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【ピリカ文庫】水曜日の僕

水曜日が今週も来たので、僕は礼子さんの部屋で待機する。

エントランスにコンシェルジュのいる高層マンション。見晴らしのよい角部屋に、合鍵を使って入る。室内はモデルルームのように整然としていて、どこか無機質に感じるほど。退居時の清掃は僕らの仕事だが、流石にここまでは難しい。火曜日の担当はおそらくその道のプロだろう。

行きしなに買ってきた食材を、冷蔵庫に入れる。いつもカレーしか作れないけれど、礼子さんは美味しいと言ってくれる。日持ちがするのもよいところで、礼子さんの帰りが遅い日、帰って来ない日であっても、温めて食べてもらうことができる。

『入室しました。お待ちしています』

メッセージを送る。いつもすぐには既読がつかないが、しばらく待てば返事が来る。仕事ができる人はレスを怠らないというけれど、礼子さんはその実証だ。

台所に戻り、カレーを作る。食材を切っていると、スマートフォンが震える音。礼子さんから返信かと思うが、震えは止まない。電話だ。慌てて手を洗い、リビングに戻る。

ディスプレイを見て、げんなりとした。西村さんからだ。

「もしもし」
『お、出た。お前何してんだよ』
「バイトです」
『はぁ?今日から稽古だろうが』
「水曜日は外せないんです。座長には話しています」
『嘘だろ。座長オッケーしてんのか、それ』
「チケットのノルマ五倍で許してくれました」
『五倍ぃ?いくら新人のノルマでも、それは無理だろ』
「なら買い取ります」
『いやいや、いくらすると思って……』

そこで西村さんは、何かを察したような間を空ける。『お前、まさか』。案の定、詰め寄る気配を見せてくる。

『まさかこの間の公演で声かけられた、あの金持ちのオバサンのとこにいるのか』

答えない。答えないことが、答えになってしまう。

『マジか。お前、自分が何やってるのか、わかってるか』
「バイトです」
『身体を売って金もらってんだろ。売春だよ、それは』

そう単純なものじゃない。言い返したくなるが、しかし到底理解してもらえるとも思えない。

礼子さんに声をかけられたのは、先々月行った公演の千秋楽。小劇場の客席に似つかわしくない、身なりの整った婦人の存在は、僕ら舞台上の演者よりも目立っていた。まさかその女性から名刺を渡され、食事の誘いを受けるとは思わなかった。

その気があるなら、今夜来なさい。

バラシと打ち上げに不参加となってしまうため、現場監督の西村さんに断りを入れた。「ふざけるな」と怒られたが、無理を通して店へ向かった。

その日のうちに、このマンションに来た。

・毎週水曜日、この部屋で待機していること。
・他の人間は部屋に入れないこと。
・翌日の朝、原状回復を済ませて部屋を出ること。

それら条件と金額を提示され、契約が決まった。

『怪しいと思ってたんだ。ちゃんと止めておくんだった』

西村さんが言う。さすがにむっときて、言い返す。

「僕の自由でしょう」
『その通りだ。だが、先輩として見逃せない。女性の相手して金までもらって、ご満悦かもしれないけどな。後で絶対後悔するぞ』
「そんなつもりはありません」
『ないならないで問題だ。お前、もしかしてその人に愛されている、だなんて思ってるのか』

西村さんの追及は止まない。

『いいか。そのオバサンにとっちゃ、屋台で掬った金魚を、鉢に入れて眺めているようなもんだ。お前の見てくれが気に入って、気まぐれに飼ってるだけ。なんだったら、お前の他に何匹もいるんだよ』

あぁ、煩い。
そういうのじゃないんだ、だから。

「すみません、仕事なので」

一方的に通話を切る。スマートフォンを置き、寝室へ。火曜日の担当がぴっちりメイキングしたベッドに、仰向けに寝転がる。

礼子さんを思い出す。

僕の顔の輪郭を、確かめるようになぞる指先。
可愛い。可愛い。綻ばせた口元を、そのまま首筋に這わせてくる。

ある時は疲れていたのか、行為には至らず、そのまま眠ってしまうこともあった。起こさぬよう、そっと寝床から抜け出そうとすると、腕を捕まれた。

「行かないで」

そう、言われた。

自分にしかできない仕事がしたい。そう志し、役者になった。しかし、もらえるのは誰にでも替えが利く端役ばかり。礼子さんからの誘いに応じたのも、他でもない僕という存在を選んでもらえたことが嬉しかったからだ。

ほどなくして、自分以外にも、西村さんの言う『金魚』がいることを知った。僕のような夢追い人を捕まえては、餌を与えて飼っている。それも月曜から週末まで日替わりとわかり、愕然とした。

後悔と虚しさに襲われ、この場を去ろうとした。
そんな夜に、その言葉を聞いた。

行かないで。

他に替えはいくらでもいる。
曜日ごとに入れ替わる、金魚。

でも、あの夜、礼子さんの傍にいられたのは、水曜日を任された僕だけだった。

それで十分なのだと悟った。

立ち上がり、リビングに戻る。西村さんから着信が二件。礼子さんからの返信はない。

再びキッチンに赴き、カレーの続きに取りかかる。

いつか新しい金魚が現れ、僕は鉢から出されるだろう。
その時が来るまで、ここで泳ぎ続ける。
この先、どんな水槽をあてがわれたとしても、きっとそれは変わらない。
その時その瞬間を任された一匹として、精一杯役目をこなせばいい。

水曜日が今週も来たので、僕は礼子さんの部屋で待機する。

たとえこのまま返信が来なくとも。

木曜日の朝が来るまで。


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