【掌編】神はアイスクリームから生まれる
ただ歩くというわけにもいかない。かと言って、最寄りのバスは数時間に一本。タクシーもあるにはあるが、呼んでもなかなか来ない上、長距離だから金もかかる。
「ここは素直に甘えてください」
そう言って室井さんは、車を出してくれた。こちらの視察は昨日で終わり、土曜である今日は非番のはずだ。休日を犠牲にさせるのは気が引けたが、しかし、田舎のアクセスの悪さを舐めていた。飛行機の時間に間に合わせるためにも、申し訳ないが、頼ることにする。
「いいんですよ。こんな離島で、本社のホープを途方に暮れさせたとあっては、むしろ私のクビが危ない」
ハンドルを握りながら、快活に笑う。歳は五十代前半か。日焼けした肌に、がっちりとした体躯。顔には始終柔和な笑みが貼り付いており、側にいるだけで安心感を与えてくれる。今回の現場視察においても、右も左もわからぬ自分を隅々まで案内し、製造過程のいろはの「い」から懇切丁寧に説明してくれた。
「いやいや、理解がお早くて、説明する方も楽でした。本社採用の方は、頭の出来が我々とは違います。やっぱり皆さん、有名な大学を出ていらっしゃるんでしょう?」
室井さんの話に、躊躇いながらも頷きを返す。会話の流れ上、出身校を訊ねられるだろう。自分のそれは、日本で一、二を争う国立大学だ。謙遜する方がかえって嫌味になる。
案の定、大学名を聞かれたので答えると、大袈裟にも目を見開き、驚かれた。
「こりゃあ、エリートだ。あぁ、単にエリートで片付けるのは失礼ですかね。それに見合う努力をなさってきたわけだから」
将来は社長になってくださいよ、と言う室井さんに、助手席でカバンを抱えながら、曖昧な笑みを返す。悪気があっての発言ではないだろう。が、こういうとき、いつもいたたまれない気持ちになる。
見合う努力をしてきた、と室井さんは言ったが、実際のところはそうでもない。ただ昔から勉強が得意で、志望校の選択肢が多かった。会社選びにしても、ライフスタイルに合う職場環境を備えるところを受け、最も良い条件で内定を貰えたのがここだった。その結果として、「高学歴」「大手企業の総合職」という肩書きがついただけ。多少の困難はありはしたが、さして歯を食いしばるような経験も無く、ここまでやってきた。
まるで自分の人生は神様が設計済みで、何も考えなくても、その通りに事が進んでいく感覚だった。流れに身を任せていると、自ずと最適な方向へ連れて行ってくれる。自分の意志や行動で、それを捻じ曲げたことはない。そんな自分が人の上に立ち、大事を成すべき人間と見られるのは、この上なく心苦しく、居心地が悪かった。
「失礼」
急に室井さんが、路肩に車を停め、一人外へ出た。電話を取り出し、通話を始める。車内にいる自分からは、もちろん声は聞こえない。
昨日の視察中も、こうして室井さんが席を外し、離れた場所で電話をすることがあった。仕事の関係だろう、と思っていたが、休日も同じ様子であるところを見ると、プライベートな用事だろうか。
いやぁ、すみません。苦笑を浮かべ、運転席に戻ってきた室井さんは、また車を走らせ始める。しばらく進み、赤信号に捕まったところで、「実は、母が体調を崩していまして」とギアを操作しながら言った。
「ここ数日、急に具合が悪くなることが多くて。入院先から、ちょくちょく連絡が来るんですよ」
大丈夫なんですか。訊ねてはみたが、その時はその時、との返答。こうして自分のような若僧に時間を割けるのならば、そう切羽詰まっているわけでもないのだろう。深追いはせず、大変なときにすみません、と詫びを入れるに留める。
「いえいえ」首を振り、「時間、まだ大丈夫ですよね。実は洒落た飯屋があるんです。ちょっと早いが、食って行きましょう」。室井さんはハンドルを切った。
連れて行かれたのは、丘の上にあるフレンチレストランで、テラス席から島の様子が眺望できる、まさに「洒落た」雰囲気の店だった。すでに予約も済ませていたらしく、テラスへ通じる大窓寄りのテーブル席に案内される。他に客はいない。肉と魚のコースがあり、室井さんに倣って自分も魚を選択した。
運ばれてくる料理を食べながら、会話を交わす。概ね室井さんが質問を投げかけてくる形。本社がそれほど高尚な仕事をしているわけではないこと、今回の視察は若手育成の色合いが強く、現場の働きぶりをジャッジするものではないことなどを答えると、「そういうものですか」と室井さんは頷く。
デザートのバニラアイスが運ばれてきたところで、室井さんの電話が鳴った。
「あぁ、ごめんなさい」
室井さんは電話を持ち、窓を開けてテラスへ出る。そのままこちらの視界の及ばぬ端まで移動し、姿を消した。しばらく待っても来ないので、溶けぬうちに、と先にアイスに手をつける。電話は長く、皿にあるものをすべて平らげてしまう。
「お待たせしました」
戻ってきた室井さんの声は枯れていた。視線を向けると、顔を背けるようにして、引きかけた椅子から手を離す。そのままこちらを見ることなく、「すみません。トイレに」と席を外してしまった。
再び独りテーブルに残され、何も載っていない自分の皿と、その奥、手付かずのまま歪に溶けてゆく室井さんのアイスクリームを見つめる。
何かがあったことは明白だった。恐らくもう、先ほどまでのような頻度で、室井さんに電話がかかってくることはないのだろう、と思えた。
舌鼓を打って胃の中に迎え入れた料理が、鉛のように重くなる。
どうすればよいだろう。
自分はここにいていいのか。このまま室井さんと共にいて許されるのか。この店の人にタクシーを呼んでもらい、それを使って空港まで向かう。もし間に合わなければ便をずらせばいい。だから室井さん、今すぐお母さんのところへ行ってあげてください。そう言うべきなのではないだろうか。
一方で、もう決定的なことが起こってしまっているのなら、引き続き何も知らぬ振りをして、室井さんの車に乗せてもらうべきではないか。空港まで一時間も無いはずだ。下手にリスクをとることで、室井さんに気を遣わせるよりは、今この用事を手早く済ませてもらい、憂いなく家族のところへ向かってもらう方がよいのでは。
しかし、そちらを選んで、後悔はないか。目前の不幸を見て見ぬ振りをする。自己嫌悪に陥り、この先自分を信用できなくなりはしないか。いや、そうやって自分本位な理由で選択をすることが、そもそも間違っているのではないか。
脳味噌が加熱し、ぐずぐずに融解する。
神様、どうすればいい。
無駄だとわかっていながらも、問いかけてしまう。これまで自ずと正解へ導いてくれた、全能者。そんな架空の存在に頼らざるを得ないほど、惑い、悩み、混乱する。
もちろんのこと答えはない。
自ら選び、決めなくてはならない。
この蕩けた脳で考え抜いて、自分の行く先を指し示す神様を創らなくてはならない。
今、ここで。
「あぁ、アイスが溶けてしまいました」
いつの間にか戻ってきていた室井さんが、言う。召し上がりましたか。こちらを見る目は仄かに赤い。
ありがとうございます、とても美味しかったです。頷きを返すと、私も食べたかった、と笑って、室井さんは時計を見る。
「飛行機の時間が迫ってきましたね。そろそろ行きましょうか」
はい。頷いて立ち上がる。
財布を取り出す。会計はこちらで、と手で制され、頭を下げて礼を言う。再び車に乗り込み、空港までの道を進む。窓越し、流れていく景色からピントをずらし、ガラスに映る自分の顔にフォーカスを合わせる。
これでよかったのか。
間違っていたのではないか。
いずれを採っても、後悔はある。わかっていながら、それでも自信が持てない。
この選択に甘んじたことが、悔しく思えて仕方がない。
ただ助手席で目的地まで揺られながら、
舌の上、最後に食べたアイスの味を思い出す。
****************************************
この作品は、こちらの企画に参加しています。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?