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【掌編】嫌い

ハナちゃんの様子がおかしい。

ついこの間までは、いつものようにキミエちゃんと仲良く遊び、オルガンに合わせて大声で歌って、お昼ごはんもぺろりと平げていた。
それが先週に入ったあたりから、どうにも元気がない。

キミエちゃんと遊ぶには遊ぶが、今までのようなはしゃぎ声が聞こえない。ハナちゃんの好きな『さんぽ』を弾いているのに、「あるこうあるこうわたしはげんき」の声に元気がない。ごはんも残さず食べ切るものの、あまり美味しそうな顔には見えない。

何かしら、この保育園に来るのを嫌がる理由があるのだろう。

朝、ママに連れてこられた瞬間から、目線は下を向き、あからさまに気乗りしていない。以前なら教室に飛び込んで行くところ、最初の一歩がどうにも重い。反して夕方にお迎えが来ると、一目散にママのもとへと駆け寄っていく。甘えん坊な子が多い中、ハナちゃんは割と自立している方だったけれど、ここのところは親元が恋しくて仕方がないように見える。

一日や二日なら、そこまで問題視はしない。だが、週が明けてもなお続くと、話が変わってくる。

「実は最近ハナちゃん、どうも元気がないように見えるんですが」

お迎えに来たハナちゃんママに、思い切って打ち明けてみた。

ハナちゃんママはいつも「キャリアウーマン」といった風貌で、仕事帰りにも関わらず、朝から一ミクロンもメイクが崩れていない。ぴっしりとスーツを着こなし、隙のない出立ち。しかし、この時は意外だったのか、「え?」と虚をつかれた顔で、真向かいにある教室を見た。

教室では、お迎えを待っている児童が、積み木をしたり本を読んだり思い思いに過ごしている。当のハナちゃんは、いそいそと身支度を整えていた。

「家では、まったく変わりはないですけれど……」
「そうなんですか。じゃあ、やっぱり保育園で嫌なことがあったのかな。先週あたりから、お友達と遊んでいても、あまり楽しそうではなかったり、おうたの時間も声が小さかったりで」
「お友達って、キミエちゃんですか」
「ええ、よく遊ぶのはキミエちゃんです」

ハナちゃんママの目線の先、教室にキミエちゃんはいない。キミエちゃんママはパートタイム勤務なので、いつも早めにお迎えが来て、ハナちゃんより先に帰っていく。

「あの、もしかしたら」ハナちゃんママは、少し言いづらそうに前置きして、私を見た。「そのキミエちゃんとのことかも知れません」
「え?」
「キミエちゃん、少しマイペースなところがあるじゃないですか。おっとり気味のハナからしたら、たまについて行けないことがあるみたいで」

そうだろうか。
私からすれば、キミエちゃんもハナちゃんも、共におてんばの部類に入る。だが確かに、より奔放なのはキミエちゃんで、ハナちゃんはそれを優しく見守るお姉さん、といった風にも見える。

「一度お休みの日に、キミエちゃんが家に遊びに来たことがあるんです。二人してお人形遊びをしていたんですけれど、キミエちゃん、散らかすだけ散らかして、そのまま帰っちゃって。それをあの子、ひとりで片付けていたものだから」

もしかしたら、普段からそういう目に遭っているんじゃないか、って。

ハナちゃんママは、眉間に皺を寄せて言った。

「私が見る限り、仲良く遊んでいるように見えますが……」
「でも、最近は楽しそうじゃないんですよね」
声音に、少し尖りを感じた。
「えぇ」私は頷く。「ハナちゃんはしっかり者の分、少し無理をしているところがあるのかも知れません。キミエちゃんとのことに限らず、何か負担がいっていないか、見ておくようにします」
「そうしていただけると助かります」

「ママ」

教室から、支度を終えたハナちゃんが飛び出してきた。肩にかけた黄色いポーチを弾ませ、とたとたと駆け寄ってくる。満面の笑みで母の胸へ飛び込む様に、日中もこれぐらいの元気を取り戻してくれればいいのだが、と思った。


言われてみれば、であるが、確かにハナちゃんとキミエちゃんの間には、以前にはない距離ができているように見えた。

単純に「楽しくなさそう」というだけでなく、ハナちゃんが意図的に、キミエちゃんとの交流を避けている節があった。ハナちゃん遊ぼう、とキミエちゃんが近寄っても、少し逡巡した素振りを見せる。お遊戯でペアを作るときにも、いち早く違う誰かと手を繋ぎ、まるでキミエちゃんに声をかけられる隙を与えないようにしているかに見える。

子どもというのは敏感なもので、そんなことが幾度か続くうちに、今度はキミエちゃんの方が音を上げてしまった。
ハナちゃんが遊んでくれない。そう言って、泣き出したのである。

それに呼応するようにハナちゃん自身も泣き始め、一時教室に阿鼻叫喚の嵐が起こった。私のほか、数人のスタッフが事態の収集に入り、その日の職員会議で、このハナちゃん・キミエちゃん問題について話し合われることになった。

先週の申し送り時から、ハナちゃんの異変については共有してあったので、話はスムーズだった。

「特にケンカした様子はなかったけれど」
「でも確かに、キミエちゃんはワガママが過ぎる時がありますよね」
「それを言い出したら、どの子もそうでしょう」
「単純に気分の問題ということもあると思います」

その場にいたスタッフ六名の内でも意見がまとまらず、最終的には園長先生の

「とにかく、まずは当人の話を聞いてみることが先決です」

という言葉で締め括られた。

ハナちゃんの話を聞く。もちろん、担当である私の役目であるし、他の誰かが指名されたとしても、譲ってもらうつもりであった。

笑顔が絶えなかったハナちゃんの心を、一体何が曇らせているのか。

できるなら自分の手でそれを突き止め、解消してやりたい、という思いがあった。


次の日の夕方、先にキミエちゃんが帰るのを見送り、教室に残るハナちゃんに私は声をかけた。「あっちのお部屋でお話しよう」と、職員室横の小部屋に入り、窓からの陽光に背を向ける形で設置されたソファに、並んで腰掛けた。

「はい」

エプロンに忍ばせておいた個包装のクッキーを渡すと、ハナちゃんはきょとんとした顔でそれを見つめた。小腹が空いたとき隠れてこっそり食べている、私の非常食だ。「みんなには内緒だよ」と人差し指を唇に当てると、口元を綻ばせ、受け取ってくれた。

「ありがとう」

きちんと礼を言ってから、包みを開ける。
いつも思うが、こういうときに各家庭での教育が見て取れる。ハナちゃんは活発ではあるものの、基本的に行儀のいい、しつけの行き届いた子だ。日頃からハナちゃんママの教えがしっかりしているに違いない。
対してキミエちゃんなら、こういうときに「ありがとう」とは言わない。言ったとしても、先に包みを開けて中身を口に頬張りながら、だ。

「ハナちゃん」
チョコチップのクッキーに、はむ、と口をつけるハナちゃんに、私は声をかけた。
「ハナちゃん、最近キミエちゃんと遊んで、いやなことがあった?」

ハナちゃんはクッキーから口を離し、私を見る。「食べてからでいいよ」と言うと、どこか心あらずな様子で、欠片サイズのそれを口に含む。

「キミエちゃんと、ケンカした?」
「ううん」

首を振るハナちゃん。表情は暗いものの、答えてくれる気はあるようだ。

「じゃあ、キミエちゃんに、何かいやなことされた?」
「ううん」
「でも、ハナちゃん、最近キミエちゃんとあんまり遊んでいないよね」
「……うん……」

ハナちゃんから漂う空気が重く、暗いものに変わるのを感じた。やはり、キミエちゃんとの間に、何かあるのだ。
より柔らかな声音を心がけ、私は続ける。

「先生、ハナちゃんとキミエちゃんは、なかよしでいいなぁ、って思っていたの。だから、最近遊んでいないの、不思議に思って。何か、キミエちゃんを嫌いになっちゃうことがあったのかな」
「……ない」
「ないの?じゃあ、キミエちゃんのこと、好き?」
「好き」
「好きだけど、遊ぶのは嫌なの?」

ハナちゃんは答えない。クッキーを持つ手が膝まで下がり、俯き気味になる。

どういうことなのだろう。
何かあったわけでも、嫌いになったわけでもない。でも遊びたくない。

同僚スタッフの意見にあったように、単純に気分の問題なのだろうか。たまにはキミエちゃんとは違う子と遊んでみたい、とか。しかし、それにしては、ハナちゃんの態度には、はっきりと拒絶の色が見て取れる。

わからない。

ポケットからクッキーをもう一枚取り出し、袋を開けて、自分でかじる。生地の甘さに混じり、チョコチップのほろ苦さが舌で転がる。
思えば、子どもの頃はこの複雑な風味があまり好きではなかった。ハナちゃんにも、もっとわかりやすい味のものがよかったかも知れない。

「ハナちゃん、チョコチップクッキー、美味しい?」

ハナちゃんの顔が上がる。

「うん」
「本当?おうちでも食べたりする?」
「うん。でも、おうちのは、ちがうやつ」
「ちがう?」他のメーカーが出しているものだろうか。「どんな風に違うの?」
「ママが、やいたやつ」

なるほど。
ママの元へ意気揚々と駆け寄る、いつものハナちゃんが脳裏に浮かんだ。

「ハナちゃんのママ、すごいね。クッキーを焼いてくれるんだ」
「うん」
「ママのクッキー、美味しい?」
「……うん」
「ハナちゃん、ママのこと大好きだもんね」

ハナちゃんの顔から色が消えた。

瞬時に起こった変化に、ぞわりとした感覚が背筋を走る。

「ハナちゃん?」

ほどなくして、ハナちゃんの目から、大粒の涙が溢れ始めた。しかし、声を上げることはない。震える唇を懸命に食いしばり、漏れ出てくる嗚咽をこらえているかに見えた。

「ハナちゃん、どうしたの」

クッキーを持つ手が震えている。私はハナちゃんの肩を抱き、もう一方の手で背中をさすった。
私の両腕の中で、小さな身体が痙攣する。痛々しさに胸が締め付けられるも、理由がわからないことからくる困惑が勝った。

なんだ。何が一体、どうした。

「好きじゃない」
「……え?」
「ママ、きらい」
「……ハナちゃん、ママのこと、嫌いなの?」

やや間があった後、頭が縦に振られた。

「どうして」

答えを待つ。やがて、またぽつりと、ハナちゃんから言葉が零れる。

「ママ……キミエちゃんとあそぶの、よくない、っていうから……」
「……よくない……」キミエちゃんと笑顔を交わす、少し前までのハナちゃんを思い出した。「ハナちゃんのママが、そう言ったの?」

無言の頷きが返ってくる。

なるほど、だからキミエちゃんと遊ばないようにしていたのか。

自分の思いと母親の思いの間で、葛藤し、苦しんでいた。実の母親を「嫌い」と評してしまうほど。最近の元気のなさは、その激しいジレンマからくるものだった。

「……よくわかったよ、ハナちゃん。話してくれて、ありがとう」

私はハナちゃんの頭を軽くさすった。そしてその顔を上げさせ、目線を合わせる。泣き腫らした二つの目が、私を迎えた。

「先生からも、キミエちゃんとまた遊べるようにお願いしてみる。だからハナちゃんも、ママにお話してみよう」

だから安心して。そう思いを込め、ハナちゃんを見つめる。
だが、ハナちゃんは、横にかぶりを振った。

「ママ、きらい。おはなししたくない」
「そんな。嫌いだなんて言わないの」
「どうして」
「ハナちゃん、いつもママがお迎えに来たら、とっても嬉しそうにしているじゃない」

あれが演技だとは到底思えないし、そもそも保育園児にそんな真似ができるとも思えなかった。

「それは、よろこぶから」
「喜ぶって、ハナちゃんが?」
「ううん。ママが」

わたしがよろこぶと、ママがよろこぶ。だから、わたしもうれしい。
ハナちゃんはそう言った。

「ママを喜ばすために、ハナちゃんもよろこんでみせているの?」
「うん」

衒いもなく言い切る様子に、場違いにも心が和んだ。
意外にもこうして、子は親に気を遣っているものなのだ。それを思うと、なんともかわいらしい。

「ハナちゃんは、ママに喜んで欲しいのね」
「うん」
「でもそれって、ママが大好きだからじゃない?大好きだから、喜ばせたい、って思うんじゃないかな」

ハナちゃんは黙り込む。我ながらスマートな誘導尋問。これを機に、ハナちゃんの心にかかった靄が少しでも晴れてくれれば、自体は好転するだろう、と思えた。

しかし、

「ちがう」

再び頭を振ったハナちゃん、その口から続く言葉に、私は自分の浅はかさを思い知らされる羽目となった。


その日、いつもと同じ時間帯に迎えにきたハナちゃんママに、私は小さく声をかけた。

「今日、実はハナちゃんと少しお話したんです」

訝しげに、ハナちゃんママがこちらを見る。

「ハナちゃん、ママのことが大好きみたいで」
「……え、そんなことを話していたんですか」
「はい」

喉元に鉛玉のような異物感を抱えながら、私は続ける。

「だからでしょうか。キミエちゃんのことも、ちょっと悩んでいたみたいです」
「キミエちゃん?どうしてですか」
「ハナちゃん、やっぱりキミエちゃんのことも大好きみたいなんですよ。私の目から見ても、一緒に遊んでいて楽しそうにしているし。それは間違いないと思います」

ハナちゃんママは黙る。そうすることで、会話の流れに小さく争うかのように。

「大好きなママから、大好きなキミエちゃんと距離を取るように言われて、ハナちゃんの中で葛藤があるように見えました」
「距離を取るって……私は、あの子と遊んでいるのが辛そうだから、無理をしないで欲しくて……」
「はい。ハナちゃんはかしこい子だから、きっとそういうママの心配も汲んでくれてのことだと思うんです」

私は小さく頭を下げた。

「差し出がましい真似をしてすみません。ですが、もしよろしければ、あらためてハナちゃんの気持ちを聞いてみてもらえませんか。キミエちゃんと遊べないことが、かえってハナちゃんのストレスになっている場合もあるかもしれません」

教室から、ハナちゃんがカバンを揺らし、駆け寄ってくる音が聞こえた。それがこちらに到着する僅かな間に詰め込むように、「わかりました」と一言、ハナちゃんママは返してきた。

「ママ!」

勢いよくママの元へ飛び込むハナちゃんは、いつも通り、満面の笑みを浮かべている。それを抱き止めるハナちゃんママの表情には、いつもよりほんの少し、申し訳なさが滲んでいるようにも見える。

「先生、さようなら」

片一方の手を元気よく上げ、もう一方の手をママに引かれながら、ハナちゃんは園から去っていく。ハナちゃんママも、こちらに目くばせをするようにして、軽く会釈をしてくれた。

私は喉元の鉛玉を飲み込む。

キミエちゃんとのことは、これで少しは状況が変わるだろう。もしかしたら明日からでも、園内で笑って過ごす、ハナちゃんの姿が見られるかもしれない。

だが、それでも、ハナちゃんの心が完全に晴れることはない。
仲睦まじい様子で去っていく親子の背を見送りながら、私は思う。頭には、小一時間ほど前、あの小部屋でハナちゃんから聞いた言葉があった。

「おせわになっているから」

ハナちゃんはそう言った。
ママに喜んでほしい、ままが大好きなふりをする理由として、「おせわになっているから」と。

一体どこで覚えたのかは知らないが、三歳の子が使う言葉ではない。また、何をきっかけにそれを思うに至ったか、その経緯も定かではない。
だが、ハナちゃんはしっかりと意味を理解した上で、それを口にしているように見えた。

なんて残酷な言葉だろう。
親にとっても、そしてハナちゃんにとっても。

自分を育ててくれている。そのことに深い感謝を覚えながらも、その恩に報いることができずにいる。
愛情に対し、返せる愛情を持てずにいる。

嫌い。

その感情を持つだけで、どれほどまでにハナちゃんが傷つき苦しんでいるか。
それを思うと、胸が押し潰されそうな気持ちになった。

保育園から、ハナちゃん親子の姿が完全に消えた。教室には、まだ残っている子が、あと数名。すでに日が暮れた空に背を向け、私は持ち場に戻る。

ふと、空腹を覚えてポケットに手を入れる。
先程ハナちゃんが一口だけ頬張り、それ以上は食べられなかったクッキーが、指先に触れる。


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