【掌編】嘘
電話をかけることに躊躇はなかった。
夜中の十時。アプリの通話機能を立ち上げ、発信ボタンを押す。まだ仕事かもとか誰かといるかもとか、余計なことは考えない。出なければ出ないでよい。私はコールする。
『もしもし』
出た。
「もしもーし。久しぶり」
『綾香じゃん。どうした急に?』
真っ当な反応だ。年に一度、里帰りのタイミングで会うだけ、そんな幼馴染から突然の連絡である。何かあったか、と訝しむのも無理はない。
「別にー。なんとなく、智弘と喋っておくか、みたいな気になって」
『なんだそりゃ。酔ってんの?』
「素面です」
『ふうん。めずらしいな』
多少のイレギュラーも受け入れるおおらかさ。私が知る、智弘の美徳のひとつだ。
「どう、仕事の方は」
『どう、って言われてもな』
「忙しいの?」
『まぁ、そこそこだよ。この時間には帰れてる』
「今は? 何してんの」
『風呂入って、アマプラでアニメ観ようとしてた』
「あー。今期何追ってる?」
『めちゃくちゃ質問してくんじゃん』苦笑する声。『どうしたの、本当』
「だから、なんか智弘と駄弁りたい気分なの」
"だから"のイントネーションに、もうそこは踏み込んでくるな、と圧を込める。
『わかったよ。えーっと、今期はね……』
穏やかなトーンで智弘は応じる。
幼少の頃から、成長の過程で幾度か色を変えながらも、常に隣にあった落ち着きある声。高校を卒業し、互いに地元を離れてからは、めっきり聞く機会が減ってしまった。その希少性もあってか、こうして耳にする度、否応なしにノスタルジーをくすぐってくる。
心の核に寄り添うように、いつもいる。そんな存在。
私は今日、この人を諦める。
「結婚を前提にお付き合いしてください」との申し出を受けたのは、先週末のことだった。
相手は同じ会社の先輩で、部署は違うものの顔を合わせる機会が多く、何度か飲みの席でも会話したことがあった。真面目で、周囲からの信頼も厚い。仕事ぶりも優秀で、こんないい人が私を選ぶとは、世の中何があるかわからないものだ、と思えた。
とは言え急な話には違いなく、当然のことながら「考えさせてください」との返答となった。必ずお返事はしますので、時間をください。そこから今日で五日が経つ。
真っ先に頭に浮かんだのは、智弘のことだった。別に、ずっと彼に片想いをしていたわけではない。長い付き合いの中、お互いに恋人がいたことだってある。
ロマンスとは無縁の領域で、しかし絶えることなく、隣に居続けていた。交わることはなくとも、離れることはなかった。
一生側にいてもらうとしたら、智弘のような人なんじゃないか。
そう思うと、居ても立っても居られなくなった。智弘と添い遂げる人生。軽口を叩き合いながら、一緒にご飯を食べたり、映画を観たり。そんな日々を想像するだけで、胸が躍った。
同時に、その願いが叶わないものであることも理解ができた。恋愛を放棄して結婚に走る。互いに歳を取り、売れ残ったタイミングであるならわからない。しかし、まだ二十代半ばのこの時期に、智弘がその決断を下してくれるとは思えなかった。
何より、人間関係は熱量だ。熱を生じさせるには、何かを燃やさなくてはならない。
その点、遠く離れた智弘に対し、私には時間も根気も明らかに不足していた。
燃えない。
燃やせるものが、ない。
「綾香、聞いてる?」
智弘の声に、はっとする。
「ごめん。聞いてなかった」
「なんだ、それ」
苦笑しながらも、不自然な様子を気にしているのがわかる。
優しさに、涙腺が緩むのを自覚する。
いつからこうなってしまったのだろう。
好きだけでは形にするには足りなくて、形にしなくては持ち続けるのが困難で、困難を敢えて背負い歩めるほど、人生は容易くはなくて。
ただ幸せに生きるために。
色んなものを諦め、切り捨てて。
いつまで、これを続けていくのだろう。
「大丈夫か、綾香」
「……うん」鼻をすする音を勘付かれぬよう、気を払い。「余裕」
急に悪かったわね、付き合ってもらって。別にいいよ。んじゃ、またー。なんだったんだ、一体。で電話を切る。
次に智弘と話すのはいつだろう。年末に帰省するからその時か。さすがに結婚の報告はまだできそうにない。今日打ったピリオドのことなどおくびにも出さぬまま、いつもと同じように他愛ない話で盛り上がるのだろう。
きっと、それが智弘と会える最後だ。
明日、私は先輩に連絡を取る。この間の御礼と称して週末に食事に誘う。その場で交際を受け入れる。
智弘ではなく、あの人を好きになる。それができるだろう、という確信がある。
だって、私は幸せになることを選んだのだから。
大丈夫か、綾香。
たった今聞いた智弘の言葉がリフレイン。
「余裕」
涙が溢れ、音も立てず床に落ちる。
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