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【短編】SHINONOME〈5〉③


「あらためまして、榊と申します」

車中で差し出された名刺には、『AGコーポレーション代表 榊信也』とあった。

「主に法人向けの情報収集に関わる業務を営んでおります」

後部座席の右側に私、その隣に榊。運転席と助手席には、それぞれ体格のいい男が座っている。私たちとの間には黒い衝立があり、彼らの様子は見えない。

「頂戴します」

私は片手で名刺を受け取り、ジャージのポケットにしまった。

『情報収集を生業に』。
もっともらしい言い方をしているが、真っ当な団体でないことは明らかだ。
こちらの住所や電話番号を勝手に調べ上げ、脅し文句で誘き出した上、「ご同行を」と行き先も告げずに車に連れ込む。この状況を側から見れば、拉致以外の何物でもない。

真っ当じゃない。
ただ、情報屋として腕がいいのは間違いない。

住所や電話番号だけならまだわかる。しかしながら、シノノメが私の記憶を消したことがある、という事実までは、そう簡単に掴めるものではない。

しかも、その消された記憶の内容を教えてくれる、と言う。
『拉致』などと被害者面をしてみたものの、その交換条件に惹かれてこうしているのもまた事実だ。

「本当に、ご存知なんですか。私の過去を」

訊ねると、「まぁ、その話は事務所に着いてからにしましょう」榊は窓を見る。

「事務所?」
「今お渡しした名刺にある住所ですよ。言っても、建物自体はよくある一軒家です。別に荒くれ者が集う廃屋へ向かうわけではありませんので、ご安心を」

余裕ぶった笑み。こちらの緊張を嘲笑うかのような。

榊は細身で長身、髪はセンター分けで、狐のような目をした男だ。慇懃な態度を象徴するかのように、タイトなストライプ柄のスーツを身に纏っている。

明らかに胡散臭い。にも関わらず、こうして口車に乗せられ、ついて来てしまった。
危機感を持て、と自戒した直後にこれだ。シノノメに知れたら、さぞ呆れられるに違いない。

いや。そんな私の迂闊さなど、彼にとっては、どうでもいいことか。

「実は、我々の界隈では、貴女は有名人なのですよ。瀧本さらささん」

唐突な情報に、「へ?」と場違いな声が出た。

「あのシノノメに助手がつくなんて、前代未聞です。情報が入った当初、複数の組織がこぞってあなたの身元調査に乗り出しました。まだお若い学生さんとわかったときは、更に驚愕したものです」

『組織』という単語が、物々しく響く。
よもやそんなことになっていたとは。

「知りませんでした」
「それはそうでしょう。この程度、秘密裡に進められなければ、我々の商売は上がったりです」

ふふふ、と意地悪く笑い、続ける。

「大半の見方は、シノノメと貴女が恋仲にある、というものです」
「は……?」

それは違う。否定しようとした矢先、榊は目を閉じて首を左右に振ってみせた。

「馬鹿馬鹿しい。実に短絡的だ。少し調べれば、貴女がどういう人物かはわかる。学生の身でありながら、あの羽鳥先生に重宝されていたほどの逸材だ」

羽鳥というのは、私が以前勤めていた先の雇い主である。当然のごとく、それについても調べがついているらしい。

そろそろですね、と榊は話を切り上げ、窓の外を見た。車は大通りから細道に入り、いくつかの路地を曲がる。言われた通り、物騒な雰囲気はなく、ごくありふれた住宅街を走っているように見える。

「着きました」

榊が言うと同時に、車が止まった。前方でドアが開閉する音。助手席の男がこちらへやって来て、今度は私の隣のドアを開ける。

車から降りる。やはり住宅街。同じような外観の、縦長で二階建ての家々が並んでいる。生活感の漂う住まいは少なく、ほとんどが空き家のようだ。

「こちらです」

榊がこちらに回ってきて、そのうちの一軒へと私を導く。先ほど車のドアを開けた男が、玄関の扉を解錠。榊と私は彼に続いて、屋内へ。「二階へどうぞ」。促されるまま階段を登り切ると、そこには廊下も扉もなく、応接セットを中央に配置しただけの無機質な空間があった。

「どうぞ」

奥側のソファを案内され、腰掛ける。背もたれを挟んで斜め後ろに、ここまで私たちを先導してきた男が立った。さながら私のSPのような立ち位置だが、実際には真逆、いざと言うときは実力行使も厭わない見張り番だろう。

応接セットのテーブルには、紙袋がひとつ。真向かいに座った榊が指先でそれを軽く押す。

「まずはこちらを」

袋の口は開いており、今日、このジャージに着替えるまでの間、私が身に纏っていたワンピースの生地が見える。

鳥肌が立つ。
顔には出さぬよう、歯を食い縛る。

「要りません。処分していただいて結構です」
「承知しました」

榊はすんなりと頷き、紙袋を引き上げてソファの縁に置いた。こちらの視界に、ぎりぎり入る位置。こちらの動揺を煽るのが目的だろう。そう思うと、口惜しい。

息を吸う。
落ち着け。場の空気に飲まれるな。

もう一人の男が、遅れて二階に上がってきた。「コーヒーを」榊が告げる。男は無言で頷き、階段をまた降りる。

「長居をするつもりはありません」

私は言った。

「まぁ、そうおっしゃらずに」
「本題に入ってください」

榊は息を吐き、「わかりました」と前髪を払った。

「我々の目的は二つ。ひとつは言うまでもなく、シノノメさんと会合し、こちらの依頼を引き受けていただくことです。まずはそれについて、助手である貴女の力をお借りしたい」

いきなり難題だ。

「申し訳ないですが、依頼を引き受けるか否かはシノノメの判断となります」
「承知しています。貴女はただ、我々とシノノメさんを引き合わせてくださればいい」
「私からシノノメに連絡をとる手段はありませんが」
「ここで待機いただくだけで結構です。あなたと連絡がとれなければ、シノノメさんは血眼になって、やって来るでしょう」

そうだろうか。彼が血眼になる姿など、想像できない。案外あっさり見捨てられてしまうのではないか。

しかし、

「必ず来ます。ご安心を」

榊には自信があるようだった。

「シノノメが来ない場合は、どうしますか」
「それは、そのときに考えましょう」

にやりと笑って、榊は足を組み直す。こちらの牽制など、意に介した風もない。

「わかりました。待機するだけなら」私は頷く。「それで、ふたつ目はなんでしょう」
「ご協力ありがとうございます。いえ、ふたつ目は大した話ではありません。私の雑談に応じていただきたい」
「雑談?」

聞き返すと同時に、階段から陶器の擦れ合う音がした。先ほど下がった男が、コーヒーカップを載せた盆を運んでくる。カップはふたつ。男は私と榊の前にそれらを置いた後、階段付近まで戻って、盆を持ったまま立つ。

「どうぞお飲みください。ご不安なら、こちらで毒味をしましょう」
「いえ、結構です」どちらにせよ、口をつけるつもりはない。「雑談、とは?」
「雑談は雑談ですよ。強いて言うなら質問コーナーです」
「質問?」

榊はコーヒーカップを持ち上げ、一口啜る。そして、これは単純な興味なんですが、と前置き、続けた。

「瀧本さらささん。貴女、シノノメさんが怖くはありませんか」


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