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【掌編】漱石とストロベリー

夏目漱石の『こころ』について思いを馳せる時、大抵私は行為の真っ最中であるのだけれど、それはそれとして文学少女でもなんでもない私が漱石なんぞを槍玉に上げるのは、ひとえにこの作品に纏わる一説が印象に残っているからである。

先述のとおり私は文学に嗜みがなく、『こころ』についても全編隈無く把握しているわけではない。高校時代、教科書に掲載されたごく一部、先生の遺書による独白に触れただけ。その独白についても詳細は朧げで、大まかなあらすじを記憶しているのみである。しかし、そんな拙いあらすじすら未読者にとってはネタバレになるに違いなく、いかに人口に膾炙した名作と言えど、ここは断りを入れておく必要があるだろう。

以下、『こころ』の物語の核心に触れる記載がございます。ご注意ください。

端的に言うと、親友のKを欺いて自殺に追い込んでしまう、その一部始終と葛藤が先生の遺書では描かれている。以下、ストーリーの流れを掻い摘んでお伝えする。

①先生とKは下宿先で隣の部屋同士の親友
②二人とも下宿先のお嬢さんに恋心を抱いているが、Kはそれを先生に打ち明けている一方、先生は内に秘めている
③先生がKを出し抜き、お嬢さんと結ばれる
④Kが下宿先の部屋で首を切り、自殺する

以上である。

勿論これだけでは伝えきれない魅力や味わいがあるだろうが、そこは原本を当たっていただくべきものとして説明を続けると、冒頭でお伝えした「一説」とは上記の④、Kの首切り自殺に関わるものだ。

先生とKの部屋は隣同士で、両者を隔てるのは襖一枚。明け方、先生がその襖が僅かに開いているのを見てとり、不審に思って中を覗くと、首を切り倒れているKを発見する。

重要なのは次だ。

作中の描写によれば、部屋を隔てる件の襖に、飛び散ったKの血液が付着していた、とある。

「私の友人に医師免許を持つ者がおりまして」

当時の教員、名前すら忘れた男の嗄れ声を、そこだけ鮮明に覚えている。

「その友人が言うには、Kが自ら命を絶つため刃を立てたのは記載からして頸動脈。その切り口から飛び散る血は、前にしか飛ばないんだそうです。つまり」

Kはわざわざ先生がいる方を向きながら、首を切ったことになる。

とのこと。

フィクションの世界にリアルの専門知識を持ち込み、いたずらに深読みをするのも如何なものか、とも思うところ、しかし、これには当時身体が震えた。「怖い」だの「サイコ」だのとクラスメイトは騒いでいたが、私が身震いした理由はそうではなかった。

いや、もうそこまで行くと、愛じゃん。

そう思った。

親友でしょ。裏切られたんでしょ。死んじゃいたいレベルの失望を喰らったんでしょ。
じゃあそんな奴の顔なんて、もう見たくもないと思うのが普通じゃね? つか私なら先生を殺すけどな。

だけどそうはせず、先生の隣の部屋で、先生に見つかりやすいよう襖を開け、先生の方を見て一生を終えた。何故か。先生を傷つけたかった、先生に見つけて欲しかった、先生に覚えていて欲しかった。何故か。お嬢さんとの未来を奪われたことよりも、先生との友情を失ったことの方が、Kにとっての絶望だった。
だから傷つけようとした。だから自ら死んだ。そうすることで、先生の人生に自分という存在を刻みつけた。
一世一代の嫌がらせ。心の底から恨んで辛んで妬んで嫉んで。その熱量はいずこから。そんなもん単純明快、愛一択だろ愛愛愛。

「あっ……ん」

思わず口から出た喘ぎに、現実に戻る。

乱れたシーツの上、仰向けに寝そべる私に四つん這いで覆いかぶさるトモ君。ベッドに額を付けながら、右腕を私の股間へと伸ばし、中に忍ばせた指を鉤針型にして動かしている。卵かけご飯を掻き混ぜるみたいな粘着質な音に呼応し、下腹部から痺れに似た快感が走る。少し痛くもあるけれど、「あ」だの「ん」だのと漏れ出る声に自ら高揚し、それも紛れる。私の喘ぎに反応して、トモ君の呼吸も荒くなる。私もトモ君の先端に手を伸ばすと、女の子みたいに細い声で呻いたトモ君が身を捩る。

そんな塩梅で互いのいいところよくないところを外から内から探り合い、一連の流れを経て行為は終わった。トモ君とこういうことをするのは初めてで、試行錯誤はあったものの、概ね上手くいった方だと思われた。

トモ君と私は付き合ってはいない。
愛しているわけでも、愛されているわけでもない。

脱力しながらも指先で私の髪を掬ってはくるくると巻く遊びに興じるトモ君の横で、私はホテルの天井をただただ眺める。

ここからは苺の話。

世で叫ばれる「愛されたい」の大半が「私が思うような形で愛されたい」の略であり、たとえそれが満たされずともそこに愛はあると気づくべきなのだろうが、果たしてそんな愛は必要か? 私は思う。

苺のコンフィチュールを求めていたのに無骨なショートケーキを用意され、苺は苺だ、と言われているようなもので、そんなもの私は欲しくないのだから、結果としてそれは「愛されていない」ことになりはしないか。贅沢を言うな、とお叱りを受けるかもしれないが、ただ苺だというだけで平身低頭恭しくそれを享受すべきと言うならば、それはもはや苺の奴隷に他ならず、つまるところそこまで私は愛を崇拝していない。

ただ愛されるだけでは足りない。
愛されたいように愛されなければ、意味がない。

注意しなくてはならないのは、ショートケーキにも苺はあり、お腹が空いていれば私はそれを食べるのだけれど、そこで舌鼓を打ったとて、それは私の求める苺の頂き方ではないということだ。空腹時の苺が美味であるのは、まさに私が空腹であるから、あるいは苺から離れて久しくその魅力を忘れてしまっているからであり、例えば少しばかり優しくされたぐらいで絆されてしまう現象の最たる要因は、この「愛への不慣れ」にある。

故に逆説的ではあるが、真実の愛を見極めるためには、偽物の愛に触れなくてはならない。
そして私にとっての真実の愛とは、Kが先生に対し抱いたような、命懸けの愛である。

「何、ぼーっとしてんの?」

引き続き私の髪を玩具にしながら、トモ君。ううん。なんだよ。ちょっと眠くて。かわいい。愛おしげに撫でようとしてくるトモ君に場違いさを覚えながらも、嬉しいは嬉しいので頭を差し出す。手が後頭部に回り、引き寄せられる。

「もっかいする?」

正直もう疲れたし本当に眠たくなってきたけれど、なんとなく流れ的に応じることにする。トモ君の唇が額に。わざと唾液を含ませ音を立てる。それが数回。

リビドーに裏打ちされた、薄っぺらい偽物の愛。トモ君もまた、私が「愛への不慣れ」解消のためつまみ食う、ショートケーキの一皿だ。

私が裏切っても、この男は頸動脈を切らない。Kのように全身全霊で私を傷つけようとはしない。

私を愛さない。

再び体温が高まりつつあるのを感じたとき、電話が鳴った。

トモ君が身体を起こして、全裸のままベッドを離れる。机に置いたスマートフォンを取り、タップして耳へ。「もしもし」。私に向け、人差し指を口に当てる。うん。いや、まだバイト先。え、マジ。うれし。応答が続くのを、シーツに包まりながら私は見守る。

彼女がいるのは聞いていた。私と寝るぐらいだからてっきり冷めているのかと思いきや、存外仲は良さそうに映る。

「悪い。彼女が部屋に来てるみたいでさ。俺、帰るわ」

案の定、手刀を縦に振り、トモ君が苦い顔をする。

「うん、わかった」

私は答える。

帰り、タクシー使いな。テーブルにお札を置いて去っていく背中を、ベッドに横たわったまま見送る。扉が閉まる。シーツを引き摺りながら立ち上がり近づくと、万札が一枚。

つん、と鼻の奥に刺激があった。続いて、ひくりと唇が戦慄く。

「愛さなければ愛されない」。必ずしも真理とは言い難いが、往々にして愛も情もギブアンドテイクだ。トモ君にとってもの私もまたショートケーキであったところで、なんら不思議ではない。

だから泣くこともない。

トモ君が置いて行った万札を手に取る。
確か夏目漱石のお札もあったはずだが、そこ描かれているのは、私に愛を教えてくれた彼の人ではなく。

誰だっけ、これ。

目を凝らせば名前がわかるはずのところ、しかし、視界が滲んでうまく読めない。

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