断がつかないうちに、「藤井さんはどう思いますか」と先生が私を指名してきた。
絶対に来ると身がまえておいたのに、まだコメントを考えていない。こういう時には他の子とはちょっと違う、するどいことを言わなくてはいけないのに。
考えろ。私にしか言えないことを。
「藤井さん?」
私は立ち上がって、前を向いた。
「マユズミ君が絵が得意なんて、知りませんでした」
言った。しかし、それほどの反応は見られない。先生の目線も、続く言葉を待っているように見える。
考えろ。
「ゴッホの絵に、タッチが似ていると思いました」
先生の顔に笑みが灯った。「ゴッホ!」「有名な画家だよ」「すごーい」とみんなもざわめく。
「ゴッホの自画像も、ああやって細かい筆塗りを重ねているので」
得意げに、知った口をきいてしまう。これ以上のことをたずねられても、よくわからないので、そそくさと椅子に座る。ちらりと当のマユズミ君を見ると、まだ肩を上げて恐縮していた。耳が赤く上気している。ほめられることに、慣れていないのかもしれない。
ざわめきも落ち着き、教室の話題がマユズミ君の絵から、次の図工の課題説明に移る。私はこっそり机の引き出しからクラス名簿を抜き出し、マユズミ君の名前を探した。
まゆずみ、とおる。漢字では、『黛透』と二文字。めずらしい名前だ。
七月の初めに転校したばかりで、間に夏休みをはさんでいることもあり、まだほとんどのクラスメイトの顔と名前が一致しない。とりあえず、授業中の様子から成績優秀と思われる子だけはチェックしているのだが、黛君の名はその中にはなく、他のことで目立つタイプでもないので、きちんと認識するのはこれが初めてだった。
二学期の課題は、マグカップの作成だった。配られたプラスチックのコップを紙粘土でコーティングし、色を塗ってオリジナルの作品を作る。「世界にひとつだけのカップを作りましょう」。先生が言った。
これで何とか挽回しないといけない。コンクールの対象ではないかも知れないけれど、せめてみんなの前で先生にほめられるようなものを作らなくては。
次回までに、デザインの案を固めてくるように、とのことだった。家に帰る前に、図書館に寄って、食器の本を借りてこよう。黛君の背中を視界の端にとらえながら、私はそう決めた。

「いいのよ。図工はがんばらなくても」
お母さんが言った。今日、返された夏休みの課題の評価がかんばしくなかったことを、後ろめたく感じながらも報告した、その反応だった。
「体育と音楽も、副教科はそれなりで大丈夫。大事なのは国語と算数、理科、社会。特にあなた、国語は苦手なんだから、しっかりやらないと」
内申なんてほとんど考慮されないんだから。そう言って、水を流して洗い物を始める。
小学四年生の私は、来年度から塾に通って、私立の中学を受験することになっている。全国的に有名な中高一貫の女子校で、そこの生徒になれるように、今から準備を始めなくてはならない。すでに合格後の通学を考え、こうして転校までしてきたのだ。失敗するわけにはいかない。
そのためには確かに、お母さんの言う通り、主要教科に力点をおくべきなのだろう。だけど、副教科だって、今まで私はがんばってきた。苦手な運動だって、何とか歯を食いしばり、及第点をクリアしてきたのだ。受験に必要ないからと言って、急に手をぬくことはできない。
何でもできる子。天才。
学校の成績がいい、なんていうのはあくまで最低条件で、それ以上の「すごさ」を感じさせる存在。私はそうありたい。みんなから「この子は違う」という目で見られる存在であり続けたい。
鼻持ちならない野望に思えるかもしれない。でも、そこに向かって私は努力してきたし、その努力を尊いものだと感じている。なりたい自分に向かって頑張る私を、私は否定したくない。
だから、今回も、私はがんばる。次の課題で、黛君より優れた作品を作ってみせる。

戦に勝つには、まず敵を知るところから。昔、中国の武将が言っていた、有名な言葉だ。
とは言え、そんな格言を持ち出すまでもなく、私の目線はおのずと黛君の様子をうかがうようになっていた。
黛君は、言葉を選ばずに言えば、「かわいい男の子」だった。身長が低く、目がくりくりとしていて小動物っぽい。テレビで活躍している子役のスターにも負けないぐらい、愛らしい顔立ちをしている。
決して要領がいい方ではないらしく、授業中に当てられても教科書のどこを読めばいいかわからなかったり、理科の実験で次の手順を忘れてしまったり、困った顔でおどおどしていることが多い。それがまた、迷路に迷ったハムスターのように胸をつかむのか、周りの女子、時には男子までもが進んでフォローに入る。「ありがとう」と、ほっとしたように見せる笑顔がまたキュートで、フォローした側も「役得だ」と言わんばかりの満たされた顔になる。そんな魅力を持った子だった。
成績もパッとせず、他で目立つこともない、かわいさが取り柄の男の子。今まで私がライバル心を抱いてきたタイプには、これっぽっちも当てはまらない。
そんな黛君が、コンクールに出展される絵を描くなんて、やはり信じられない。芸術方面に、才能が特化しているのだろうか。
いつもぽんやりしている黛君の顔が、図工の授業中はどのように変わるのか。
黛君を気にするようになって、初めての図工の時間。私はそれを見逃すまいと息巻いていた。
前の授業で先生が予告した通り、課題で作るマグカップのデザインを、白いコピー用紙に描いていく。みんなの色鉛筆の動きに合わせ、こここん、という音がそこここで生まれていた。
残念ながら、私の席からは、ほぼ彼の後ろ姿しか見えない。どんな表情で、何を描いているのかはわからなかった。
しかし、ななめ後ろからうかがう限り、黛君の筆はそれほど進んでいないようだった。うーん、とうなりながら、描いては消し、描いては消しを繰り返しているように見える。
「あれ、黛君どうしたの」
教室をぐるぐる歩きながら、みんなの様子を見回っていた先生が、黛君の隣で足を止めた。彼の様子を知りたい私としては、よくぞ止まってくれた、という感じだった。
「あんまりアイデアがまとまらない?」
黛君の手元をのぞき込みながら、先生が問う。何度も消しゴムをかけて、皺が寄っている紙がそこにあるのを想像した。
黛君は「うん」と答えて、ちょっとはにかむように「むずかしいです」と返した。先生はほだされたような笑顔になり、「難しいかぁ。ゆっくり考えてね」とうなずく。
どうやら難航しているようだ。私は舞い上がる気持ちが顔に出ないよう、下を向いた。
考えてみれば、絵を描くのが得意だからと言って、粘土で何かを形造るのに長けているとはかぎらない。画家と彫刻家が別の職業であるのと同じように、二次元と三次元では、芸術分野でも大きなへだたりがあるのでは。仮にこのコピー用紙に目を見はるようなデザインを残せたとして、今回の課題はそれをいかに粘土で実現するかだ。豊かな発想でデザインをふくらませても、その通りのマグカップを作れるかどうかは、別問題である。
想像力豊かな黛君にとっては、かえって難しい課題なのかもしれない。そう考えれば、私にも十分、分はあるはずだ。
「あら、藤井さん面白い」
先生が私のコピー用紙をのぞき込んで、笑った。いつの間にか隣に来ていたことにびっくりしながらも、ほめられた喜びに胸が躍る。「ありがとうございます」とつとめて落ち着いた口調で返そうとしたが、嬉しさのあまり声が裏返ってしまった。
先生がほめたことに反応して、前の席の子が振り返る。
「わぁ、藤井さん、ポットだ」
言うな、黛君にバレるだろう、と思ったけれど、もう遅かった。後ろの席の子も、身を乗り出してくる。
「本当だ。おもしろーい」
私のデザインは、マグカップの側面から注ぎ口をのばして、ティーポットのように見せかけたものだった。ちゃんと蓋もそれらしいものにして、一見カップには見えないように工夫するつもりだ。
色々な陶器を図鑑でながめて、思いついたアイデアだった。最初は色や柄に着目していたところ、もっと黛君のようにパンチのある発想を、と考えた結果である。「それは思いつかなかった」というインパクトがあれば、先生の評価も高いだろうと思った。
「間違えて使っちゃいそうね」
うふふ、と先生が笑ってくれた。やった、好感触だ。色めき立つ気持ちを懸命におさえながらも、黛君をちらりと見る。こちらを向いてはいないが、声は聞こえているだろう。頭をぽりぽりと描く仕草は、ひそかに私への賞賛をくやしがっているかのようにも思えた。
勝てるかもしれない。今回は。
そんな希望が見えてくると同時に、案外つまらないことにこだわっていたな、という気にもなってくる。
このデザイン通りに作れば、ほめられるのは私の方だ。コピー用紙に描いた絵の線を今一度ていねいになぞりながら、また図書館に寄って、今度は陶芸の本を借りてこよう、と心に決めた。

ほめられたのはやはり、黛君の作品だった。
今回の課題の制作期間はおよそ二ヶ月。マグカップのまわりに紙粘土をくっつけ、固まったところを絵の具で塗装し、その上にニスを塗ってコーティング、それをさらに乾かして完成となる。それぞれの工程で進み具合にばらつきがあり、全員の作品が出揃ったのは、十二月に入ろうとした頃だった。
黛君の作品は、人の顔を模したものだった。大きな鼻がどん、と真ん中に付いていて、その下に赤く太い唇、目は紙粘土にエメラルドグリーンのビーズをはめ込んで表現していた。蓋がベレー帽の形をしており、肌の色もピンクめいていて、外国の芸術家にこんな人がいそうだな、と思わせる風ぼうだった。
人の顔のデザインというのは、そこまで斬新なアイデアには思えなかったが、先生はまた黛君の作品をみんなの前で紹介した。他にも何人かの作品を取り上げたが、やはり黛君のカップに一際時間をさいているように見えた。
「みんな、黛君のカップを見てどう思いますか」
先生が言った。
「きっと見る人によって、感じるものは様々だと思います。先生は、この顔は何を考えている顔なんだろう、これがカップになっていることにどんな意味があるんだろう、と考えました。そこに答えはありません」
「でも、確かなのは、このカップがそうやって、ついつい時間をかけて見てしまう、不思議な魅力を持っているということです。みんなには、それが伝わるかな」
評論家みたいな物言いだった。ここまで来ると、先生のえこひいきかと疑いたくもなったけれど、しかし、そうでもなさそうだった。夏休みの海の絵と同様、クラスのみんなまで次々に感想を口にし始めた。悲しそうな顔をしている、だの、なんとかというアニメに出てきそう、だの。カップに注がれた飲み物の味が変わりそう、なんてマニアックな意見もあった。
私個人の感想は、前回と同様「気持ち悪い」だった。人の頭がカップになっているなんて、まともな発想じゃない。表情も何を考えているのかわからず、ただただ不気味だ。あれに注がれた液体なんて、絶対に口にしたくない、と思った。
ただ、こうしてクラスの面々から様々な感想が出てくるというのは、すごいことだ、と思った。普段、そんなに深い考えを持っていないように見える同学年の子たちが、急にイマジネーションをふくらませて、活発に発言している。
「藤井さんは、どう思いますか」
いつも通り、先生は最後に私のコメントを求めてきた。普段なら、「優等生らしく、気のきいたことを」と言葉を探すところ、この時は素直な思いが口から出た。
「こうやって、色んなことを人に思わせたり、感じさせたりできるのが、芸術なのだな、と思いました」
芸術、という言い回しがヒットしたのか、教室がわいた。だけど、いつものようにいい気にはなれなかった。私は黙って椅子に座って、下を向いた。
デザインの段階で「面白い」と評価を受けた私の作品は、そのイメージに近い形で完成を見たものの、紹介されなかった。
小手先の発想に頼った私のカップが、急に安っぽいものに思えてはずかしくなった。「ほめられたい」という、打算でよごれたその作品は、私自身のつまらなさを表現しているように感じられた。叶うなら、時を戻して一から作り直したい、という想いにかられた。
「黛君」
先生の講評があったその日の放課後、私は思い切って、黛君に声をかけた。黛君はコートをはおり、ランドセルを背負って帰ろうとしているところだった。
急に話しかけられたことに驚いたのか、黛君は「え、あ、藤井さん」とたじろいでしまった。大きな目を左右に泳がせて、逃げ場を探しているように見える。
「ごめんなさい、急に話しかけて」
「ううん。何」
おそるおそる、といった風だった。今までろくに言葉をかわしたことがないのだ。警戒するのは当然だろう。ライオンににらまれたウサギのように、すぐにでも逃げ出してしまいそうで、私はできるだけ優しい声で続けた。
「図工の課題、すごかったね」
「え?」何のことかわからなかったのか、黛君は数秒固まってしまう。「えっと、あのカップのこと?」
「うん」
「あぁ、うん。どうもありがとう」
少し頬を赤らめ、上目づかいでこちらを見る。可愛らしさに、少し心が和んだ。
「ちょっと変なことを聞くんだけれど、黛君って、ああいうのを作るとき、何を考えているの」
「え?」
「こんな絵を描こうとか、こんなものを作ろうとか、どういう風に思いつくのかな、と思って」
「え、えぇっと……」
黛君の黒目がぐるぐる回る。結構なスピードで、このまま失神してしまうのではないかと思えた。
ようやく焦点が定まり、黛君は答える。
「あの、よくわかんない。なんとなく」
「なんとなく?」
思わず、口調が強くなった。黛君の肩がこわばる。
「えっと、海の絵の時は、単純にススーの話を読んだら、ああいう感じの景色が浮かんできて、描いたんだけど、カップの時は、最後まで何を作ればいいかわかんなくて、適当に粘土をこねてたら、人の顔みたいに見えてきたから、じゃあそうしよう、って思って……」
それで、なんとなく。
誰かにどう思われるか意識することも、アイデアを求めて図書館へ足を運ぶこともない。
ただ思うがままに作ったものが、結果として賞賛をあびた。
あぁ、そうか。
この子は、「こう」なのか。
「あの……藤井さん、大丈夫?」
私が何も言わないからか、黛君が、また上目づかいでたずねてきた。
くりくりと純真な瞳が、私をとらえる。
「うん、ごめん。ありがとう」
なんとか笑顔でそう返し、その目線から逃げるように、私はその場を離れた。

家に帰り着いた後も、黛君のことが頭から離れなかった。いつもはお菓子を食べてから、夕方の勉強をリビングでやる。しかし、どうにも力が入らず、お母さんと話して自分の部屋で休むことにした。
「晩ご飯になったら声をかけるから。それまでゆっくり休みなさい」
いつもは、もう少しがんばりなさい、と言われるところだが、今日はゆるしてもらえた。それほど私の態度が、上の空であるように映ったのだろう。集中できないなら一度休みなさい、とお母さんの方から声をかけてきた。
自分の部屋に入ると、机の上に、お母さんが買ってきた問題集だか参考書だかが積まれていた。厚さが三センチぐらいある、重そうな本だった。来年度から通う塾でも、同じシリーズの本を使うらしい。今から目を通しておきなさい、その方がきっと楽だから、とお母さんが言っていた。
ページに指をかけ、パラパラ漫画のようにそれをめくってみる。細かい文字がびっしりとつまっていた。読む気にもなれず、手を離して、ベッドに横になる。
「天才」という言葉は、私達の年代にとって「勉強ができる」とほぼ同じ意味で使われる。小学四年生の世界には、ほぼそれしか才能をはかる基準がないからだ。その意味で、私は「天才」と呼ばれてきたし、今も呼ばれているけれど、そんな私だからこそ、見える真実がある。
私が「天才」なのは勉強をがんばっているからだ。本当の天才はそうじゃない。世の中には、勉強をがんばらなくても成績の良い人がいて、そういう人に私は何人か会ってきた。
テスト時間、私は解き終わった後も何度も見直しをしているのに、平然と机に突っ伏して眠っている人。それでいて、私と変わらぬ高得点をさらりととってしまう。言うことにもセンスがあって、どうしてそんな発想ができるのか、と驚かされる。知識量では負けないが、機転の速さではかなわない。そういうタイプ。
そんな「天才」を前にすると、自分がとてもみじめに思えて、悲しくなってしまう。
私がしていることは一体なんなのか、と途方にくれてしまう。
私が今の学校に入って、まず最初に成績の良さそうな人をインプットしたのも、そのためだ。同じような「天才」がいようものなら、たまったものじゃない。
幸いなことに、私のクラスにそういうタイプの人はいなかった。だから安心して「天才」の座に居座ろうとしたところ、黛君があらわれた。勉強とは違う世界で、努力とは無縁の才能を持った男の子。
別に、芸術家になりたいわけではない。けれど、黛君のような存在が近くにいることに、とてつもないプレッシャーを感じた。自分がいくらがんばっても超えることのない壁、その存在を常に感じながら学校生活を送るんだと思うと、涙が出るくらい気がめいる。
「なつめ、ご飯よ」
一階から、お母さんの声がする。起き上がると、先ほどの問題集がまず目に入って、私は思わずため息をついた。

その日は初雪が降るかどうか、と言われるほど気温の低い休日だった。二学期のカリキュラムは終了し、後は月曜、火曜と学校へ行けば、もう冬休みに突入する。街にはクリスマスの飾りつけがほどこされ、昼間からイルミネーションの灯りで目がちかちかするほどだった。
私はお母さんに連れられて、百貨店に足を運んでいた。お母さんがお父さんにクリスマスプレゼントを買うというので、それについてきた形だ。こういう時は、お昼ご飯においしいものを食べさせてもらえるので、それがちょっとした楽しみでもあった。
お母さんが紳士服売り場でマフラーを物色している間、私はエスカレーター横の椅子に座ってぼんやりとしていた。店内は暖房が効きすぎていて、着込んできたコートを脱がないと汗ばんでしまうほどだった。本当は本屋に寄って時間をつぶしたいけれど、コートを片手にうろうろするのは疲れてしまいそうで、このまま座って待つことに決めた。
十五分くらいして、ようやくお母さんが売り場から戻ってきた。結局、マフラーじゃなく手袋にしたらしい。それほど気に入ったものが買えなかったのか、少し不機嫌そうに見えた。
「あら」
ご飯を食べ行こうと、エスカレーターに乗ると、お母さんがそれを見つけた。「なつめ、見ていく?」と指をさす。左側、下り方向のエスカレーターの側面にある、案内広告だった。
七階、催し物会場、児童絵画コンクール展。
ゆるゆるとした速度で通り過ぎていく中、それらの文字を目で追った。
そう言えば、一週間ほど前に案内のプリントが配られていた。お母さんも、それを覚えていたのだろう。「あなたが夏休みに描いていた、あのグラデーションの課題でしょう」とプリントを渡した時も言っていた。
「どうする?」
「行く」
私は答えた。黛君の絵が飾られているところを見るのは、少し気後れしたけれど、これ逃すとチャンスはないのだと思うと、やはり行っておいた方がいい気がした。
レストラン街の六階を通り過ぎ、最上階の七階に向かう。会場周辺は人もまばらで、私達と同じように親子で入っていく人達がちらほらと見られる程度だった。
筆で書かれたコンクール展の看板を横目に、展示スペースに入っていく。暗闇の中、オレンジ色の照明がぼんやり灯り、黒い布が貼られた壁に、額に入った絵が点々と飾られていた。
ひとつひとつそれらを眺めていく。額縁の下、ネームプレートに書かれた学校名は知らないものばかりで、私達が描いたススーの物語とは、明らかに違うテーマの作品もあった。どうやら学年が違うらしい。四年生の展示はもう少し先のようだった。
赤の他人が描いた絵を流し見しながら、暗がりを進む。オレンジ色の照明の中では色彩が分かりづらく、せめて絵に当てる光ぐらいは白色のものにすべきだと感じた。
「なつめ、この子知ってる?」
お母さんが立ち止まったところに、他の作品とは少し距離をおいた額縁があった。紅白のリボンで作った花が添えられており、「特別賞」と書かれた文字が見える。
黛君の絵だった。この照明の下でもはっきりわかるほど、派手な色使いで描かれた、あの海だ。
「この子、同じ学校でしょう」
「うん」胸にそわそわしたものを感じながら、私はうなずいた。「同じクラス」
「え?そうなの」
お母さんは、絵の下のネームプレートを見た。
「マユズミトオル、君?男の子?」
「うん」
「仲は良いの?」
「ううん」
「そう」お母さんは、あらためて、まじまじと黛君の絵を見た。「よく描けているわね。迫力があるわ」
そうだろう、と思いながら、私も絵を見た。先生が教壇で見せた時はむき出しの画用紙だったが、額縁に入ったことで、風格が出たように感じる。さらに、特別賞の花も添えられているのだから、なおのことだ。
「親御さんが描いたわけじゃなさそうね」
ぼそり、とお母さんが言った。
瞬間、頭に熱湯が注ぎ込まれたような感覚がした。
「なんてことを言うの?」
他の人が振り向くほど、大きな声が出る。お母さんも驚いた顔で、こちらを見ていた。私自身も、自分が場をわきまえず、感情で動いたことに、動揺する。
それでも、お母さんへの抗議は止まらなかった。
「黛君は、違うよ」唇が勝手にわなわなと震え始める。「黛君は、本物だよ」
「なつめ、どうしたの」
「本物だもん、黛君は」
だから、こんなに苦しいんだ。そんなことも知らないで。
本物。本物。上手く言葉がうかばなくて、同じ台詞を私はくり返した。本格的に涙があふれ出てくる。嗚咽が口からもれそうになるのを、揺れる唇を噛んで必死にたえた。
お母さんの手が、私の背中にそえられた。じんわりとした温かさが、肺まで伝わってくる。
「なつめ、出ましょう」
その手に押し出されるように、私は展示会場の暗がりを出た。

六階のレストラン街は、ピークの時間帯を過ぎたからか、わりと空いていて、目当ての洋食屋さんにもすんなり入れた。壁際の席に案内された私達は、向かい合って座った。
会場を出てからこっち、こらえきれずに半べそをかいてしまっていた私は、メニューを渡されても食指が動かず、「いらない」と突き返してしまった。お母さんは「そう」とうなずいて、自分の分のハヤシライスと、私にクリームソーダを注文した。
「あなた、好きでしょう。クリームソーダ」
確かにそうだが、頼むのは久しぶりだった。いい加減そんな子供っぽいものは卒業しなさい、と随分前にたしなめられた覚えがあった。
お母さんはお冷を口にし、紙ナプキンをコースター代わりにして、テーブルに置く。心なしか、挙動がおかしい。急に私が泣き出すものだから、わけがわからず困惑しているのかもしれなかった。
「ええっと」と何かを言い淀むようにした後、「あの絵を描いた黛君だけど」と私を見る。
「かっこいい子?」
「へ?」
何を聞かれているのかわからず、お母さんの顔を見る。口にした本人も照れ臭いのか、少し頬が赤らんでいるように見えた。
「ううん。かっこよくはない」
私の返答に、「あぁ、そう」と力が抜けたようになる。もしかしたら、と思い、今度は私の頬が赤くなってしまった。
「お母さん、私が黛君のこと好きだと思ったの?」
「そういう可能性もあると思っただけよ」
さっき口をつけたばかりのお冷をまた口元へ運ぶ。水滴で紙ナプキンが底にくっつき、わずらわしそうにそれをはがす。
意中の人の作品がけなされたから、ムキになって反論したのでは。そう思われたのか。どれだけ自分の娘を子供扱いしているのか、と腹が立ってくる。同時に、あの厳しいお母さんが、それを恥ずかしそうに確認してきたことが、ひどく滑稽にも感じられた。いずれにせよ、もう涙を流すようなセンチメンタルな気分には戻れない。
「好きじゃないよ」
「うん。わかった。ごめんなさい」
ウエイトレスさんが来て、私の分のクリームソーダを置いていった。先に飲みなさい、と促されるが、もうすぐお母さんのハヤシライスも来るはずだ、と思い、待つことにした。
「あの絵だけれど、ね」
お母さんが言った。
「私は、あんまり好きじゃない」
「……好きじゃない?」
聞き返すと、うん、とうなずく。あなたにその気がないから好き勝手言わせてもらうけれど、と前置きして、お母さんは続けた。
「赤とか黄色とかで塗りたくって、気持ちが悪かった。海を描くなら、やっぱり青がいいわ。お友達の作品を悪く言うようで申し訳ないけれど、こればかりは好みの問題ね」
「でも、先生もみんなも、すごくほめてたよ」
「だから、好みの問題なのよ。もっと言うとね、自分はこの色が海だと思う、って好き放題に塗るっていう精神も、あんまり好きだと思えない。すごく我がままに感じちゃう」
実際、その子がどんな子か知らないから想像だけれど。随分甘やかされて育ったんだな、って思うわ。
お母さんは言って、私のクリームソーダに刺さったストローをおもむろに引き抜いた。先端がスプーン状になったそのストローで、緑色のソーダに浮かんだアイスをすくい、私に手渡す。溶ける前に食べなさい、という意味だろう。私はそれを受け取った。
白いアイスを口に含むと、ちゅるりと舌の上で溶けると共に、甘い風味が広がった。私が満足げにしているのを見たのか、お母さんはうっすらとした笑みを浮かべる。
「私はね。あなたの絵の方が好き」
お母さんは言った。
「あなたが図書館に行って、がんばって絵の勉強をして描いた、あのグラデーションの海の方が好きよ」
「ありがとう」私は言った。「でも、がんばらなくちゃいけないのは、才能がないせいだから」
思わず出た本音に、お母さんの表情がゆがんだ。せっかく励ますようなことを言ったのに、私が落ち込んだ様子から抜け出せずにいるのが、気にさわったのかもしれない。
はぁ、と大げさなため息を吐き出し、お母さんは私からストローを奪い取った。さっきと同じように先端でアイスをすくって、今度は自分の口に入れる。味わうというより、無理やり冷たいものを放り込むことで、自分自身に発破をかけているように見えた。
「あなた、あの子、黛君だっけ?あの子の才能に嫉妬して、落ち込んでいるの?」
口から出したストローを、ずどん、とクリームソーダに戻す。お母さんにしては品のない、めずらしい行動だった。
「いや、そういうわけでは……」
「どうなのよ」
「はい。まぁ、そうです」
正確に言うと、黛君個人にと言うよりかは、才能のある人全般に、という漠然とした思いなのだけれど、勢いに気おされて、うなずいてしまった。
お母さんはもう一度、はあ、と大きなため息をついた。
「そのクリームソーダ、いくらだった?」
「え?」
「クリームソーダ、いくら?」
「え、えぇっと……」
「メニューを見る」
「あ、はい」急に何だ。意味がわからないながらも、机の端に立てたメニューを開く。クリームソーダの文字を急いで探した。「ご、五百八十円」
「あんた、それ払える?」
「え」
「財布に、五百八十円入ってる?」
まさか怒らせた罰として、お小づかいから自腹で支払えという意味だろうか。困惑の上に、悲しさがトッピングされる。
「払えます」
「それと一緒よ」
「……え、あの、え?」
「才能があるから、いい絵が描けるのなんて、お金があるから、クリームソーダ が買えるのと一緒なの。わかる?全然すごくないの」
どういう理屈だ、と思ったけれど、言いえて妙だという、不思議な納得感もあった。
「それにね。どれだけ才能があっても、お金と一緒で底をつく日がいつか来る。その時に、そういう人達は自分で稼ぐ術を知らない。対して、あなたはどう?本を読んで、勉強して。手にするものの対価をしっかり自分で稼いでいる。言いたいこと、わかる?」
肩を怒らせて詰め寄ってくるお母さんに、私はうなずく。
「いい、何度でも言うわよ。あなたの方がすごい。あなたの絵の方が絶対にすごい。あなたのがんばりを、もっともっと伸ばせる環境に、あなたは行くべきなのよ。なのにあなたと来たら、才能がない程度のことで、ぐずぐずして」
「うん。わかった。わかったから、ちょっと落ち着いて」
「落ち着いてるわよ。まったく」
鼻息を荒くして、お母さんは背もたれに身体をあずける。
自分の顔が紅潮していくのがわかり、私は下を向いた。ごまかすようにもう一度アイスを食べてみるけれど、火照りは治らない。膝の上で拳をにぎり、展示会場の時とは別の意味で、涙が出てきそうになるのを懸命にこらえた。
お待たせいたしました、とさっきとは違うウエイターの人が、お母さんのハヤシライスを運んできた。ほくほくと上がる湯気にまじって、デミグラスソースの奥深い香りが鼻をくすぐる。お母さんはカトラリーの入ったカゴからスプーンを取り出し、いただきます、と一口目をすくった。
「お母さん」
私は言う。ちょっと鼻にかかった声になったが、もう涙は出そうになかった。
「何よ」
「ごめん。やっぱり私……」
「そうでしょう?」
待ってました、というタイミングで、私のお腹が鳴った。ようやく治ってきたのに、今度は恥ずかしさで、顔が熱くなる。
お母さんは、そんな私に見せびらかすように、もぐもぐとハヤシライスを楽しんで、ゆっくりと飲み込んだ。
「お母さん」
私の訴えに、吹き出すように笑って、お母さんは言った。

「メニューを見る」


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