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【掌編】歯車

小学三年生の時分、一度だけ歯車になったことがあった。

居残りをして遊ぶタイプではなかったので、その日も真っ先に帰宅。母親は買い物にでも出ているのか、留守だった。誰もいない家のリビングでスナック菓子を摘んでいると、電話が鳴り出した。

受話器を取り、姓を告げる。十中八九、セールスか何かだと思っていたので、「母はいません」と答えるよう、口が準備をしていた。

「おう。雄太か」

父親だった。まだ勤務先にいる時間帯だ。わざわざ電話をかけてくるとは、何か緊急の要件だろうか。

「お前一人か。母さんは」
「わからない。買い物だと思う」
「そうか」
「どうしたの」

訊ねると、父は「よし」と呟き、続けた。

「雄太。悪いが、ちょっと頼まれてくれるか」

めずらしい。
そもそも父親と電話で話すことなど、それまで記憶にあるかないか。加えて、こうして頼まれごとを受けるのは、おそらく初めてのことだった。

「何」
「父さんの書斎、今行けるか」
「うん」

固定電話の子機を持って、移動する。リビングのドアを開け、廊下を渡って、父の部屋に入った。

「机の上に、紙の束が置いてないか」

確かに、あった。

「あるよ。紐で綴じているやつ」
「そうそう、それだ」
「これがどうしたの」
「悪いが、今から持ってきてくれないか」
「え?」

持って行く。父の職場へ、ということか。一度連れて行ってもらったことがあるにはあるが、ひとりでたどり着けるものか、心もとない。

「いつも行くJRの駅、あるだろう。そこまで持ってきてくれ。ヒライっていう背の高いお兄ちゃんが来るから、その人に渡してもらえればいい」

それならば、できる。
JRの駅はやや遠いが、自転車で行ける距離だ。

「ヒライさんは……えーっと何時だ」受話器が塞がれたのか、もごもごとくぐもったやりとりが聞こえる。やがて元に戻って「四十分。今から四十分だから、四時半ごろか。それぐらいで着くだろうから、改札の前で待っていてくれ」父が言う。
「わかった」
「悪いな。時間はあるから、気をつけてくるんだぞ」
「うん」
「じゃあ、よろしく」

電話が切られる。自分も子機の通話ボタンを切り、件の書類を手に取った。

原稿用紙サイズの薄い紙が二つに折られ、右側の二つ穴に通された黒い紐で、びっちりと綴じられている。厚みは三センチほどで、それなりの重量があった。

父親は法律関係の仕事をしており、当時この手の書類はしばしば家の中で見られた。今でこそ、ここまで分厚い紙の資料など見る影もないが、その頃はまだパソコンすら家庭に導入されていない、そんな時代だった。

綴じ紐の方を片手で持ち上げると、もう片方がだらりと垂れた。子機を持ったまま、その垂れた部分を支える。反物でも運んでいるかのような格好で、それをリビングまで持って行った。

四時半。ここから自転車を飛ばしても、駅まで二十分ほどだから、十分に時間はある。しかし、リビングの机に残ったスナック菓子に、再び手をつける気にはなれなかった。

とりあえず子機を元に戻し、電話台の上に書類を置く。
そしてこの先の段取りを考えた。

まず、父親の書斎に戻り、もう一度机の上を見た。間違えて、違う書類を手にとってやしないか、不安になったからだ。しかし、自分が見つけたもの以外に、それらしい対象はない。やはりあの紙の束で、間違いなさそうだ。

となれば、次は梱包である。あのまま剥き出しの状態で、書類を手渡すのは抵抗があった。書斎を見渡しても、適当なアイテムは見当たらない。机の下の引き出しを漁ると、マチ付きの茶封筒が見つかった。口に丸いボタンのような留め具と、平たい紐がつけられているタイプ。それをリビングに持って行き、件の書類を入れ込んだ。マチの余裕を持ってしても、パンパンに封筒は膨らんだが、綴じ紐を使えば、ちゃんと収納できた。

自室へ行き、リュックサックを取り出す。図書館へ行くときに使う、大きめのサイズのものだ。それに膨らんだ封筒を入れ込んで、その足で玄関を出た。

自転車に跨り、ペダルを漕ぐ。

夕暮れ近い時間帯であったが、外にはまだ昼間の明るさがあり、ランドセルを背負った一団や、制服姿、買い物袋をぶら下げた主婦たちが往来していた。
それらとすれ違い、あるいは追い越し。それぞれがいつも通りの日常を送っている風景を、カッターナイフで切り裂くように、自転車を走らせる。

不思議と、高揚感があった。

学校から帰り、お菓子を食べ、宿題に手をつけ、夕方のアニメを見る。
そのルーチンの中、いつもと違うイベントが舞い降りたことによる、興奮もあっただろう。
だが、それだけではなかったように思う。

父親が急遽こうして依頼するほど、今自分の背中にある書類は重要なもので。
そしてその書類を届けられる者は、世界でただ自分しかいない。

その事実が、たまらなく胸を高鳴らせた。

朝起きて、学校へ行き、授業を受け、帰宅し、眠る。ただそんな日々を繰り返している自分という存在が、俗に言う「社会の歯車」の一つとして、何か大きなものを動かしている。
そして、自分がしくじれば、その大きなものは動くことはない。

欠かすことのできない、重要な役割。今それを自分は担っている。
そんな気がした。

駅に着くと、驚いたことに、明らかにそれらしい人影がすでにあった。
改札前のベンチで、腕時計と睨めっこをしている背の高い男性。ジャケットを着ていない、屋内からそのまま飛び出して来たようなシャツにネクタイという出立ちは、夕方の駅構内で、どこか異質な雰囲気を纏っていた。

「あの」
恐々と、しかし、半ば確信を持って声をかけた。
「ヒライさん、ですか」
男性はこちらを向き、驚いたような顔で立ち上がる。すっきりとした短髪で、目鼻立ちの整った人だった。
「えっと、ユウタ……君?」
「望月雄太です」

頭を下げると、「随分早いな」とヒライさんは近寄ってきた。こちらの台詞である。

「父からは、四時半ごろと聞きました」
「あぁ、うん。一本早いのに乗れたんで」

それは急いできた甲斐があった。
リュックを下ろし、中から封筒を取り出す。

「これです」
「あ、どうも」

ヒライさんは受け取り、紐を解いて、封筒の中を覗く。幾ばくか、表情に安堵の色が見てとれた。

「確かに。助かりました。ありがとうございます」

頭を下げるヒライさん。それに対し、頭を下げ返す。

「いえ、父が忘れものをしたのが原因ですので」
ヒライさんは目を広げて、「しっかりしているなぁ」と苦笑いをしてみせた。そして腕時計を見る。

「まだ時間があるな」
「はい?」
「ジュース、飲むかい?好きなのを選びなよ」

ヒライさんは封筒を小脇に抱え、券売機の奥にある、自動販売機に向かって歩き出した。

「あ、いえ。結構です」
「そう言わずに。せっかく来てくれたんだから」
「いえ。本当に」
「もしかして、喉、乾いてないかい?」

実のところ、カラカラだった。しかし、どうにも奢ってもらう気にはなれなかった。

「本当に、大丈夫です」
「そう言わずに」
「要りません」

気持ち、語気が荒くなった。怪訝そうな顔で、ヒライ氏がこちらを振り向く。
怯みそうになるが、負けじと、半ば睨むようにしてその目線に応える。

今思えば、素直に厚意に甘えておくべきだったのだろう。かえって失礼な真似をしたとも言える。
だがこの時は、自分でも不思議なくらいに頑なだった。

ここでご馳走になってしまえば、先程ペダルを漕いだときに感じた高揚が嘘になってしまう。
自分のしたことが「仕事」でなく、ただのご褒美欲しさの「お手伝い」に成り下がってしまう。
そんな気がした。

ヒライさんは数秒こちらを見つめて、ふ、と口元に笑みを浮かべた。そしてもう一度、腕時計を見て、頷く。

「わかりました。じゃあ早めの電車で戻ることにします」

今からだと、快速に乗り換えれば、少し早く着けますし、と付け加える。そして自動販売機でなく、券売機の方へ足を向けた。

「せっかく急いで持って来てくださったんだ。僕も飛ばさないと」

そそくさ切符を買い、改札を通る。飛び出た切符を胸ポケットに仕舞って、もう一度振り返り、自分を見た。

「雄太さん、本当に助かりました。気をつけて帰ってください」

そのまま会釈をして、ヒライさんはホームへ続く階段へと消えて行った。
その背中を見送って、自分も踵を返し、駅前に駐輪した自転車の元へと戻る。

空になったリュックを背負い、サドルに腰掛けてペダルを踏む。車輪が回り、前進する。
帰ったら、スナック菓子の続きを食べて、宿題をしよう。
その前に、何か飲み物を口に入れなくては。

冷蔵庫に、牛乳かジュースか、まだ残っているだろうか。
なければ小銭を持って、コンビニまで繰り出すことにしよう。

続く段取りを考えながら、乾いた体を家へと運んだ。


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