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【短編】SHINONOME〈5〉⑥


「これはシノノメさん。随分とお早いご到着で」

両腕を広げる榊。
パーカーのポケットに手を突っ込んだまま、シノノメは彼に目線を向けた。

「君が榊信也君?」
「はい。先程はお電話でありがとうございました」舞台役者のように頭を下げる。「別のご用件がおありだった中、お呼び立てしてしまい、恐縮です」
「あぁ、それね。いいのいいの、どの道目的地はここだったから」
「はい?」

シノノメはぐるりと室内に視線を巡らす。

「ここ、AGコーポレーションさんでしょ。こうしてお呼ばれしておいてなんだけど、僕は僕で、今日銀座でつけてきた人達に会いたくてさ。居場所を調べてたんだよね」

「なんと」榊は大袈裟にも、ぱん、と手を叩いてみせた。

「シノノメさんの方から、こちらへお越しいただく予定でしたか。それはそれは、結果的に要らぬ手間をとらせてしまいましたね」
「仕方ないよ。まさかこんなことになっているとは思わなかったもん」

いつもの黒く大きな目で、シノノメは私を見る。今にも腕を折られそうな格好に映るはずだが、動揺もなく平然としている。

「やっほー、さらさ」
「お疲れさまです」
「痛い?」
「多少は」
「だよね」丸く見開かれた目を若干細める。「何に釣られたか知らないけれど、自業自得だからな」
「……はい」

手厳しいが、おっしゃる通り。
だからこそ、「来なくて結構」と意地を張ってみせた。
それが元々来る予定だったとは。

「それで、こちらにはどのようなご用件で?」

私の声を代弁するかのように、榊が訊ねた。

「単純だよ。もう尾行してこないで、ってお願いしに来たの」
「なるほど。しかし、当方にも事情がありまして」
「あー、聞いた聞いた。僕がまだ《オーダー》が使えるか、確かめたいんでしょう」
「はい」声音に苦笑が混じる。「本当はもっとスマートにお願いしたかったのですが。お聞きになった通り、瀧本さんに全部見抜かれてしまいました。お恥ずかしい」
「違うよ」
「……違う?」
「僕が聞いたのは、君の依頼主から」
「え」
「お前が雇った業者どういうつもりなんだ、って怒鳴り込んでやったよー」

マスクの下で、頬を膨らましてみせる。
対する榊は呆然としているのか、しばらく動かない。

「依頼主……サワラビさん、ですか」
「そんな名前だったかな」シノノメはちらりと私を一瞥する。「あんまり一般人の前で固有名詞を出すなよ。行儀がなってないな」
「この短時間で彼と会ってきた? 本当に?」
「何なら今日もらった名刺を見せようか。今から、そこに書いてある番号に繋いでもいい」

言って、ポケットから紙片を取り出す。
いや、と榊はそれを掌で制し、めずらしく口籠もった。後ろ姿からもそれとわかるほど、逡巡が見てとれる。

「サワラ……彼は、なんて」
「最初はしらばっくれてたけれどね。ちょっと突っ込んだら、色々話してくれたよ」
「なんと、言っていましたか」

シノノメは名刺と思われる紙片をポケットにしまう。

「『調査依頼はしたけれど、方法は一任していた』、『今回は自分の使用者責任』、『委託先にはペナルティを与える』。要約するとこんなところかな」
「ペナルティ……」
「そこで僕は交換条件を出した」
「……え?」

僕が《オーダー》の力を使って、彼らにペナルティを与える。
だから、もうちょっかいかけてこないで。

「このままだと、手を替え品を替えおんなじことが起こりそうだからさ。いっそ情報を与えて、黙らせちゃおうと思ったわけ。向こうとしても当初の目的は達成できるわけだから、願ったり叶ったりだよね」

ポケットから両手を出し、胸の横でダブルピース。「WIN-WIN」と伸ばした四本を折り曲げてみせる。

「じゃ、そういうことで……」
「瀧本さらさの腕を折ります」

榊が早口で宣言し、私の背後の男を見た。男は慌てた様子で、掴んでいた私の左腕に力を込める。「痛っ」急激な圧迫を受け、堪らず声が出る。榊の顔に若干の余裕が生まれる。

「シノノメさん。《催眠音声》を使うのであれば、是非彼女にお願いします」
「なんでー?」
「瀧本さんが、それを望んでいるのですよ。かつてあなたにより奪われた記憶、それを取り戻したい一心でここまで来たんです」
「……へぇ、よくそんな事情まで調べたね」少し驚いた様子で、シノノメ。「なるほど、さらさを釣った餌はそれか」
「どうか、彼女に」
「断る」

躊躇いなく、近づいてくるシノノメ。榊は後ろ歩きで下がり、私の隣、およそ二メートルの距離に立つ。

「どうしてそんなに怖がるの? そもそも君は、僕に《オーダー》の力がないことを前提に動いていたはずじゃなかったっけ?」
「そう踏んでいたんですがね。さすがに私だって警戒しますよ。だって……」

榊の喉仏が上下する。

「さっきあなたを出迎えに行った男。一向に上がってこないじゃないですか」

一拍の間。
うっすらとシノノメが笑うのが、マスク越しにもわかった。

「折れ。今すぐだ」

榊が言うのとほぼ同時に、私の腕にこれまでにない圧力がかかる。
だが、

「七百二十四日」

張りのあるシノノメの声に、男の身体がびくりと揺れた。

「僕が連続で能力を使わずに済んでいた日数だよ」語りながら、一歩、一歩。スニーカーの軽い靴音を鳴らし、近付いてくる。「残念だなぁ。あと少しで丸二年だったのに」

やがて私たちの数歩手前で立ち止まり、

「本当ーー

マスクに指をかけ、静かにずらした。

 ーー残念だ」

「【動くな】」

刹那。
脳髄を舐め上げられたような感覚の後、時が止まる。

動けない。

頭も、手も、脚も、舌も。
瞬きひとつすら、身体が拒絶しているかのように、ままならない。

「うぁ、ふ、あ……」

私の腕を掴んでいる男から、嗚咽のようなものが漏れる。合わせて、何かが床に。唾液か。おそらく呼吸に支障が出ている。振り向けないので、全貌はわからない。

「そっちの男には何もいらなそうだな」シノノメがこちらを一瞥して、また前を見る。「さて、榊信也君。本名は、えーっと」ポケットから再び紙片を取り出し、確認。「【斎藤慎也君】」

シノノメは榊の真正面に立ち、微動だにしないその身体に向け、言葉を続けた。

「【両の掌と膝頭、それから額を床に付けて】」

榊の身体が動き出す。紐ゴムで吊るされたマリオネットのような緩慢さで、命じられた姿勢にたどり着く。

「【ごめんなさい、と百回謝れ】」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんながひゅっ……ひ」
「【やり直し。あと百回】」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめがはっ、がほっ、げほっ」
「もう潰れたの? 喉、弱っえな」

榊は蹲り、噎せながら身悶える。
後ろの男はまだ嗚咽を繰り返している。

なんだ、これは。
私は今、何を見せられている。

これまで培った固定観念や道徳。それら一切が無視された光景に、脳処理が追いつかない。赤子に戻って、一から世界を認知し直しているかのような感覚。

これが、《オーダー》。
これが、異能。
私は、
私は過去、こんなものを自ら食らったのか。

貴女、シノノメさんが怖くはありませんか。

数十分前、榊から受けた問いが頭を過ぎる。
まずい、と思い出したときにはもう遅かった。
シノノメの命で動けなくなったはずの手が、振動する。目の当たりにした恐怖に、身体が震え出している。

駄目だ。堪えろ。
シノノメがこちらを向くまでに。
震えを止めろ。

私は、この人の助手だろう。

「えーっと、どっかカメラがあるはずだけれど」シノノメはきょろきょろと辺りを見渡し、「あった」と部屋の隅まで歩く。どうカモフラージュされているのか、私にはわからないが、天井近くにそれが設置されているらしい。そちらを見上げて、ひらひらと手を振る。

「リアタイかな、これ。まぁいいや。お仕置き終わりましたー、約束通りもう僕に関わるのはやめてくださーい。あと」

そこでワントーン、声音が下がる。

「今後、瀧本さらさを狙った場合は、その時点でこちらに対する宣戦布告と見做す。お前も、お前のバックにいる親玉も同様に、肝に銘じておけ」

ポケットから紙片を取り出し、びりびりに引き裂いて床に捨てた。

その言葉に、光景に。動けない身体から、涙が溢れてくる。震えはまだ止まない。それがまた、涙を煽る。

助けてくれた。守ってくれた。
だけど、私はまだ恐怖している。

なんて不道徳。なんて不義理。
止まれ、止まれ。

噛み合わない歯を無理矢理食いしばり、唇が切れたのか。床に血が滴る。
止まれ。それでも懸命に言い聞かせる。
頭が徐々に朦朧としてくる。

「あはは」

唐突に、笑い声が聞こえた。
あは、あはは、あははははは。
横で蹲っている榊の身体から、狂ったようなそれが響く。

「凄ぇな《催眠音声》。予想以上だ。こんなのなんでもありじゃねえか」

「へぇ」
シノノメが顔だけをそちらに向ける。
「もう普通に喋れるのか。自我が強いな」

「あんた、なんでこれを二年も出し惜しみしていた。あんたがその気になれば、今の勢力図なんて容易くひっくり返るだろう」
「だからなんだよ」
「何故、力を使わない」掠れ気味の声で凄む。「能力があるなら存分に使え。稀有な力を授かった、その天命を全うしろ」
「はぁ?」

シノノメは榊に向け、歩みを進める。

「何だそれ。ノブレス・オブリージュ? 大いなる力には大いなる責任が、的な?」

しゃがみ込み、榊の顔を覗き込む。

「ねぇよ、そんなもん」

この距離にいてもそれとわかる、威圧的な黒い瞳。

「こちとらマック頼んで新刊読んでネトフリでアニメ漁れればそれで人生十分なんだ。生まれ持ったもんが何であろうが、その幸せを選んで掴んで享受する権利があるんだよ」

よく聞け。これは《オーダー》ではなく、命令だ。

「僕の平穏の邪魔をするな」

シノノメは立ち上がり、こちらを向く。

駄目だ。まだ震えている。
止まれ。

一際強く念じたところで、私の意識はぶつりと途切れた。


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